正しさのくだらなさ

「正しさ」とは、傷ついた弱い自分を隠すためのものです。

しかしそれは、近しい人との信頼関係を損ない、幸せを遠ざけるようです。

「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)


正しさに囚われる現代

情報が多くの人間に届けられることになったことで情報の民主化が急速に進みました。

社会のコンプライアンスはより一層厳しくなり正しい社会を作るために毎日様々なルールが追加されて精査されています。

僕は実際にはこの過剰な正しさを求める社会は豊かな暮らしを消費していると考えています。

正しさ≠幸せ

正しさを追求する事は幸せなのでしょうか?
誰かを傷つけるような事象を否定する事は大切だと思いますが、近年の社会の流れを見ているとほっといても問題のない所ですら問題視するような風潮があると思います。

前時代的な考えを否定するために行っているのか、現状に対する不満足がより一層正しさを求めるアクセルとなっているのか様々な理由があるでしょうが、正しさ中毒みたいな物を感じます。

ネットがリアルへ滲み出る影響

ただSNS内での告発ごっこや提言ごっこは対して影響もない物を多いので直接的な効果はないと思っています。

イマジナリーエネミーを作って一致団結して注目を集めるというのは、昔から一定数行う人はいたと思いますが、問題は影響がリアルへと滲み出る事だと思います。

メディアで毎日コンプラ違反について言及しSNSでも炎上、炎上、炎上とあれば普通に考えて行動しにくい社会になっています。

その行動しにくい社会こそがイノベーションを生み出せない日本を作っていると思っています。

イノベーションを生み出すにはある程度のリスクを背負う必要もあり、その中には一般的な正しさで推し量る事の出来ない部分もあります。

そのリスクを社会がゼロにしようとする事は不可能でもある上に各個人にとって低めの平等が押し付けられだけの劣悪な環境だと考えています。

この先に待っているのは正しさに溢れた監視社会なのか、もう一度伝統的な豊かな社会になっていくのかは一人一人の精神性にもよるのではないかと、年の瀬から考えていました。

僕個人としては情報が過度に詰め込まれていて、無意識下で行動に影響が出ている人が大半だと思うので、あえて情報を遮断する、知りすぎない努力という物も豊かさに繋がるのではないかと一つが仮説を立ててみました。

noteで情報発信しといて矛盾してるような気がしますがそれはまぁ正しくはないけど、悪くはないと思って頂けたら幸いです。

今年もありがとうございました。

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