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【短編】視野の広さは大切

MFがするべき訓練は、技術よりも、視野を広げることなのではないか。
それはサッカーをやったことがない私でも、この数週間で気付いた。

サッカーは本当によくできている。
攻めるか、守るかの二極化が激しすぎず、互いが適度に鬩ぎ合いつつ、選択肢を模索する余白が瞬間瞬間に存在する。この余白に、次の進撃への足掛かりを描く役割こそ、MFであるのだろう。
彼らは視野を広げ、様々な選択肢を頭の中に思い描き、最適なルートからゲームを作り始める。その最適なルートにボールを辿らせようとする時、初めて精密な技術が必要とされるのだ。

センターサークル付近から左サイドへパスを出した小さな少年を見て、
私は右足がぴりつくように痛むのを感じた。そしてその痛みを感じると、毎度寂しい気持ちになる。
こんな痛みなど、科学的には生じるはずもないのだ。

東京都内N市。都心から離れ、閑静な住宅街の中にいくつかの学校がある。
ここはそのうち、最も大きな学校のグラウンドであり、私はそのグラウンドにある石造りのベンチに座っていた。
学校に入ることも、ここに座ることも、特に注意されていないため、散歩のついでに来続けている。
監督なのか、コーチなのか、立ち位置がよく分からない男性は、いつしか私に会釈をするようになった。

今日も先ほど会釈をしてきて、私も黙って笑顔で頭を下げた。
すると今日は、いつもより数十分早く練習が終わり、子供たちがグラウンドから引きあげていった。
コーチらしき人はこちらに駆け寄ってきて、「どうも、ちゃんとご挨拶できておらず、すみません」と声をかけてきた。
勝手に座り込んで練習をジロジロ見てくる男に、挨拶する義理など何処にあるだろうか。ギリ、という概念が日本にあること自体、しばらく私の頭にはなかったわけだけれど。それでも、このコーチが私に笑顔で挨拶すべき理由など、どこにもないと思った。

「いつもいらっしゃって、サッカーがお好きなんですか」
「えぇ、まぁ」
「そうなんですね」
「ペレが」
「はぁ」
「ペレが好きなのです」

これは正確ではない。ペレが好きになったのは、この少年サッカーを見に来てから数日後だ。やることなくソファに横たわっていた私は、大きなテレビをつけ、サブスクリプションのサービスに接続して、ペレのドキュメンタリーを見ていたのだ。
ペレがアホみたいにゴールネットを揺らしまくるので、サッカーというスポーツはかなり直線的で短絡的な競技だと印象を受けた。
しかし、そのイメージを、先ほど目の前にいた少年サッカーチームのMFが覆してくれたのである。

「ペレがお好きなんですね、Jリーグとか、代表戦は見られないんですか」
「最近のものは見ません。最新のものについていくことは、どうも苦手です」
「そうなんですね、勝手なイメージですが、遠くから見ていると、非常にインテリジェントというか、スマートな印象を受けます」
「そうですか」
「えぇ、なんというか、あの子たちの練習をきめ細かに見ているなぁと思っていたんです。だから頭のいい人なんだろうなと」
「そんなこといったら、あの少年たちも相当に頭がいいのではないですか」
「いえ、そんな。サッカーだけが好きな、馬鹿でピュアな少年たちですよ」

それは回答として明確ではないと、私は思った。
しかしそれを指摘しても、この男への心証が悪くなるだけだと思った。それによって、散歩に定着した少年サッカー鑑賞ができなくなるのはごめんだ。
このグラウンドに立ち寄ること、なぜ私はそれにこだわるのか。
理由はよく分からないのだが、それでも習慣を奪われることは人間にとってストレスなのだ。

「それにしても、なぜうちのチームを」
「えぇ」
「きっかけは」
「たまたま、ここを通りがかった時に、目に入ったんです」
「それだけなんですか」
「それだけなんです」
「そいつはまた、彼らには悪いですが、何の変哲もない少年サッカーですよ」
「私はそもそもサッカーというものの基本とか基準とか定番を知らないので。彼らが何の変哲もないと評されても、私にとってはひたすら新鮮に見えるんです」

コーチは私を見て、目は笑いながらも、口もとを歪ませるという、類別できない感情表現をした。こういう人間には会ったことがないのだろうか。
私は単純に、サッカーに興味を持つ瞬間が、今、34歳のこのタイミングで訪れたというだけであって、その切り口が先ほどまでいた少年たちであっただけだった。

「何か、おかしいですか」

私はコーチに、あらぬ疑いをかけられぬよう、探りを入れることにした。

「いいえ、おかしいということはないですし、寧ろ嬉しいことです」

ただ、と言って、コーチは語り始めた。聞くと、私と同じくらいのタイミングで、この少年サッカーチームに興味があると話しかけてきた女性がいたのだという。
その女性は、私よりもやや少ない頻度でこのグラウンドに現れ、スポーツドリンクやおにぎりを持ってきてくれるのだそうだ。
コーチは、サッカーが昔から好きなのかとその女性に聞いた。
答えはNOだった。最近サッカーに興味が出始めたのだと、何から見ればいいか分からないから、とりあえず近くのサッカーを生で見に行こうとして、このグラウンドを見つけたと言っていたらしい。

「サッカーへの入り口として機能するようなチームとは思えない。地元の子たちがサッカーが好きで集まっているに過ぎず、大した実績もないのです」

私はコーチの困惑を理解することができなかった。
実績も何も関係なく、近くでサッカーをやっていたから見たというだけだ。
コーチはそれを、不自然だと言っている。いや、そう感じている。
ただ、サッカーを知らない私に、不自然だ自然だの問答をする権利はない。
教師に従い、やがて教師に反発し、自らが教師になる。
そうやって人は成長してくべきなので、私がサッカーに関する持論を持つのは、もう少し先のことになるだろう。

それで私は、とりあえず話をつなげようと思った。

「彼、いるじゃないですか。MF…なのかな?」
「どの子ですか?」
「茶髪で、もしゃもしゃした髪の」
「あぁ、貝沼ですね。ちゃんとした試合ではセンターハーフにいます」
「センターハーフ」
「えぇ、どう攻めるか、どう守るか、どう転じるか、どう進めるか、中心的な立ち位置にいるポジションです。最も重い判断を任せられるポジションとも言えると思います」
「はぁ、そうなんですね。いや、そのカイヌマくんという子を見ていると、とにかく視野が広くてすごいなと感じるんです。私が彼らに対して、相当に頭がいいと感じる点も、そういう所からなんです」

コーチはグラウンドに目を向け、顎ひげをさすりながら、「なるほど」と呟いた。

「いえ、それは確かにそうです。チームメンバー全てがどうかは分かりませんが、貝沼に限って言えば、かなり頭がいいというか、判断能力が優れていると思います。とにかく周りを見て、何をどうすべきか決めるのが、彼の役割ですからね」

そう言うと、コーチは、なぜか自嘲的に笑った。

「貝沼に、あのポジションを任せたのは私なんです」
「それは素晴らしい」
「そう思いますか?」
「えぇ、私はそのカイヌマ君と喋ったことがないから分からないけど、元々かなり頭がいい子なんじゃないですか?適したポジションを任せたということでは」
「それは勿論、サッカーの試合において、彼の活躍は素晴らしいものがあります。しかしね、なんというかね」
「なんです」

コーチは「変なことを言いますよ」と、これまた悲しそうに言った。

「彼はね、試合を終えても、練習を終えても、常に試合中と同じ目をしているんですよ。教室でもね」
「はぁ、あ、ちなみに先生でいらっしゃる?」
「えぇ、普段は非常勤講師として英語を教えています」
「そうなんですね、あ、いえ、特に、少し気になっただけです」

微笑の頷き。

「とにかくね、貝沼は常にゲームの中心で、常に情報をかき集めているんです。そういうポジションですからね。でも、試合後も、練習後も、ずっとそうなんですよ。元々あまり喋らない子でしたが、それに加えて、かなり鋭い目をするようになって、なんというか、誰も貝沼に気を許せなくなってしまったんです」
「それはチームの連携にも影響しそうですね」
「今のところ、そういうことはないんですがね。試合中は皆、貝沼のこと信頼していますよ。ですが…」

それきり、コーチは黙ってしまった。
私は、聞いている限り、そこまで重い話にも捉えなかったが、
コーチは、まるで自分が重罪人かのように、基本黙り込んで、こちらへの返答も単調なものになっていった。

(今回はここまで 続きます)

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