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【短編】君さえいなくなれば、いい街

君はあの街からいなくならない。
黒髪をくるくる巻いて、上品な顔で、品質が悪くなった人々の傍にいる。
断片的で、君という人間をちゃんと伝えられる自信はないけれど、
君の、アセビの話をしよう。


「すっご…」
俺の部屋を見て、女が言う。これは3年前、俺が高校を出て働き初め、すぐにやめて、仕事とは言えない小遣い稼ぎを始めてすぐの頃。
女の名前は、アセビ。最初アワビって呼んでて、なんかやだぁと言われたのを覚えている。
「片付けないの?」
アセビが驚いたのは、俺の部屋に散らかる紙。プリントアウトした紙もあるし、手書きのものもある。とにかく大量の紙が散らばっている。
「これ、なんかの書き取り?漢字ドリル的な」
「違うよ、全部日記」
「日記ってこんな続くの」
「これでも小学生の時は絵日記大好きだったんだよ」
これでも、という部分を強調するつもりで、アセビと目を合せようとする。合わない。彼女は既に落ちている紙を丁寧にどけながら、部屋の端にあるビーズクッションを傍に寄せる。
俺はたまらずに「飲み物は?」と言った。恥ずかしかった。
「持ってきた、ミヤビの部屋、冷蔵庫ないって聞いたから飲み物もないと思って」
「冷蔵庫あるよ」
「この間までなかったんでしょ」
「1か月前からある」
「とにかくいらない」
俺は自分のレッドブルだけ取り出し、開けながら洋室へと戻る。椅子に腰かけて一口飲んで、俺はアセビのくるくるした髪を見、部屋の壁を見て、体を捻ってデスクの上を見た。
机上にはS市で起きた連続殺傷事件のルポ本が数冊置いてある。最近衝動的に気になり、本屋で手に取るだけ手に取った。まだ新書1冊も読み切れていない。この事件をテーマにした映画だけ見て、その事件を理解した気になって満足してしまった。
アセビの考えることは分からない。それは、アセビのことを分析する社会学者が誰もいないからだと思う。そう思っている時点で、俺は犯罪者のことなんか理解できていないのだろうし、理解なんて言葉は、実際に「理解した」という状態から最も遠い人間が使う言葉なんだろうと思うから、とどのつまり、俺はアセビを全く分かっていないということになる。もちろん、それは承知のうえだ。
「ねぇ、かっぱえびせん食べたくない?」
「なんで?」
「知らない、さっきの太巻の効果が残ってるんだと思う」
「回してもらったの?結局」
「うん、まぁね。ミヤビが下戸だから、私も止めとくって言ったけど、意味不明とか言われて」
「そりゃ理屈通ってないもん」
「吸わせたいだけなんだよ、私みたいなのに」
私みたいなの、とアセビは言って、自分を一般的に理解されうるタイプの人間として伝えようとする。彼女は自分がてんで分かり辛いということを、そろそろ理解するべきなのだと思う。それによって、彼女にジョイントが回される頻度も、少しは少なくなるだろうと思う。
「飲み過ぎだったんじゃない?ぶっちゃけ」
「それはあるよ、でも仕方なくない?」
「仕方ないって言って飲むのそろそろ止めたいよなぁ」
あくまで冗談、俺は笑って言う。真顔で、たしにそう、って言ってくれることを信じて。
アセビは黙っていた。床に散らばる紙を拾って、見て、捨てて。
できるなら酒すらやめてほしい。
アセビには、スープストックとかが似合う生活を送ってほしい。
OLと一緒に目をギラギラさせて、
つまらない会話を延々としていてほしいのだ。
もっとも、そんな彼女であったら、アセビと呼ばれることはなかっただろうし、アセビとは名乗らなかっただろうし、ミヤビと呼ばれる俺に少しだけくっついてくれることもなかっただろうよ。
結局、彼女は床に散らばる紙のうち、束上になっていた原稿用紙を6枚読んだのちに寝てしまった。
俺はその晩、「雅」というタイトルで新作の小説を書き始めた。何も決まっておらず、頭痛や鼻づまりに苦しみつつ、空っぽの頭から出せるだけの言葉を出して、やっとのことでいった2,000文字。
これの続きから書く身にもなってみろよと、明日の俺が叫んでいる気がした。明日の俺なんて、俺が想定する他者の中で、最もどうでもいいとか、訳の分からない独り言を言って、アセビに体を寄せて、毛布を2人でかぶる形にして寝た。
アセビが俺を撫でてくれたような気がして、それは勘違いだと思って勝手に泣きそうになって、それでも眠気は優しくも暴力的に俺を堕とした。


アセビ、という呼び名が仲間(とも呼べない、同じ場所に集う集団)で定着しているにも関わらず、その名を呼ぶのは俺しかいなかった。俺は綺麗な呼び名だと思ったから、ずっとそう呼んでいるが。
ドンキでカツアゲをされた時に、決死の覚悟でチーズ鱈のお徳用パックを差し出して、まだ未購入のやつですと言ったら大爆笑が起き、そのままこの場所へ迎え入れられた。
街の奥へ進み、やけに高い雑居ビルの上層階にある空き室。元々会員制のスナックが入っていて、名残のカウンターだけ残っている。ソファもあるが清潔感がないため、女子たちはカウンターを使う。決まって集まるメンバーは15人ほどで、そのうち6人くらいがコアメンバーになる。
ミヤビはいつでも来いよ、マジで。マジウケんの、こいつ。
そう言われて、俺はなんだかんだ、コアメンバーらしき層に入れられた。
ウケる、という言葉が若干古臭く感じる。それもそのはずで、決まって「ウケる」と言い出すのが30代後半のおっさんだからだ。いい歳して、こんなところで何やってるんだと思うが、自分もいずれこうなるだろうなと少し思ってしまうから何も言えない。
話題の中心にいる、この中年男性は、ここ以外にお前ら行く場所ないだろって、その独特の笑い声で呼びかけているような気がした。
俺はこの場所が嫌いだった。
「何が面白れぇんだよ」
急に冷えた声が会話の中に現れ、俺はビクッとした。自分の心の声が独立して、勝手に外で暴れ始めたと思った。
「なんだ、おい」
「笑ってられないっしょ、サヤも来なくなったんすよ。さすがにここやばいって」
「サヤの居場所知ってんのか、お前」
「知ってるっすよ、やばいと思うよ。警察行くって言ってたし」
「あいつもうイッちゃってるだろ。ほっとけばいいんだよ」
俺の横に座っていた女子が騒ぐ。「嘘、なんで、サヤのこと家族って言ってたじゃん」
「なんかだりぃって、お前ら」
「あんただよ、だるいの。俺ら行くから」
うん、私も行く。俺も行こっかなぁ。芯のない声。無言で立ち上がる者も出てくる。誰も正常な思考力を持っていない。気分で、ノリで、周りが立ち上がったからという同調で、周りを肉体が動いていく。
そして誰もいなくなった。
「ミヤビ、お前は」
俺は黙っていた。俺は動かなかった。なぜか周りがザワザワ動き始めると、自分の身体だけ動かなくなるのだ。昔からそうだ。
逆張りの体だ。絶滅すべき体だ。
その場に残るということだけ、極めてきた体。
「行かないっすよ、ラスさん」
使命を全うする。
30代の男は、ニンマリ笑った。歯が黄色かった。この男は、この場所以外帰る場所がないのだと思った。ここで歯のように、骨のように、体も溶かして消えたいと思っているのかもしれない。
それを見届ける人間を欲していたのだ。人数は関係ない。俺さえいれば、この人はあと数分の命でも構わないのかもしれない。
「お前はいいやつだよ、間違いない。絶対にそうだ。この街で汚く死にたいって、いつか言ってたもんなぁ」
そこから色々な話をした。色々な話であればよかったが、その実、性愛の話と金持ちの悪口を往復するのみだった。
金持ちはすべてを手に入れると言うが、つまらないものばかり手に入れる中で、一番大事なものの大切さを忘れてしまう。それは哀れなことだとラスは言った。
「俺たちみたいな関係の中に、大切なものはひっそりと眠っていて、それを分かっているから俺たちはわざわざ言葉にしないんだよな。金があったり、余裕があったり、普通とされる生活をしている奴らが、愛が幸せがって探すんだもんな。俺らは探さなくていいもんな、ここにあるもんな」
そう言って、ラスは俺との間にある丸椅子をゴンゴンと拳で叩いた。
椅子1個分の距離があることに何の文句も言わず、何かがそこにあると確かめるように、ゴンゴン、ゴンゴン、ドスっと叩き続ける。


日付が変わって1時間ほど経つと、入口からアセビが入ってきた。
「あれ、今日少なくない?」
「これからも少ない」
ラスはいじけたような態度で、顎ひげを指でなぞる。ジョリジョリと音が聞こえてきそうだ。
「どういうこと、急に仲違い?」
「前まであった亀裂、なぁミヤビ」
「俺はわかんなかったっすけど」
「へんなの」
アセビはカウンターにコンビニ袋をのせる。中身の詰まった缶の群れが、鈍い音を鳴らす。
「バーごっこしよっか、可愛いおふたりさん」
「さすがじゃん、俺ハイボール」
ラスが言うと、アセビがビニール袋からハイボールを取り出し、片手で渡す。
「俺、レモンサワーがいいな」
「おっけい」
レモンサワーは、アセビの両手に包まれて俺の前に差し出された。俺が受け取ろうとしても、その両手は離れていかない。彼女の方を見ると、俺を見て微かに笑う顔。
横を見て、ラスはハイボールを間抜けに呷っている。
アセビは俺の手元にレモンサワーの缶を押し付け、俺の手の甲を指で数回タップした。そのリズムが妙に独特で、モールス信号かと思って解読を試みた。昔見たアニメ映画にモールス信号が出てきて、影響されて3時間くらいネットで勉強した、13~4年前くらいの記憶を呼び起こす。
その記憶を辿っていった末に、俺はアセビと自分の部屋へ帰った。


「ねぇ、ラスさんってそろそろ死んじゃうかな」
急にそんなことを言い出す。声はバスルームの中に反響する。
彼女がこんな場所にいるのは間違いで、なんならこの街に立ち入ること自体間違いだった。俺みたいに中途半端な形じゃなくて、もっと真っ直ぐに生きさせるべき女性だったと何度も思っている。
でも彼女は、急にこんなことを言い出す。
「あそこがこの世界で唯一、終わってるところだと思ったの。だけど終わってるのはラスさんだけだよね。あとの皆は、なんだかんだしっとり楽しく生きたいんだよね。全部クソだって言って、終わってる生き方できるの、ラスさんくらいなんじゃないかな」
「そんなラスさんのこと、心配なの」
「君も心配だったんじゃないの?」
「俺は心配とかじゃないから」
「心配とかじゃなかったら、何?」
「ただ横にいて、体が動かなかっただけ」
「いいね、そういうの」
何がいいんだろうか。言い方としては薄情だったのに。でも、だからといって、アセビが情に厚い人だとは思えなかった。いや、情に厚い人間がラスの傍にいられるわけがない。急に不機嫌になって、周りとの信頼関係を全部リセットする、あんな男の傍になんて。
ずっと分からないでいる。アセビがラスとか俺の傍にいる理由。
「私、そういえば今日、全然酔わなかったな」
「いつも飲ませてくるのは周りだったんだな」
「そうだね、ラスさんは飲ませてこないんだよ。なんだかんだ優しいんだよ、あのおじさん」
優しいという言葉が、この世界で何の価値もないと実感させてくれる。
彼女が、優しくされることに、何の幻想も抱いていないことが分かる。
「でも、多分、もう死んじゃうよ」
「なんでさ」
「私、顔色見ると分かるの。あ、この人あと数日で死ぬなって。7年間くらいこの街にいるけど、この街で人が死ぬなんて毎日起こってることだから。いやでも分かるようになるんだよ」
俺は?と聞いて、少し笑い話にしようと思った。しかし俺がそれを許さなかった。ここで笑い話にしてしまったら、何か大事なものを失う気がした。
そして、アセビの傍で死ぬはめになると思った。


アセビは朝になると、俺の頭をポンポン叩いて、出て行った。
俺は脳内にフワフワした綿が絡まっているような感覚で、数時間無駄に眠った。結果、昼頃に起きた。
外は曇りだった。冬晴れが続いていたので、その曇天がやけに不快に感じた。のそのそと起き上がり、スマートフォンを見る。バイトのシフトは15時からなので、そろそろシャワーでも浴びて準備を始めなければならない。
布団から出て、重い体を起こしながらシャワールームへ向かう途中、もういちどスマホを見た。連絡の通知が1件入っていた。
昨日、ラスと喧嘩を始めて出て行った男から。表示名は「ミスギ」だった。そんな呼び名だったか。不在着信、電話をかける。
「もしもし」
『おい、お前、あのオヤジになんかしたのか』
「ん…?」
『なんかしたのかってんだよ、死んでたぞ』
「…は?何がよ」
『だからラスが死んでたんだって、お前マジでやばいぞ』
全身から冷汗が出た。ラスが死んだんだ。
アセビが殺した。そう思った。そんなわけないけれど。
そんなわけない?そうでもない。
「俺がやったって…?」
『さすがにそうは思ってねぇけど、だから言ってねぇけど、サヤも。だけど、お前が残ったから、お前なんか知ってるかって』
「知らねぇよ」
知らない、というのも嘘かもしれなかった。だが実際、死因とかは知らないし。
『あぁ、だよな、だよな、頼むよ、ずっと知らないって言っててくれよ。俺、もう関わるのやめるわ。じゃあな』
電話が切れる。
関わるのやめるって、何にだ。ラスがいなかったら、あの場所に集まる引力はなくなる。だらしないおじさんの鑑賞会みたいな場所だったんだ、あそこは、今となって思えば。
俺も楽しんでいたのだ。哀れな老人の落ちぶれていく様を。こうはなりたくねぇなぁと笑い合う「仲間」が傍にいたから、笑っていられた。
だから、不気味だった。笑わずに真剣な顔で、真摯に、ゴミみたいな人間と目を合わせるアセビ。


アセビから、定期的に連絡をもらう。
ミヤビ、久しぶり、少し帰っておいでよ、飲み行こうよ。
ミヤビって呼ぶな、俺本名違うしと言ったら、本名教えてよと帰ってきた。
本名を伝えたことを後悔した。しかし相変わらず、アセビは俺をミヤビと呼んだ。それに少しだけ安心した。
あの街にいる自分が全てだった時、
アセビが人生において唯一の女性だった時、
俺がミヤビだった時、
その先にまともな未来なんて待っていなかったと思う。
ラスが死んだことは、ニュースにもならなかった。
アセビも彼のことを忘れていた。
この街にいる人間が、どういう死に方をしたか。そういう事実の羅列の中に、アセビの脳内に、記録として刻み込まれるのみだった。
アセビはLINEでこう言った。

『この街にちゃんと向き合う人間なんていない』
『ちゃんと向き合えば不幸になると思ってる』
『でも私を通してなら、この街を少しでも愛してくれるかなって思ってる』

俺はずっと言えずにいる。
君さえいなくなれば、少しはあの街、いい街になるんじゃないかって。

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