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【短編小説】平凡な、あるいは非凡な一日のこと。

私は都会というものを好まない。
それは、生来私が喧騒に耐えうる心身的強さを持たぬせいであるかもしれない。人波、などというものに揉まれてしまうといけないのだ。途端に頭痛がきて、吐き気を催す。それだけならまだマシで、酷いと立っていられず座り込んだりする始末だ。
ビルの軍隊や人の濁流というのは、嫌なものだ。誰も彼も、何もかも、盲目の猪の如く猛進し、薄ら冷たいふうが漂っている。
しかしけれども、私は都会外れに住む人間でありながら、都会的な無関心さを覚える人間でもあった。人とは目を合わさない。猪突猛進、頭の中は自分の予定で詰まり隙がない。
私が都会を嫌うのは、私の中の厭な性質が削り出されてギラギラと浮き立つからであるかもしれなかった。不愉快、しかし納得。
ふと見た硝子の奥に、顔のないマネキンが立っている。洒落たコーディネートで、気取った立ち姿をして、目も無く人々を見つめている。私はゾッとした。のっぺらぼうが恐いのでない。ただ、硝子に走る黒い線が、マネキンを閉じ込める檻に見えたからだった。馬鹿馬鹿しいが、空恐ろしかった。
私は目を伏せてマネキンの前を通り過ぎた。
そうすると今度は、宗教家の男が何やら熱心に信者を求めて語っているのが目に入る。イヤホンから流れる音楽の向こうからでも、その声は聞こえた。
「今幸せですか。神について、深く知りませんか」
私は、過去に自分が勧誘にあったことを思い出した。セミロングの黒髪に長いスカートのオバサンで、幸の薄そうなのは寧ろ彼女の方であった。私は、二十分ほど彼女の話に耳を傾けた。幸福とは、人生とは、宗教とは、彼女は細い声で私に語りかけていた。熱心だったことは記憶にあるが、内容は白紙である。
語り終えるのを待って、私は「じゃあ」と言って立ち去ったのだった。
この時とほとんど同じように、私は宗教家の男の前を横切って歩いた。頭がクラクラしてきた。
熱風が体を撫ぜて通り過ぎる。
私は、木の下にあるベンチへ足を向けた。都会の中において、それは捨て置かれた孤島のようなものであった。周りを鳩が自由自在、まるで我が家のようにしている。
ほぅ、ほぅ……ほっほぅ……ほぅ、ほぅ……ほっほぅ……と、鳴いているのがいる。あるいは、無心極まる顔付きで羽をバタつかせて行進を続けるのもある。カップルのように寄り添って嘴をくっ付けているのもいる。あるいは孤独に土をほじくっているのも見えた。
私は全く、懐かしい気持ちでそれらを確認して、ベンチへ腰を落とした。我が家の近くは鳩の楽園で、木陰からよく鳩の声や気配が沸き立っていたものだった。
おにぎりの袋を破りながら、私は鳩たちにそれを分け与える夢を見た。私が少しでも米粒を落としたら、私は直ちに囲まれるのだ。そして、仕方がないなと更に米粒を地面へやれば、鳩たちは日光を見るように私を見上げる。期待に満ちた瞳が、私のみに捧げられるのである。
……鳩相手に畏敬を集めてどうするネ。
私の中の"冷静"が、浮かれた私の脳ミソに喝を入れた。しかし、私はイヤイヤと反論してみせる。
──かのような生き物にこそ、人間性を認め敬われなくてはならぬのだよ。人間に人間性を畏れられてどうする。理性で覆い隠される本能的な信頼など、嘘がきくから信用ならない。
カチリ。耳の奥で何かの音がした。ハテ、と思っていると"冷静"がケタケタと笑い出す。
……オマエは鳩の神になるつもりか、面白いヨ。ウン、実に面白い。
その言い草に、私は鳩たちを見た。
人間というのは、すぐに神様とか仏様とかに縋る癖がある。鳩たちは、無縁だろう。
"冷静"が神などを持ち出したのは、先程見かけた宗教家の男の影響に相違ない。
──人間は、何かどうしようもないことに当たると直ぐに神様を持ち出す。それが全ての意味を成すというかのようじゃないか。
……オマエがそうだからさ。嫌がっていても、オマエはたいして人間だヨ。
──そうかい。
私はそれきり、"冷静"に返事をすることをやめた。自分自身と宗教談義など、決着のつきようがない。
おにぎりを頬張り、どこか遠くへ視線を向けた。おにぎりへ視線を戻した時には、もうあと一口だった。
アグリ、と口に放りこんで。私は小さな気配に気が付いた。それは、足元に座り込む鳩であった。鳩は、まるで私の愛鳥であるかのように落ち着き払っていた。のみならず、警戒することを放棄していた。
羽をふくふくと膨らまし、頭のあたりを逆立てて、目などは今にも眠ってしまいそうである。
私は鳩に対して言葉を持たぬので、黙って足元へ居させた。鳩は別に、私のオコボレを狙っている気色などはない。ただ、私の足元で目を開いたり閉じたり、羽を震わせたりを繰り返すのみであった。
もしかすると、この鳩は頭の足らぬたちなのかもしれないと思った。だから、私を信じているのだ。
だからといって、追い払うのは気が進まない。結局のところ、私がこの鳩に、傍に座ることを許されたのだ。
恐悦至極痛み入る。野生が私を受け入れた。
私は暫く、鳩に許されたひとりの人間であった。