見出し画像

ASD×カサンドラ座談会(2回目)の感想

昨夜、ASDホストがTwitterで開催したスペースにお邪魔しました(2回目)。今回はその時の感想です。

前回(1回目)の感想はこちら→「ASD当事者3名と話してみた感想

前回もそうでしたが、彼らの語彙と頭の回転の速さにはやはり面食らいます。あの場にいると、まるで自分がバカになったような気さえする。いやバカは合ってるけど。

彼らからすると、私はきっと「ここをもっとこうガバッと!」「バーっとやってカッ!って締めて!」とか抜かす、いかにもバカっぽいTV番組プロデューサーなんじゃないかな(プロデューサー巻きしてるタイプ)。

ただ話を聞いているだけでも「なるほどなぁ」と頷くことが多いですが、一方で思考回路の違いから明らかになるちょっとしたズレや感覚の違いなどが興味深い。今回は特にそれを感じました。

今回のキーワードは「理解」「情緒」「バカ」です。


彼らの「理解」、私の「理解」

【理解】
1:物事の道理や筋道が正しくわかること。意味・内容をのみこむこと。「理解が早い」
2:他人の気持ちや立場を察すること。「彼の苦境を理解する」
──Weblio辞書──

Weblio辞書によると、「理解」は上記の通り2つの意味が記されています。面白いことに、この二者が彼らの「理解」と私の「理解」を端的に表しているような気がします。

彼らの「理解」はおそらく1で、物事の道理に思いを馳せて客観的に整理し処理している印象。「理解」という言葉は一般的にこの意味で使われることが多いと思いますが、自分自身の思考に目を向けてみると、おそらく普段の私は1をやっているつもりで2をやっていることが多い。言うなれば情緒的理解でしょうか。物事の道理を真に理解していなくても、気持ち的に受け入れて認める感じ。

これが私がクリエイターやアーティストとしてやってこられた理由で、彼ら属性の人達がプログラマーや研究者に適正があるといわれる理由でもあるのかもしれません。

言い換えれば1は「説明書を読んでこのマシンの扱い方を理解した」の「理解」で、2は「彼の言動から本心を察した」の「理解」みたいな。

そもそもこれは私自身の性格かもしれませんが、もともと自覚があるくらいには(特定の)物事の解釈と咀嚼が雑です。

「特定の」。

たとえば人とのコミュニケーションがそうですし、仕事でも重要な局面以外は割と雑。そこまで深く考えず「まぁええわ雰囲気雰囲気」と、ムードとアドリブで生きているようなところがあります。

自覚がないだけで、定型の多くもおそらくこれに近い感覚で生きていると見ています。というのも、実際に私はこのやり方でこれまで人間関係や仕事、プライベート、恋愛や結婚などがうまくいっていたので。それが通用する場所にいたからうまくいっていたのでしょうけど。まぁ類友ですよね。とはいえ、偶発的に出会う不特定多数ともこれでうまくやれるのは、やはり感覚的に察するコミュニケーションを行う人の割合が多いということではないでしょうか。

そして何となくこういう雑さがあるから、多くの人は無駄に争わずゆとりを持って関係を築けているのかな──とも思いました。つまり良くも悪くもテキトー。かっちりかみ合う歯車でなく、遊びを持たせてお互いの含蓄を許容する──的な。

実際私が今回、こういうきっかけで「自分自身の思考の内訳がよくわからん」となっているのも、これまで深く考えずにうまくやってこられたからであって、つまり自分の思考を分解する機会がなかった。もしうまくいかないことが多かったなら、定型擬態術を学ぼうとする発達方々同様、自分や他人を分析してまずは頭で考えると思うんですよね。

さて、1の理解を運用すると、物事を精査するスタンスになるはずです。それは言うなれば学問のスタイルで、小さな取りこぼしもないよう細部まで整合性を大切にし、すべての部品に一本筋を通して初めて得られる「理解」です。あるいは「証明」と言ってもいいかもしれません。彼らの基本スタンスがこういう印象ですから、この分析はそう大きく外れてはいないはず。

一方、2の理解を運用すると、大枠の方針や骨子だけ把握し、細部は詰めずに進行するスタンスになります。いわゆるラフです。プレゼンの場やリリース段階にある企画の会議などでは1が必要ですが、初回の打ち合わせでは2で十分。これが私の感覚ですが、彼らは初回から1の精度を求めたがる性格なのかも。

いずれにせよ、この「理解」の方向性が異なるのは何となく感じてはいましたが、実際にこのキーワードが彼らとの対話から生まれて、よりはっきりとその違いを感じました。

なお途中でカサンドラの方が1名参加しましたが、彼女は私と同じ2のタイプのようでした。

彼らの「情緒」、私の「情緒」

【情緒】
1:事に触れて起こるさまざまの微妙な感情。また、その感情を起こさせる特殊な雰囲気。「情緒豊かな作品」「異国の情緒があふれる」「下町情緒」2:「情動」に同じ。「情緒不安定」

【情動】
恐怖・驚き・怒り・悲しみ・喜びなどの感情で、急激で一時的なもの。情緒。
──Weblio辞書──

カサンドラ界隈ではよく、発達パートナーが「宇宙人」と表現されています。私もそう表現したくなる理由がわかります。彼らの一部は感情がないように見えたり心が通じないように感じられたり、あるいはまるでAIのような思考や挙動をする特徴があったりするからです。その独特な雰囲気を表しているのでしょう。

定型がどういう情緒を持っているのか、それを言葉にするのはとても難しいですが、恋愛の場面をイメージするとわかりやすいような気がします。定型の恋は燃えるように感情的なもので、それこそ寝ても覚めても恋に夢中でいられるような感覚があるはずです。少女漫画のような。

我が子に対する愛も本質的には同じで、息子が生まれた頃はそれこそ初恋に陥っているような感覚でした。

男女の恋愛となるとここに性欲や承認欲求などさまざまな欲求が複雑に絡み合います。ときには駆け引きを楽しむことも。

おそらく(おそらく)ASDにはない感覚でしょう。何なら「なぜそんなめんどくさいことをするの?非合理的」とか言われそう。

もちろん定型の恋は相手ありきで、相手が人間だからこそ楽しいし情熱を注げるし、時には傷ついたり悲しい思いをしたりもします。「こんなに傷つくならもう恋なんてしたくない」と思いながらもそれを繰り返すのは、代償よりも大きな幸福感を知っているからではないでしょうか。

日常の中でも、小さな思いやりの応酬や優しさ、気づかい、真心、気配り、色々なツールを駆使してお互いの気持ちを確認し、存在意義を高め合っているように思います。この「思いやりや優しさその他諸々」の定義もどうやら両者は違います。恋人や家族など近しい間柄に限らず、たとえば飲食店におけるサービス提供者と利用者においても、この定型的な機微が社会的な関係を構築する上でとても大きな役割を果たしています。一流と言われるお店ほどこれを大切にしています。

つまりはお互いを肯定して安心と安全を確保しているのかもしれません。ASD的な価値観からすると奇妙で難解な行動らしく、彼らはその定型的な情緒を(様々な理由から必要に応じて)分析したがる傾向にあるようですが、当事者は(少なくとも私は)深く考えず、ほとんど本能による反射のようにそれを行っているため、かえって自分がどういう機微でそれを行っているのかを言語化できません。こういう理由で、私の最近の興味は「発達特性を知ること」から「定型特性を知ること」にシフトしつつあります。

社交辞令は、これが慣習化された儀礼的なものなのでしょうね。昨日のスペースでもお話ししましたが、定型の社交辞令はほとんど挨拶や天気の話のようにとりとめのないもので、「なくてもいいけどあった方がいい」類です。

なお、私はこの社交辞令が好きでないタイプで、かなり早い時期に社交辞令を捨てたつもりでいました。しかしそれでも人間関係がうまくいくのは、結局のところ定型的な無意識のバランス感覚でほかの部分を大切にしているからなのだと思います。

こういう情緒に生きていればこそ、ASDパートナーの冷めた感覚に失望したり落胆したりするのでしょう。たとえばカサンドラ女性など、交際当時は「これはあの人なりの駆け引きなのかも……」とドキドキしていたものが、恋をし結婚をし相手をより深く知るにつれて、あれが駆け引きでも何でもなくありのままだっただけ──という現実を知り「ガーーン」となる。「計算ならエキサイティングなのに、素でそれはあかん」みたいな、こういう経験をされた方は少なくないはず。

ASDからすると「いや、勝手に期待して勝手に失望してるだけやん」かもしれません。ここがトピックの肝のような気がします。

相手の期待に応えられる奴ほど、定型文化では強いわけです。

なので仮に発達障害者でなかったとしても、たとえば自己愛性人格障害の定型は、定型からも嫌われやすいでしょう。田舎から出たことのない無知で無教養な老害も同じ。人の幸せにコミットしないからでしょうね。同じく深刻な精神病を抱えていたり、切迫した状況にあり他者に配慮する余裕がない人も忌避される傾向があるように思います。本来であればそういう人にこそサポートが必要だと思うのですが、この辺りがASD的に言う「定型の冷たさ」なのかもしれません。もちろん人によるのですけど。

恋愛に話を戻しますが、ASDからすると定型的な恋愛志向はめんどくさく非効率的なシステムかもしれません。しかし私にとっては、たとえ代償があったとしてもこの「定型的な情緒コミュニケーション」は、人生を豊かに生きるためにほとんど欠かせないものでもあります。

一方、昨日は「ASDにも情緒はある」とどなたかが仰っていました。

彼らなりの情緒はあるのだと思います。定型のそれと違うだけで。

しかし定型が定型的な価値観で情緒を定義している以上、定型からすると彼らには「情緒がない」ということになる。相対的に彼らが定義する情緒を定型が持っていないとすれば、彼らからしても定型は「情緒がない」となるはずです。

なので「情緒がある/ない」の議論はどうやら不毛で、どういう情緒を持っているのかをお互いに説明できるのが理想ではないでしょうか。きっと彼らは彼ら自身の情緒を言語化できるか、するまでにさほど時間はかからないような印象です。一方、私としてはかなり時間を要しそう。脳科学や心理学などへの造詣を深め、エビデンスを示して説明しなければ通じないでしょうから。感覚的にやってきたことを言語化するというのは学問の領域(つまり彼らのフィールド)なので、私には骨の折れる作業です。もしかすると彼らの方が定型特性を正しく分析&言語化できるのかも(現時点では期待だけで、それはそれで困難だろうとは思っていますが)。言語化への情熱と気力が今の私にあるかというと、おそらくありません。とりま他の方にお任せします笑

彼らの「バカ」、私の「バカ」

バカの定義もどうやら彼らと私では違うようです。

そもそも「バカ」という言葉を用いるのが適切かどうかはいったん横に置いておいて、冒頭に述べたように、彼らと話していると自分がバカになった感覚になります。おそらく彼らも「こいつバカだな」くらいには思っていると思う笑

これはたまたまかもしれませんが、1回目の座談会でお話しした3名を含め、昨日のスペースでスピーカーとして参加していた方々は、発達&定型かかわらず全員IQが高い印象でした。彼らからすると私はバカだと思います。単純に「知識がない」とか「言葉を知らない」とか「勉強ができない」といった類の。

一方、私が日常生活や仕事などにおいて「バカ」と感じる相手は、他人を不快にさせる行動をする人間が多かったです。つまり端的にいえばASDっぽい人。

だからといってASDをバカにする気持ちがあるわけではありませんが、身近にいると「いやお前バカなん?」と、昔はASD系の友人などによく思っていました。というか言ってたわ。しかしバカだけど魅力的だったりユニークだったりする人が多かったので好きでしたが。そして彼らが全員、私のそのDisを好意的に受け止めていたのも今思えば興味深いところです。

これはきっとIQとEQの差なのでしょうね。

彼らはIQが低い人をバカと感じ、私はEQの低い人をバカに感じる。

彼らが低IQに対し「いやだってお前、話にならねぇじゃん」と思うなら、私は低EQに対し「いやだってお前、人望ねぇじゃん」みたいな笑

いやわからんけど、ここは単なる憶測です。

自分のIQやEQの程度については知りませんが、私は自分が「人を幸せにする能力」に価値を置いているような気がしています。これもやはり今まであまり深く考えたことはありませんでしたが。気が合う人や優秀だと感じる人も大体はそういうタイプです。

たとえバカでも、幸せを創作できる人間であることに私は喜びを見出している様子。ただしこの話をするとなると、「幸せ」を定義する必要があります。これについてはまたそのうち気が向いたときに考えてみたいと思います。

昨日のスペースの最後あたりで、私が「なんだかんだ幸せならOK」みたいなテキトーなことを言ったら、ASD(?)の方が「自分の幸せを重視していない」といった旨の発言をされて「マジ?」となりました。

滅私奉公の精神だろうか?

私はテキーラを飲みながらライムをかじっていたので、眠くなってきたこともありちょうどそのあたりでおいとましましたが、また機会があればこの辺りのお話しを聞かせていただければなと思います。

さいごに

私は彼らに対して主張したいことがあまりないので、スピーカー(話し手)としての適性は低いと思います。そもそも私は昔から発達が好きですし、根底に彼ら属性に対する好意的な感情がある。過去に議論して楽しかったのは発達だし、一緒にバカやって楽しかったのも発達。創作活動に打ち込んだりケンカして仲直りして楽しかったのも発達。ただ仕事や恋愛、結婚など社会活動をともにできなかったというだけ。こういう背景があり、理屈や知識はともかく、発達にそれなりに適応できる土壌はあると思います。それでもカサンドラになるのが怖いところですが。

発達当事者がセッティングしたスペースには、当然発達当事者がスピーカーなりリスナーなりで参加する率が高まるでしょう。「withカサンドラ」と銘打っても、実際その場に参加する勇気や気力のあるカサンドラはおそらくあまり多くないはずです。わざわざ自分の傷を広げに行くような真似、普通はしたくないですよね。私がこうして彼らに関心を持つのは、単にカサンドラの深刻な症状が回復したことと、先述したような土壌があるからだと思います。好奇心も。

とはいえ、やっぱり聞きたいのは「典型的な発達&典型的なカサンドラ」の対話なんですよねぇ。今の私では、本当にヤバイ問題点を抽出できる気がしません。だからといってカサンドラで苦しんでいる方に、無責任に「来てよ」とお願いできるはずもなく。

彼らが果たして典型的な発達かどうかはわかりません。私が知る発達で、ここまでIQが高そうな人らはむしろ少数だった。私からすれば希少な存在です。

しかし自己の特性への解像度が高いからこそ、私が知るような一般的な発達(?)が言語化できないものを言語化してくれる可能性があるのではないかなと思います。そしてそれは、カサンドラ真っただ中や、回復へのステージへ踏み出そうとしている人にこそ必要な情報なのではないかと個人的に思うところ。私自身がTwitterで当事者とのやり取りを通して救われたところがあったので。

彼らの論調に傷つく人もいると思います。たとえ彼らに悪気がなかったとしても、怒りに駆られたり不安になったりするカサンドラはいるはず。カサンドラでなくても、定型なら「は?」と思うことはしばしばあるかもしれません。実際私も癪に障ることがありますし。

ただ、これは私の印象ですが、彼らの言葉の選択方法がカサンドラや定型にとって適切でなかったとしても、こちらの投げかける質問や疑問には誠実かつ真摯に応えてくれていると思います。こちらが敵意を持たずに聞く姿勢を示せば。

こういうASDの誠実さ(?)は、定型よりよほど信用に値するというのが個人的所感です。駆け引きが必要ないわけですから、もし彼ら属性に対して率直に訊いてみたいことがあれば、トライしてみる価値があるかもしれません。

私は、質問や疑問や迫りたいテーマなどを既に持っていない自分を少し残念に思っています。カサンドラから回復した余暇を楽しんでいる段階なので、背伸びせずマイペースにTwitterを楽しもうと思う反面、「もっと早くこういう場があれば、エッジの効いたやり取りができたかもしれない」という些細な未練も。

いずれにしても、人は未知なるものにおののき不安や恐怖を抱くものです。

それを克服するには「知る」しかない。

発達障害に限らず、人生全般において言えることだと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?