【凡人が自伝を書いたら 105.凡人一人旅(前編)】
退職から1週間。
10年続けていた仕事は、もはや「習慣」のようになっており、それがいきなり無くなることは、ぽっかりと心に穴が空いたような変な感覚だった。
思えばこの10年。もはや、生まれてこのかた、「暇」というものをあまり経験したことが無かった。
一般的には暇を持て余しそうな、大学生活も、勉強・サークル・アルバイトの3本柱で、パンパンに埋まっていた。
朝、アルバイトで店を立ち上げ、学校に行き、サークルにいき、それが終わったら、店に戻ってきて、店を閉める。
テスト期間なんかは、
朝ファミレスで食事をして勉強し、学校に行き、授業の合間は図書館でテスト勉強をして、学校が終わればアルバイトをし、終わったら、ファミレスで食事をして、軽く勉強する。
そんな感じの生活をしていたから、暇で何もやることがない。みたいな時間はほとんど過ごしたことが無かった。
ほとんど人生で初めての「暇」というものを経験し、最初はなんだかとても変な気分だった。
親に退職することを伝えた時、嫌ごとの一つも言われそうな気もしたが、親からすれば、僕が一丁前に企業に勤めて、しかもそれを、アルバイトから10年も続けるなんて、逆に意外という感じだったので、
「お疲れさん。」「ゆっくり探せばいい。」
とのことだった。
辞めた会社の人間からの反響もかなり多かった。
特に最初の1週間なんかは、毎日のように、元上司や、同期、元部下、後輩、前の店のスタッフからひっきりなしに連絡が来た。
みんな僕の退職を聞いて、心配してその日のうちに連絡してきてくれたようだった。
最後にいた店のチーフからも連絡が来た。
「新しい店長は、店長(僕のこと)とはやっぱりだいぶ違うけど、人当たりもいいし、みんなも協力的でうまくやってる。むしろ、いつまでも頼ってばかりではいけない。と言って、より頑張ってる感もある。」
そういうことだった。
これは良い方に進んでくれたな、と一安心だった。
「これからどうするの?」
正直1ミリたりとも先のことは考えずに辞めたので、明確な答えなど全く無かった。
「あぁ、旅に出ようかと。」(自分探しではない)
「ふふ、なんか似合うね。笑」
チーフはそう言って、笑っていた。
「放浪の旅」
これはロマンである。
今までは、なんだかんだで、物理的にできなかった。
休みはもちろんあったが、店で何か問題が起こった時には、すぐに連絡が来る。
「店長!今、店で問題があって、私たちではどうにもなりません!」
と言われたときに、
「わたくし今、長野の山奥におります。」(そんなところで何をしている)
ではお話にならないのである。
もちろん、絶対に僕が行かなければならないような案件は、滅多にあるわけではない。ただ、万が一を考えると、どうしても足が向かなくなるのだ。
今は、そういうことが無い。
風の吹くまま、気の向くまま、ふらりふらりと旅をする。
体一つに、バックパックを担いで、タイヤが異常に細い、ひつじのツノのようなハンドルの自転車に乗って、日本を一周する。
現地のおばあちゃんとでも仲良くなって、「一宿一飯の恩義」で、手伝いをして、飯を食わせてもらい、寝床を貸してもらう。
そしてまた、風が吹いた方向に、あてもなくふらふらと旅に出る。
ただ、非常に残念なことに、
そういうことができる人間は、凡人とは言わない。
「勇気のある人」である。
凡人の旅には、まずお金が必要である。
自転車はキツいし、宮川賢治のようには行かない。
「雨にも負けるし、風にも負ける」のである。
だから普通に、電車で移動する。
なんなら電車も長時間になるとお尻が痛くなるので、新幹線や飛行機も喜んで使う。タクシーなど当たり前のように使う。
「今めちゃくちゃ元気っす!」「景色や街並みがいいから、むしろ歩きたいっす!」というときだけ歩く。
「一宿一飯」の恩義など、気持ちはわかるが、発動する場面もない。
そもそも、どこぞの家に泊まらせてもらうのは、こわい。
だから普通にホテルや、旅館に泊まる。
ゲストハウスで外国人と交流するなど、それは凡人の所業ではない。
それは「開放的で、社交的な人」の所業である。
僕はそういうわけにはいかない。
これが、「凡人の一人旅」というものである。
そういうわけで、僕は旅に出た。
その時は、その是非は別として、「go-toトラベル」などと言って、政府も応援してくれていたので、行きやすかった。
僕は福岡で生まれ、大学で山口に行き、その後会社に入社して、さまざまなところで働いた。
この旅は、「僕の足跡をたどり、感慨にふける旅であり、ついでに行きたいところがあったら、そこにも寄ってしまおう。」という一応の「大義名分」のようなものはあった。
自分を探すとか、視野を広げるとか、そういう高尚な目的は一切無かった。
荷物は非常に最小限。
基本は現地調達である。
大丈夫。これは勇気ではない。金さえあれば、パンツは買えるのである。
まず初めに向かったのは「大分県」。(え、)
とりあえず、温泉に入りたかったのである。(いきなり大義名分が。。)
寄りたいところには寄れるので、ギリギリセーフである。
「湯布院」には、大学時代にアルバイト仲間と卒業旅行できて以来だった。
そのきれいな景色と、明らかに俗世離れしたのどかな雰囲気。おいしい食事に、美味い酒。温泉もやはり素晴らしい。
コロナの影響もあり、前に来た時に比べ、全力で人がいないことには少々驚いたが、居心地が良かったので、2泊もしてしまった。
次に向かうは山口県。
福岡から大分に行き、もう一回福岡を通って山口に向かう。若干遠回りかんは否めないが、こればっかりは仕方がない。
大学時代を過ごした山口県。
アルバイト時代の店に行くと、いつも喧嘩ばかりしていた「おばさん」が、未練たらしく、まだ働いていた。(言い方。)
「おぉ、まだ生きとったんか!?笑」(サイテー)
もう60歳を超えたおばさんは、一瞬、「心臓発作」が起きたかのように固まっていたので、心配になったが、すぐに満面の笑みで駆けつけた。
どうやら覚えていたようだ。まあもはや忘れたくとも忘れらない。と言ったところだろうか。(どれだけ喧嘩したのだ。)
とりあえず、ボケてはいないようだったので、一安心である。
アルバイト仲間だった「ヤクザの息子」が、実家にいることは知っていたので、事前に連絡をとっていた。
夜に行きつけだった飲み屋で再会した。
「おお!すまんな、いきなり呼びつけて。まだカタギやれてるか?笑」
テンションが上がり、ひたすら失礼な発言を連発していた。おばさんもヤクザの息子も、「相変わらずやな笑」と懐かしんでくれた。
その日は、彼の実家に泊めてもらうことになった。
次は、香川県だ。
山口〜岡山間を、電車で行くか、新幹線で行くか迷ったが、やはり初めから飛ばしすぎてはいけない。ということで、そこは大人しく「のぞみ様」にお願いすることにした。
早速、店に顔を出した。
ただ、残念ながら知っている人は誰もいなかった。考えれば、もう6年も経っているから、それは仕方がなかった。
それでも、自分がいた店が今も元気に営業しているというのは、やはり感慨深いことでもあった。いざ足を現地に来ると忘れていた記憶が、結構蘇ってくるものだった。
やっぱりうどん県。行きつけだったうどん屋のうどんは、あいも変わらず、早くて、安くて、旨かった。
僕の人生で食べたものの中で、コスパダントツ一位は、やはり本場香川の讃岐うどんだ。
少し大人にもなったので、寺にも顔を出してみる。
階段が多い。嫌がらせのように、階段が多い。
このご時世だというのに、「お遍路」の爺さんもいた。
白の装束に、ワラの被り物。世相を表すように、口にはマスクをしていた。
こんな時に、しかもマスクをつけて階段を登るなんて、さぞキツかろう。そこまでするなんて、なんか過去に悪いことでもしでかしたのだろうか。いや、決してそういうことではないだろう。
そんなことを考えながら(頭が暇)、寺自体はほぼ「見た」だけで、また無駄に長い階段をとぼとぼと降りていった。
次に僕が向かったのは、以前四国にいた時の、唯一の心残り。
愛媛県は「道後温泉」だった。
つづく
お金はエネルギーである。(うさんくさい)