昔取った杵柄

ご覧くださいまして、誠にありがとうございます。

昔取った杵柄」という言葉があります。昨日、妻と会話していた際に、この言葉について深く考えさせられたため、本日はその話を投稿したく思います。

私は小学5年生から中学生の終わりまで、不登校状態でした。以前の投稿で少し触れましたように、特に中学2年の終わりくらいまでは自室から出ることさえ厳しく、引きこもり状態でもありました。

鉄道の魅力に触れ、中学3年生からは引きこもることはなくなりましたが、それでも登校を再開させたわけではなく、基本的に自室で過ごしていました。もちろん自分から机に向かい、勉強することは一切ありませんでした。

そんな私ですが、様々な人との出会いがありまして、商業高校に進学します。そして国公立大学に現役で合格し、最終的に同大学の大学院にて学問を修めます。

私を知る方々からすれば、上記学歴は俄に信じ難いものなようです。そのため学生の間は、とにかく「あなたは凄い」といった旨の言葉を投げかけられることが多かったです。

私は学生の間、「凄い」と言われても、そんなに自分が凄いと思いませんでした。不登校を経験しても、自分より偏差値の高い大学に進学した人はたくさんいるわけで、どうしても大学進学・大学院修了という学歴を自信の原動力に出来なかったのです。

しかし社会人になってからは、どうも無意識のうちに、自分の学歴を「言い訳」にしていたようです。というのも「大学院まで出たのにこんな薄給なのか」といった内容の言葉を、最近よく言葉に出しているわねと、昨晩妻に一言、指摘されたのでした。

自分への戒めのため、あえて厳しい文面になりますが、大学院を修了してもなお薄給なのは、それは私自身の能力がその程度なのか、純粋に見合っていない給与額なのかの、どちらかでしょう。前者であれば、もっと努力する必要があるでしょうし、後者であれば、たとえばもっと想定年収の高い会社へ転職するか、あるいは起業するなど、いろいろ方法があると思います。もちろん、起業したから高年収になるということは一概に言えないですが、ここで私が強調したいのは、過去の栄光(この話の場合は学歴)が全く役に立っていないと、過去の栄光を役に立たせるために動きもせず、愚痴やため息をついている段階で、時間を浪費しているということに気づかなければならないということです。

過去の栄光も、活用しなければ意味がありません。難関大学合格や、難関資格取得が、その人達の人生のゴールではないはずです。学歴を活かし、また資格を活かして、この世で活躍することこそが求められると考えます。鉄道で例えるならば、10年前の時刻表を丸暗記していても、現状ダイヤに対応できていなければ無意味です。こう言うと反感を買いそうですが、「自己満足な知識」であることは間違いないでしょう。

昔取った杵柄に甘んじたり、現在や未来の言い訳にしない。

また一つ、妻から教えられてしまいました。

最後までご覧くださいまして、誠にありがとうございました。

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