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表現方法の多様性

人間という生き物として、
“言葉”を使ってコミュニケーションをとることは、自分という存在を周囲に理解してもらう上で必要不可欠である。

“声を発する”

ということがこの社会を生きていくうえで、かなり重要視されている。
声を発することが苦手な人、言葉でうまく説明できない人は生きづらい世の中だ。

もっと他の表現方法にスポットが当てられればと思う。
声は出せなくても、絵を描いたり、歌を歌ったり、踊ったり、文章を書いたり、何も言わなくても弱い人のそばに寄り添ったり、、
表現の仕方はさまざまだ。

“言わないとわからない”

確かにそうだけど、言葉にすることだけが表現じゃない。だからこそ、言葉以外の表現方法にもスポットをあてるか、
もしくは、“言葉”という表現だけをすべてと捉える世の中であってほしくない。

コミュニケーション能力が発達した人間の基準値に満たない、私たち発達障害、もしくはグレーゾーンの人たちは、まずその壁に直面するのではないか。

今さらながら、noteをはじめた理由。
それは、自分を表現するのが苦手だということが、根本にある。
自分のことを自分自身、うまく説明できなくて、
好きなことや興味関心の限定されたおしゃべりや雑談は得意でも、
瞬間的に脳内の情報を口頭で説明することは難しい。

そんな中で私は、幼いころから文章で伝えることは得意だった。
文字に起こす作文とか小論文、レポートなど。

小学校のときはなんかの冊子に作文を載せられたり、中学でも作文をコンクールに推薦されたり(清書がめんどくて断った)。
大学入試では試験や面接より、小論文が一番得意だった。センター試験(死語)の点数がボーダーより下だったのになぜか受かってたところは小論文に自信があった。
あと、全然専門性の違うある人のレポート(たしか文化について)を代わりに書いたらまさかのSをとった笑(本当はダメだけどもう時効でしょ笑)

なんか自慢みたいになったけど、言いたいのは、文字に起こすのはこんなに得意なのに!話すとなると急に難しくなる。
頭がゴチャゴチャして、順序立てて説明ができない。
頭の中ではわかってる、自分ではわかってる、自分の意見もちゃんとある!でも相手にうまく伝えられないもどかしさが悔しい。ADHDあるあるだと思う。

一番最初の記事でも書いたけれど、


noteでは、同じように生きづらさを感じている人の生きるヒントになれば、と思うと同時に

自分自身について書いて整理することで、自分自身の理解に繋がると思っている。

閲覧人口の多いアメブロや他のブログでもなく、
noteにした理由は、“雑記”というスタイルが自分にとって、なんかしっくりきたから。
作家でもない素人の長文を読もうなんて人は
ほとんどいないと思うけど、私と同じようにこの、noteという機能にどこか惹かれて訪れてくれた人の目に留まると良いなと思う。

InstagramやTwitterなんかに比べたら閲覧人口が少ない、ニッチな世界であることも、私みたいに社会から疎外感を感じている人たちには合ってるのかなと思う。

私は声を出すことは苦手でも、
こうして文章で表現していくし、
時々お花の力も借りて、私という人間を表現していく。

それぞれの、自分なりの表現方法が広く認められればいいなと思う。
対人関係が苦手なんじゃない。
魅力的な人にはちゃんと興味がある。
でも伝わらないから、伝えられないから、
どこか諦めを覚えて、対人関係においてコンプレックスを感じて、徐々に人との関わりが減っていくのかもしれない。

表現の仕方の齟齬が、いわゆる“ふつう”の人との間に生まれて、それが障壁となって輪の中に入れないのかもしれない。

人並みに、人並み以上に寂しさは感じている。

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