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「マイルール」〜15.仏教を学ぶとき編〜

ニッチ。ひじょーにニッチ。

あれ、ご存知なかった?それが「マイルール」というものにございます。(なんか腹立つ)

まず、最初に確認しておきたいのは、

僕は出家していない。布教もしていない。実家が寺でもない。「欲・煩悩」、大いにございます。

これである。

そう、「凡人」だ。(相変わらず堂々と)

だからこそ、「悟った人(ブッタ)」の考えを学ぶ時には、ルールが必要だ。仏教は完全にゴールまで示しすぎているから、「マイルール」を持っていないと、「あれ、こんな感じになりたかったわけではないのだけど。。」

的な感じで、「仏教を学んで逆に迷う病」に陥るからである。

本日は、「仏教のこの考えを守る」というルールではなく、学ぶときにこうはならない、こういうことはしない、という「マイルール」をお伝えしたい。

「仏教1級」の人には「クソの役にも立たない」が、「興味ある系」の人、「ちょっと勉強したけど逆に迷っちゃった系」の人には参考にはなるだろう。

それでは初めていく。

「仏教を学ぶときのマイルール」

・俗世を捨てない

僕は寺に引きこもるわけにも、山に籠るわけにもいかない。これである。

・欲を全て捨てない

食欲を「悪」と捉えて、いきなり「断食」しない。「ステーキ」なんて滅相もない、「私は一汁一菜、少しのお米にお魚とお味噌汁があればいい。たくあんもあれば、なおのこと良い」とかにならない。(現代社会では逆に食生活困るぞ)

私は異性とは。。とかにならない。(お坊さんも奥さん、子供いるぞ。)

お金はいりません。とかにならない。(寺も金もらってるぞ。)

私なんて別に誰からも認められなくていい。とかならない。(いや多分、認められるなら、認められた方が有利だ。)

これである。

・無気力にならない

諸行無常なら、最初から何もしなくて良くね?

これである。多分、不幸が待っている。

・感情を捨てない

感情って結局、欲の源、悩みの源だから、むしろ無くて良くね?

こうならない。多分、不幸が待っている。

・人間関係を捨てない

他人に執着してはいけない。となって、じゃあ全て切ってしまおう。とかならない。

本当に拝むしかなくなる。

・無反応にならない

「いちいち無駄な反応をしない。」を勝手に発展させて、無表情・無反応にならない。

多分、友達いなくなる。(友達、一人はいたほうがいいよ。)

・「ああ無常」にならない

この世に意味はない。人生に意味はない。じゃあもうどうでもいいや。

と、こうならない。

多分ブッタはそれは狙っていない。だったら修行なんてしない。教えを解いたりなんてしない。どれも無意味だからだ。

・逆に頑固にならない

この教えを守らなければ。と頑固にならない。頑固になっていいことはない。

・自分の心の汚れに苦しまない

綺麗すぎると、身体を崩しやすい。日本人は海外では体調を崩しやすい。

汚れがあるということは、ある意味「耐性がある」ということだ。

汚れをそれ以上大きくしない。周りに振り撒かない。これだけでいい。

・心の平穏を崩す人を恨まない

恨むからさらに心の平穏が崩れ去る。本末転倒。これである。

・生まれ変わろうとしない

生まれ変わったら、生まれ変わっているのだから、もう「あなた」ではない。意識も記憶もない。だからあなたにとって意味はない。

この人生をしっかり生きる。これでいい。

・何も買わない

まあ、本は買うが、それ以外になんか変なものを買わない。

・変な人から教わらない

お金を払って変な人から教わらない。

金銭欲を捨てよう。とかいう「教えの悪用」を真に受けない。

その金はどこにいくのか。そっちこそ「金銭欲」の塊じゃないか。


いかがだったろうか。

確認しておきたいのは、仏教は素晴らしい教えだ。ただ、変な解釈をすると、変な方向に行ってしまうというだけだ。

これらほとんどが、僕が勘違いして、逆に迷ってきたものだ。その時々で自然に作ってきたルールだ。

最後に仏教では、「何物にも執着しない」というのが、なかなかのメインメッセージとなっている。

ただこの、「執着しない」は「一切持ってはいけない」ではない。

まずここを勘違いすると、変な感じになってしまう。「カルト宗教」みたいになってしまう。

持ってるんだから、それは仕方ない。どう向き合っていこうか。どう幸せな方向に向かっていこうか。いらないものは捨てればいい。

こんな感じで、少し気楽に学んでいくことも肝心だ。

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」

これである。

それではまた。









お金はエネルギーである。(うさんくさい)