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「“リベルタドール”のシモン・ボリバルとコロニアル都市」世界遺産の語り部Cafe #20

今回の世界遺産は、コロンビアの🇨🇴【カルタヘナの港、要塞、歴史的建造物群】と【サンタ・クルス・デ・モンポスの歴史地区】について。



“英雄都市”カルタヘナの成り立ち


カルタヘナの街並み

後に「英雄都市」と呼ばれるカルタヘナは、インカ帝国が滅亡した1533年、スペイン人の「ペドロ・エレディア」により建設されました。

ペドロ・エレディア

湾が細長く、多くの船が停泊できることで繁栄したこの街は、イギリスの「フランシス・ドレーク」などの海賊に度々狙われ、襲撃に備えて「サン・フェリペ要塞」などが建設されます。

“海賊”フランシス・ドレーク
サン・フェリペ要塞

フランシス・ドレークは、エリザベス1世の命を受けて、スペインの無敵艦隊を破った「アルマダの海戦」で活躍した人物としても知られていますよね。

アルマダの海戦

当時の海賊船の多くは「私掠船」と呼ばれ、敵国に対する略奪の許可証となる“私掠免許”により公然と海賊行為を働いていました。

私掠船(Illustration courtesy Tom Freeman)

そうした時代背景から、「サン・ペドロ地区」には堅牢に作られた大聖堂が残るなど、歴史を物語る建造物が多く残されています。

サン・ペドロ地区


コロニアル時代に繁栄した水運都市


「サンタ・クルス・デ・モンポス」は、16世紀にアロンソ・デ・エレディアが建設した街で、コロンビアを流れる「マグダレナ川」河口から約200kmほど上流にあり、スペイン植民地政策の拠点となりました。

マグダレナ川

都市名は、当時のカルタヘナ総督フアン・デ・サンタ・クルスの名に加えて、スペイン人がこの地に到着した時の先住民、キンバヤ人首長の名を冠しており、「モンポス」には“支配者モンポの地”という意味があります。

サンタ・バルバラ教会堂をはじめとする要塞機能を持つ教会堂や、修道院も次々と建造され、18世紀の半ば頃を最盛期に水運の要衝として発展しました。

サンタ・バルバラ教会堂


英雄シモン・ボリバルの“波乱万丈”


“もし私の人生がカラカスのおかげならば、私の栄光はモンポスのおかげである”

とは、南米大陸における数々のスペイン植民地を解放した南米の英雄、「シモン・ボリバル」が残した言葉です。

シモン・ボリバル

1812年にモンポスに到着したボリバルは、屈強な男たちのほとんど全員にあたる400人ほどを雇い入れ、彼らはカラカスでボリバルを勝利に導いた軍勢の基盤となりました。

ボリバルは、ベネズエラの首都カラカスで、バスク系の名門家に生誕します。

カラカスのボリバル広場

スペインから南米に移り住み、その系譜の下に生まれた子孫は“クリオーリョ”と呼ばれました。(※フランス系であれば“クレオール”)

クリオーリョとして育ったボリバルは、幼くして両親を失い、スペインの叔父を頼って15才の時にヨーロッパへ遊学します。

この頃、ナポレオンの台頭によってスペインの勢いが弱まり、スペイン本土(ペニンスラール)とクリオーリョの間では軋轢が生じていたことで、南米では独立の機運が高まっていました。

ナポレオン・ボナパルト

ボリバル自身も、遊学中にフランスで学んだ「啓蒙思想」に傾倒したことで、祖国の独立を夢見るようになったと言われています。

ボリバルは19才の時、マドリードのマリアという女性と出会い、結婚しますが、ベネズエラの熱帯気候が災いして、黄熱病にかかったマリアは亡くなってしまいます。

若くして波乱万丈を経験し、深い喪失感を抱えたボリバルは生涯再婚することはなく、以降は南米独立にその身を捧げていきます。


人々の胸を打った決意表明“カルタヘナ宣言”



傷心のままヨーロッパに戻ったボリバルは、ナポレオンに仕える一方で、祖国ベネズエラでは「フランシスコ・デ・ミランダ」を指導者に、解放運動が起きていました。

フランシスコ・デ・ミランダ

これに興味を抱いたボリバルは、ベネズエラに帰国してミランダらの「反王政派」に加わりました。

スペイン本国でナポレオンに対して始まった「スペイン独立戦争」に乗じて、ミランダはベネズエラ解放戦争を仕掛けますが、あえなく鎮圧され、休戦協定を結びます。

この休戦は事実上の降伏であり、さらには亡命しようとしたミランダの行為を裏切りと感じたボリバルは、ミランダをスペイン軍に引き渡します。

一方でボリバル自身はカルタヘナに逃れ、スペインの支配に徹底抗戦を誓う『カルタヘナ宣言』を書き上げることになります。

『カルタヘナ宣言』で市民の共感を集めたボリバルは、新たにベネズエラ解放軍の司令官として任命され、この頃より傑出したカリスマ性が“覚醒”していくことになります。


“エル・リベルタドール”



軍を率いてベネズエラに侵攻の指揮を執ったボリバルは、やがて「エル・リベルタドール(解放者)」と呼ばれるようになります。

序盤こそ敗戦を余儀なくされ、カリブ海の島々で逃亡を強いられるものの、南米各地から盟友を集め、イギリスからは義勇兵を援軍で呼び寄せるなど、不屈の闘志で幾度となく立ち上がりました。

1819年、ボリバルは巧みな戦術を用いて「ボヤカの戦い」でスペイン軍を破ったのを皮切りに、故郷カラカスを奪還します。

ボヤカの戦い

その後も破竹の勢いで勝ち続けたボリバルは、続けて「エクアドル」、「ペルー」を解放、最後に“ボリバル”にちなんで命名された「ボリビア」を独立に導きました。


“コロニアル様式の美しい街”バリチャラ


コロンビア北東部の街バリチャラは、コロニアル様式の美しい街です。

バリチャラの景観
バリチャラ市内

九十九折の壮麗な街並みから、コロンビアでは“遺産の街”を意味する(プエブロ・パトリモニオ Pueblo Patrimonio)にも指定されています。

プエブロ・パトリモニオの街

2021年、バリチャラはディズニー映画『ミラベルと魔法だらけの家』の舞台にもなっています。

『ミラベルと魔法だらけの家』

世界遺産にこそ登録されていませんが、バリチャラは植民地時代のコロニアル様式と、南米らしい壮大な景観が融合しています。

植民地の暗い歴史を経て、ボリバルをはじめとした「リベルタドーレス(解放者たち)」の尽力で独立を勝ち取り、スペイン文化と上手く融け合っていった素敵な街だと感じましたので、今回はおまけとしてお話してみました。

私にとって南米大陸はまだ未踏の地なのですが、ロンドン留学時代に出会ったコロンビア人の親友がいることもあって、いつの日か広い南米の大地を踏みしめてみたいものです。

【カルタヘナの港、要塞、歴史的建造物群:1984年登録:文化遺産《登録基準(4)(6)》】

【サンタ・クルス・デ・モンポスの歴史地区:1995年登録:文化遺産《登録基準(4)(5)》】



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