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田舎のありさま:植物→ソーラーパネル

本記事では,太陽光利権によって,田舎の植物がソーラーパネルへと置きかわり,野生動物が人里を荒らさざるをえなくなっている惨状について述べる.

1. 田舎の代名詞は植物からソーラーパネルへ

田舎といえば,見わたすかぎり,手つかずの自然ないし人が育てる田畑が広がり,いずれにせよ植物だらけのイメージだろう.
ところが,そんな田舎の風景は,過去の話になりつつある.

野生動物のすみかだったはずの野山は,瞬くまに切りひらかれ,大規模な太陽光発電所:メガソーラーへと置きかわっている.

また,少子高齢化の極まった限界集落では,田畑を管理する人が減っている.
その土地にソーラーパネルを設置することで,地主も,電力会社も儲かるのだから,田畑の跡地もあっという間に黒一面となった.

草木が茂り,自然へと復していた田畑の跡地

そうだ! 野山にソーラーパネルを設置しまくれば,$${\mathrm{CO_2}}$$ 排出量が減って,人にも地球環境にもデメリットは0だ!
はて,本当にそうだろうか?

2. ソーラーパネルが自然環境におよぼす影響

もちろん,そんなうまい話はない.
これは単なる慣用句ではなく,保存則の話だ.

保存則とは,無くなったり生まれたりしないという概念である.

一般的なバランスを考えると,任意の検査面・検査体積について,
流入量 - 流出量 + 変換されて流入する量 = 増加量
の関係が成り立つ.
ここで,変換されて流入する量 = 0 ならば,その物理量は保存量である.
変換されて流入する量は,

  • 質量保存則:なし

  • 運動量保存則:力

  • エネルギ保存則:仕事・熱

などをいう.

さて,太陽光発電を考えるうえで,エネルギ保存則を理解しておく必要がある.

ソーラーパネルは動かない:仕事をしないので,熱がエネルギに変換される
熱は,温度の高い系から温度の低い系へと移動してエネルギに変換される量であり,温度そのものとは異なる.
この熱を巨視的マクロにあつかう学問体系が熱力学であるが,ここで議論すると大学の講義になってしまうので割愛する.

重要なのは,ソーラーパネルが生じた電気は,どこからともなく生まれた魔法のエネルギなどではなく,太陽から降りそそいだ熱が形を変えただけであり,エネルギの総量は変わらないということだ.

太陽からソーラーパネルへと流入した熱は,電気エネルギへと変換され,送電される.
この熱は本来,地表にとどき,植物や動物が利用するはずだった量だ.
ところが,その熱をまるごと人間が奪ってしまうのだから,その地の生命からしたら,たまったものではない.

地表に吸収された熱は,夜間には大気へと放出される.
その熱による気温の変化は,大気の流れを生み出す.
その気流は,バタフライ効果(butterfly effect)のように地球全体へと伝播し,気象となって地球環境を変化させる.

このエネルギの循環に使われていた熱を,人間が電気に変えて一極集中で使用しているのだから,それが「気候変動」やら「異常気象」やらに化けてでたとて不思議はない.

また植物は,光合成により大気中の $${\mathrm{CO_2}}$$ を自身に取り込み,枯れて地中に埋めこむ炭素固定を行える至高の存在である.
その植物をソーラーパネルに置き換えて,どうやって大気中の $${\mathrm{CO_2}}$$ を減らすというのだろう?

本当に大気中の $${\mathrm{CO_2}}$$ を減らしたいと思うなら,植物の力をかりて,自然に復するより他はないのである.
それを甘い言葉でひたかくし,大衆をだましてうまい汁を吸っているのが,太陽光利権だ.

3. 太陽光利権が黙殺する田舎へのしわよせ

太陽光発電はもうかり,世間への風当たりも大変よろしい.
しかし,その裏で割をくっているのが,実際にメガソーラーが敷設される田舎だ.

下記のように,野山にすんでいるはずの動物たちは,すみかと食糧をもとめて,人里へとおりてきている.

イタチぐらいなら,農作物が食べられる程度で済むだろう.
しかし,サルやイノブタとなると,畑荒らしに加え,人を襲うこともある.

田舎はそんな惨状だから,老いた農家はどんどん田畑をてばなし,そこにソーラーパネルを設置する.
植物を犠牲に電気と金とをえて,食糧難だのと騒いでいるのは実に滑稽だ.

それで,こんどは虫を食糧危機の救世主とあおぎ,肉を食べるなんてとんでもない,これからは無限に手にはいる昆虫食だと洗脳する.

しかし,ソーラーパネルを増やしてくさむらが減れば,虫も減り,虫を食べる小動物も減り,小動物を捕食する肉食獣も減るという負の連鎖におちいる.
つまり,昆虫食といっても養殖であって,それならわざわざ虫を養殖する必要性は皆無だ.

大衆🐑は,太陽光利権・昆虫食利権の支配層にバカにされている.
そうだろう? 河野太郎.

ダムの建設も,原発の設置も,その地に生きる人々・動物・植物を追いやった結果である.
資本主義における善は,ただ資本を増やすことであるから,そこには人情も共生もない.

はたして,それらの犠牲のうえに成りたつ「科学技術」の発展に,どれほどの意味があるのだろう?

人間が地球を,宇宙を支配して,その先に何があるのだろうか?

すべてを手にした人類には,9999999 円を手にしたゲームのように,虚無感しか残らないのではないかと思う.

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