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半生と反省①


ー誕生ー

私の両親はお互い晩婚で、30歳を過ぎても結婚する気はこれっぽっちも無かったらしい。

物心付いたあたりの断片的な記憶だが、母親が私にそんなことを言っていた。

当時の記憶は曖昧だが多分、いや間違いなく私は

「じゃあなんで結婚したの?」と聞いたはずだ

「お母さんとお父さんの共通の友人が心配してくれて、無理矢理紹介されたから仕方なく結婚したのよ。」

そんな長ったらしい事を言っていた気がする。

両親と私と弟の家族4人、ボロボロのアパートで過ごしていた頃の記憶から遡って書いて行こうと思う。

その頃の私は、両親は無理矢理結婚したから別に好きでもないんだと本気で思っていたのだ。

今となればそれが、母親の言った単なる冗談だったと理解出来る。きっと子供を喜ばせるための一種のユーモアみたいなものだ。

そんな私の母親は、底無しに優しく笑顔を絶やさない明るい人。感受性が豊かでお洒落な人間だ。上手く言葉に言い表せないのだが、敢えて言葉を選ぶならセンスがいい人

底無しに優しいと書いたが、私と弟には当たり前に優しく、なんなら見ず知らずの他人が困っていたり、悩んでいたりすれば「大丈夫ですか?」と優しく声を掛けるようなお人好しだった。

昔から母親の底無しの優しさが不思議でならなかった。私も今でこそ、年齢を問わず色々な人から優しいと言われることもある。

それは間違いなく、母親を見て育っているからだと思う。しかし、優しさの種類が母親のそれとは全く別物のような気がしてならない。

父親は口数が少なく、仏頂面で記憶を遡ってみても、数回しか遊んでもらった記憶がない。毎日仕事の帰りが遅く、帰るなり私に

「勉強しろ」「早く寝ろ」

両方がセットの日もある(鳴き声みたいだ)

両親について軽く書いてみたが、父親とは全然合わない。何一つ意見が合った試しがない。この年齢になって、やっと笑顔で少し話せるレベル。それは、私が人に波長を合わせる努力が出来るようになったからだ。

両親が30代後半の時に生まれたのが私だ。

平均より体重は軽く、出産の際に首にへその緒が巻き付いていて、一時的に危険な状態だったらしい。よく助かったなと思う。

当然、生まれついた瞬間のことなんて覚えてない。そんなことを母から聞かされた私は、なんと返答して反応していいかわからなかった。

ここまでは、なんとなくだが覚えている。

幼稚園に通い出した頃の記憶からは、今でも鮮明に思い出せる。

あの時何をしたとか

あの時に何を言ったとか

ハッキリと覚えている。昔から記憶力には自信がある。忘れたいことやどうでもいいことまで覚えてしまっているのが苦痛なのだが、逆もあるのでとんとんか

いやちょっとマイナスかな。

ある時、お遊戯会の台詞をすぐに覚えてしまった私を、先生が褒めてくれた。迎えに来た母親と先生が、笑顔で話しながら嬉しそうにしていた。

すごく照れくさかったので、母親に早く帰ろうと催促した。褒められることを素直に喜べないのは、小さい頃から変わってないんだなと思う。


ここまでは、いい思い出だと思う。

人の言うことを素直に聞けない。聞かないのは、昔から変わっていない。社会人になって、ある程度社会性が身に付いたものの、私という人間の本質は生まれた時からまったく変わっていない。

家族で出掛けた際には、何回も懲りずに迷子になった。

小さい子供は、親の後ろを着いて歩くものらしい。私は保育士免許を取得しているので、発達心理はある程度理解している。しかし、私にはそれがとても難しいことで

内心「何で着いて行かないといけないんだ」と単純に疑問に思っていたからだと思う。

迷子センターまで母親が血相を変えて迎えに来る。

「どこに行ってたの」必ずこう言った。

当時は母親が、何故泣きそうな顔で怒っていたのか理解出来なかった。

泣きながら迎えに来た日もあった。

何度もこの表現になってしまうが、今となれば母親の気持ちを痛い程に理解することが出来る。

これはほんの一部に過ぎないが、昔あった出来事なんかを、すぐに思い出せるという話をすると決まって

「よくそんな昔のことを覚えてるね」

と言われることがある。確かに自分でもそう思うので、気になって調べてみると、ASDについて面白いことが書いてあった。

長期記憶が優れている

ASDの人は、短期記憶やワーキングメモリよりも長期記憶が優れていると言われるらしく、長期記憶として残る記憶の量は膨大で、まるで巨大なデータベースに記憶が蓄積されているようだと表現されることもある。

記憶する対象は、多くの人が興味を持つわけではない特定のものに対して人より多く覚え、かつ忘れない。また、興味関心がなくても見聞きしたものを勝手に覚えてしまい、忘れたくても忘れられないのもASDの記憶の特徴の1つです。

ASD以外の人でも、興味のあること、反復したこと、感情を動かされたことなどは強く記憶に残るものですが、ASDではその比ではありません。

何かを見聞きした時に咄嗟に関連することや、ワードが突発的に溢れ出るような感じ。会話をする時なんかに、過去に覚えたワードなどが自然と言葉に組み込まれる。

例えるなら呪術開戦のシン・陰流、簡易領域みたいな

つまり記憶力が滅茶苦茶いいよって話

視覚情報の処理が得意

ASDの人は聴覚的な情報処理は苦手で、視覚的な情報処理が得意であることがわかっています。

教育学の分野では、「自閉症児が比較的得意とする視覚的情報処理能力に視点をあてて指導することが有効」と考えられており、コミュニケーション能力や日常生活スキルを養うためにも、ASDの視覚的な情報処理の力は重要視されています。

また、「カメラアイ」と呼ばれる瞬間記憶能力を持つことがあり、記憶をする際にその場面を写真に撮ったように記憶するのも特徴です。

これらの特徴によって、情報を正確に長く記憶に留めることが可能になっています。

この特徴は確かにその通りだと思う。定型発達の人間も同じだと思っていたが、どうやら違うらしい。

例を挙げてみると、数年前に亡くなってしまった大好きな祖父の笑顔を今でも鮮明に思い出すことが出来る。映画みたいに記憶してあるのだ。


ー強いこだわりー

昔からこだわりが強かった。普通の子供が折れるようなことでも、私は頑なに自分を曲げることも折れることもなかった。実に傲慢だ。

自分ルールがある。

幼稚園年少の頃から、必ず同じオモチャを使って同じ遊び方をしていた。丸くて黄色いブロックの玩具、真ん中に四角い穴が空いていた。

このブロックだけ何故か好きだった。

理由はわからないのだが、何故だかしっくり来る。毎朝幼稚園に着くなり、このブロックに一直線。独り占めしていた記憶がある。

他の子がそのブロックで遊んでいると、無理矢理にでも奪い取る、最後は泣かせてしまっていた。

勿論、その度に先生には小酷く怒られる

「これはみんなで仲良く使って遊ぶものよ」 

帰ってからは母にも叱られる

謝ることが出来なかった。単純に怖くなかったからだ。怒られる意味もわからぬまま、ただ大多数の意見がそうなんだと説明される度に、渋々わかったフリをしていた。

今となれば、何故怒られたのか当然理解出来る。幼少期から続くこのモヤモヤが晴れるのはまだずっと先の話になる。

家でも同様に同じオモチャで同じ遊び方をしていた。自分の中で事細かなシナリオがあった。このシナリオも覚えているが、あまりにも幼稚で恥ずかしいので書かないでおく。

一度遊び出すと、ついつい時間を忘れて没頭する。気が付けば直ぐに片付けの時間が来る。

夢中になると時間はあっという間に溶けて行く。

野原しんのすけと違って、掃除や片付けは嫌いじゃないし寧ろ好きだ。毎回同じ場所に片付けて、整理整頓された状態はとても心地が良い(但し、自分のテリトリーに限る)


ー集団行動が苦手ー


心地が良いで思い出したのだが、この頃は幼稚園でも家でも必ず一人で遊んでいた

邪魔が入らない自分だけの世界はとても居心地が良く、自分の好きなことに没頭出来る時間は1番の幸せだ。

皆で何かをする時や、集団行動をする時に周りに合わせることが出来なかった。出来なかったとはまた少し違う。同じことをする意味がわからなかったの方がしっくりくる。

先生の「集まって」の呼びかけにはわざと反応しなかった。敢えて無視を決め込んでいた。わかっているのがタチが悪い。

書いてみて改めて思うのだが、とんでもないガキだ。既に捻じ曲がっている。もしも私が当時の先生の立場なら、間違いなく私に殺意が湧くだろう。

しかし、自分が好きなことであれば、例えそれが集団で何かをしなければならない場合でも、誰よりも情熱を持って取り組むことが出来る。

この爆発力は今でも変わらず、それが自分の武器になっている。

昔から物事の意味を考えることが多い。メリットがあるかないかとかそういうところだ。この頃からそんなことを気にしていた。損得勘定で動いている捻くれ者だ。

冒頭で母のことを少し書いたが、理由のない底無しの優しさが本当に不思議でならない。


ー小学校低学年ー


小学生になってからも相変わらず、人の言うことを聞かない子に変わりはなかったが、それなりに勉強は出来た。

というのも、母が私のために契約していたしまじろうの子供チャレンジや、幾つかの学習教材のお陰だ。幼稚園の頃から定期的に、家に届くようになっていた。

単純にしまじろうが好きで問題を解いていた覚えがある。これがキャラクター抜きの普通の学習教材であれば私は間違いなくチャレンジ一年生していなかったと思う


真面目に書くつもりが、小ボケを挟んでしまう。


学校の授業は退屈の一言、長時間椅子に座っていることが出来ない。私以外の生徒は黙って黙々と授業に集中している。一年生の頃からよく授業を放棄して、階段まで走って逃げる。必ず先生に捕まり説教を食らう。

全然ピカピカしていなかった。

単純に外の景色が見たかったとか、窮屈で逃げ出したいからという理由だ。

今じゃなくてもいいだろと今ではツッコミをかませるのだが、この頃から既に私はある意味怪物だった。

4階建ての学校で、1年生は1階の教室。4階から見る景色はさぞ美しいんだろう等と考えていたのだと思う。単なる好奇心だ。

必ず4階に辿り着く前に先生に捕まる。思い出しておいて恥ずかしくなる。

そんなことが続けば問題になるのは当然。何度も母が学校に呼び出しを食らう。私は反省の色は微塵も無く、太々しく黙り込んだまま椅子に座っているだけ。

そんな私を見て母は泣きそうになりながら

「ごめんなさい、ごめんなさい」

と頭を下げる。その頃から段々と自分は、頭がおかしいのではないかと考えるようになった。普通ではないという違和感を抱き始めた時期でもある。

学校に呼び出しを食らった日の夜は地獄だった。

母は泣きながら「もうしないでね」

と言っていた。何がいけないことなのかを理解出来ていない頃なのでボソッと一言、生意気な返答をする私。

父が夜遅くに帰ってくると、今日学校で起こった出来事を母が報告する。それを聞いた父の形相は一瞬で変わり、頭ごなしに説教が始まる。

ここまでがテンプレートだ

当時は、私の大切な時間はどんどん無駄なことに溶けていくような感覚になり、損をした気分になった。

それから数えきれない程、学校に呼び出される母は少しずつ子育てに疲れていった。

隠していたつもりだろうが、母が自作したカントリー調の本棚に子育ての本が沢山並んでいたことを私は知っているのだ。

気付いていないフリはこの頃から上手かった。

中には「子供を叱らない」と書いてある本などが置いてあった。

今になって後悔しても遅いのだが、私の母は素晴らしい人だ。真剣に子供と向き合おうとしてくれていた。私はこれから長い年月、何度も何度も母を裏切っていく事になる。

ー転校といじめー


小学三年生になったばかりの頃、新築を建てるため隣町に引っ越すことが決まった。仲の良い友達が数人いたので、お別れの日にその子達が泣きながらプレゼントをくれた。手紙も入っていたが、私は泣かなかった。悲しくはなかったからだ。

転校先の町は、私が生まれた場所の比にならないくらいに治安が悪い。言い方がものすごく差別的になってしまうのだが、親世代に輩が多く、その子供も同じような道を辿っていく流れが出来上がっているような感じ。

何故そんな町に転校することになったのかだが、祖父の家の土地が余っていたからだ。祖父の家の隣に、新たに我が家を新築で建てる。それから祖父の家と合体させて二世帯住宅にするという話。

私は祖父が大好きだ。人を羨むことがない人間だが、人生で1番尊敬しているのは間違いなく祖父だと思う。これからも変わらない。

祖父についての記事もいずれどこかで書いて残せればと考えている。

話を戻すが、転校先でいじめにあったことがある。と言っても軽いもので、長く続くような陰湿なものではなかった。そもそもいじめに軽いも重いもないのだが。

転校初日、私の転校先での制服が間に合わず、前の小学校の制服を着て登校した。

集団は違うモノを排除したがる傾向にある。私は転校初日から、この制服で散々な目に遭った。

それから制服が届くまでの1週間、そのいじめは続いた。帰り道に隠れてコッソリと泣いたのを今でも覚えている。

ある程度泣いてからは、悲しみが怒りに変わる。どうやって復讐してやろうかと毎日考えていた気がする。方法、場所、時間、そればかり考えた。

帰ってから元気のない私に母は直ぐに気が付く。親の勘程鋭いものはないと思う。

「元気ない?何かあったの?」

なぜわかるのか不思議でならないが、きっと私は人より表情に出やすいのだろう。思い出して母の偉大さを感じている。

親には本当のことを話した記憶があまりない。この時も私は、何もないよと言って話を終わらせた。

復讐の話だが、私はやられた怒りが抑えられずにいじめの主犯格を階段から突き落とした。卑怯極まり無い不意打ちだ。

勿論その日、大変なことになるのだが長くなるので短くまとめる。

母は泣き崩れ、父にはボコボコに殴られた。相手方の家に謝りに行くと向こうの両親も理由を知っていたのか「子供の喧嘩だから」と言っていた。

相手方はどうやら母子家庭らしく、飲み屋で働いているお母さんがぺこぺこと私の両親に頭を下げていた。

「大事にならなくてよかった、これからは息子と仲良くしてね」と言われたので、その場でその子と和解した。

それからの学校生活はすごく楽しかった。その子と毎日のように遊んだ。団地に住んでいて、ペット不可にも関わらず小型犬を三匹も飼っているような犬屋敷だ。とんでもないルール違反だ。この地域はその程度なのだ。

この時から私は、強烈な獣臭が苦手になった。嗅覚過敏なのだろう、はなから受け付けない臭い。この子の家のリビングには極力近付かないようにした。

私の人生で初めての友達と呼べる存在になったこの子の事は、これからNと書くことにする。

それから毎日、夜遅くまでNの家で遊ぶようになった。母はとても心配していたが、Nの母が電話で「大丈夫よ、気にしないで」と伝えていた。

Nの家にはPlayStation2がある。書いていて懐かしくなったが、ガンダムのゲームで対戦しては負けていた覚えがある。

本当に悔しいのだが、Nに勝てたことは数回しかない。スマブラも、Nが使うネスにだけは勝てた試しがない。

毎日ゲームばかりして遊んでいると、当然勉強に着いて行けなくなる。私は学校にもあまり行かなくなってしまった。何かと理由を付けては休んでいた。母はその度に怒っていたが、私は躊躇なく家出をするので関係なかった。

父は階段突き落とし事件を境に、私を見る目が変わった気がする。気がしているだけで勝手に私がそう思い込んでいただけなのかもしれない。兎に角私が一方的に避けるようになった。お互い様だろうが。

宿題にも全く手を付けなくなり、教科書は全て学校のロッカーに置きっぱなし。そのことで先生にはしつこいくらいに怒られた。

私の他にも、何人か宿題をしない子が集められ、昼休みは宿題が終わるまで遊べない。そんなルールが存在していたが、構わず校庭でサッカーをして遊ぶ。

それがばれて放課後に先生に捕まる。その流れまでがセットだった。まるで鬼ごっこをしているみたいで楽しかったのだ。


ー小学校高学年ー


小学6年生になった頃には、私は出来上がってしまっていたのだ。悪童という言葉がピッタリだと思う。

しかし私が通っていた小学校は地域柄、素行が悪い生徒が多く、特別悪目立ちしているのが私だけというわけではなかった。悪童と表現してみたが、実際は中の下。自分では、悪戯小僧レベルだと思っている。周りはそうは思わなかったのだろうが。

レベルで表現するのはおかしな話だが、親や先生では手がつけられなくなっていたのは事実だ。

Nには5つ歳上の姉がいる。

高校には通っておらず、一言で表現するならギャルだった。当時のギャルと言えば、目が真っ黒でエクステをたんまりと付けた派手髪の筋盛り。今のギャルを理解していないので、何が変わったかはわからない。

そんなNの姉の部屋では大音量で浜崎あゆみの曲や、洋楽なんかが流れていた記憶がある。

当時Nの姉には5つ歳上の彼氏がいた。この人のことはM君と呼ぶ。

成人していて、何の仕事をしているかは聞いたことがない。トヨタのクラウンと言う車に乗っていた。私が初めて憧れて乗りたいと感じた車がクラウンだ。この時の印象が強く残っていて、何年か先に私も乗ることになるのだが、まだまだ先の話。

このM君が私をNと同様、弟のように可愛がってくれた。M君は多趣味で、サバゲーや車の改造、今でこそ流行っているが、当時は馴染みがないキャンプが好きだった。

そこで初めて電動ガンを教えてもらった。見た目からは想像も出来ない趣味だ。馬鹿にしている訳ではない。私が初めてM君を見た時の印象が怖い見た目の人、その一言に尽きるのでそう思ったのだ。

話してみるとM君は優しく、物腰が柔らかい人だった。ギャップという言葉を知る前の私だ。

側から見たらきっと悪い大人のM君だが、私にとっては色々な楽しみを教えてくれたとても偉大な大人の一人。

電動ガンを初めて撃った時は衝撃的だった。狙った方向に弾が一直線に飛んでいくではないか。男のロマンを感じたNと私は、あっという間に電動ガンに夢中になった。

私達が楽しそうに電動ガンを撃っていると、後ろで見ていたMくんが笑顔で

「どうだ?面白いだろ?(実際はもっと方言訛り)」

今でも忘れない、その時のM君の笑顔が何故だか眩しいくらいにかっこよかったのだ。

ー捕ー


電動ガンに夢中になった私は、直ぐにでも自分の電動ガンがほしくなった。

Nは早速、FA-MASという銃の電動ガンを購入。私も遅れながらAK-47という銃の電動ガンを手に入れた。

小学生に電動ガンのような高価な物を買う財力はない。私は祖父に頼み込んでコソッとお小遣いを貰った。

祖父は父にバレないように上手くやれよとアドバイスをくれた。

それから毎日、夜中にNと団地の裏山で撃ち合いをした。辺りは真っ暗で虫の声だけが鳴り響いている。Nがどこに身を潜めているかわからない状況に胸が高鳴った。私は心から楽しんでいたのだ。

電動ガンに興味を持ってからは、ガンアクションの映画を未漁った。ランボーやコマンドー、映画の中で得た知識を試したくなったので松明を作る事にした。

単純に本物の松明を作ってみたくなったからだ。

その日、Nと一緒に山で大きな木の棒を拾ってきた。その棒に着なくなった服を番線で巻きつけて固定する。最後にNの姉の部屋からZippoオイルとライターをコッソリ拝借して火を灯した。

それがすごく綺麗だった。

真っ暗な山の中で、その火だけが明るく周りを照らしている。好奇心で自分の手を火に近づけるとやっぱり熱いんだと思った、子供の遊びではない。

松明を持って山の中を散策していると、団地の駐車場に赤色灯が見えた。その時はまだそれが何か理解していなかったのだが、警察だった。

「君たちなにしてるんだ」と叫ばれる

「松明で遊んでる」と返す

しばらく会話した後に、私とNはパトカーに乗せられ連行された。あっという間の出来事に状況が理解出来ず怖くなったのを覚えている。

補導されたNと私は説教を食らう。

警察に怒られたのは初めてだったのだが、あまり悪い印象はない。

「遊ぶのは構わないが危険な遊びはするんじゃない」ごもっともな意見だ。

この日再び、父に完膚無きまでボコボコに殴られた。この時の私も反省はこれっぽっちもしていない。寧ろ殴られた、畜生、やり返そう等と考える始末。本当に救えない。

母も手に負えない私に「お母さんもう死にたい」と言って泣いていた。


ー無垢ー


相変わらず学校には行ったり行かなかったり。Nの家に入り浸るような生活を続けていた。団地に住んでいる周りの子供達とも仲良くなった。その中の一人にYという男がいた。

Yは学年は同じだが学校で一度も見たことがないレアキャラだ(ドラクエで言うならはぐれメタルみたいな)

聞けば父親は刑務所にいると言う。Yの母親は他に男を作っているようで、家にはほとんど帰って来ないらしい。

そんなYの家の中は荒れ果てていた。坊主頭でフケまみれ。何故か眉毛がない、そのせいか人相が悪い。

当時は子供だったのでわからなかったが、Yの親はとんでもない親だ。Yはネグレクトを受けていたのだ。

今でも忘れもしない、鼻を劈くような強烈な臭い。

Yの家の冷蔵庫からウジャウジャとゴキブリが出てきたのだ。それを見た私が

「うわっ汚ね!!!」と叫ぶと

怒ったYが包丁を手に取り追いかけて来た。突然のことで恐ろしかったので、外まで全力で逃げた。

裸足のまま全力で逃げた初めての日になった。

そもそも冷蔵庫の電源が入っていないのか、電気が止まっていたのかなんなのかは覚えていない。兎に角、大量のゴキブリを見た衝撃は今でも忘れない。

Yの最初の印象はご覧の通り最悪だ。世の中にはこんな人間がいるのかと思ったのだ。同時にYの様な悲しい思いをしている子供は、世の中に一体何人いるのだろうかと幼いながらに考えたものだ。

そんなYのことを思い出したので書こうと思う。

Yには何故か悪い友達と先輩が沢山いた。その先輩は中学生で身長も私達より一回り大きかった。片手に煙草を持っていて、まるで漫画の中の不良みたいだった。テンプレートみたいな。

中でも印象に残っていることがある。先輩達が煙草を吸って吐いた後に、わざとらしく痰を吐くような仕草だ(実際には唾を吐いている)

その内の一人がペーッと痰を地面に吐いた。煙草を消す時にその痰に火を押し付けて消化する。ジュっと音がして火が消える。それを見た私は何故か、ケーキに刺さった蝋燭が思い浮かんだ。

何故かそれが面白く、ツボに入るというかきなっているのが気持ち悪いというか。伝わらない表現だと思う。私は笑ってしまいそうになった。

しかし、絶対に笑ったらいけないと思い、気持ちをグッと押し殺して別のことを考える。なんとかその場を誤魔化すことが出来た。

Nの姉の彼氏M君のような、かっこ良さみたいなものは微塵も感じられず、只々いきり散らかしているような子供集団だと感じた。

集団と遊ぶようになってから少しずつ、私とNは変わってしまった。この中学生達はバイクを持っていた。それも恐ろしくうるさいバイク。(たぶん所有者は違う)どうやって手に入れたかわからないバイクに乗っていた。

その集団はNとYと私、それから他に何人かいた小学生達にマイナスドライバーの使い方をレクチャーしてくれた。

これ以上は書かない。その日の夜に、Yがビックスクーターに乗って団地に帰ってきた。

外から「出てこいよ」、と聞こえたのでNと駐車場に向かう。そこには身の丈に合わないビックスクーターに跨ったYがいきりにいきり散らしてニッコリと笑っていた。

足が着くか着かないかという絶妙なポジションを保ちながらだ(頑張ってる感というか)

これ見よがしに自慢するY。

先に言っておくが、ここからはフィクション感覚で見てほしい。思い出しながら書いているが、自分でも呆れているので。

Yは私とNに鍵を投げた。

Nが鍵をキャッチして「なんの鍵?」とYに聞くとスーパーカブの鍵と言ったのだ。

あれだけマイナスドライバーのレクチャーを受けておきながら、鍵が付いているではないか。

というツッコミは置いといて、どうやら駐輪場に停まっている一台のカブを指差している。

Nと私はそのバイクに二人乗りをして、団地の周りをひたすら走った。

本当に自由になれた気がした

尾崎豊の歌詞みたいな表現だが、夏だったこともあり夜風が気持ち良い。大きな声で叫んでも、私の声は風の音とエンジン音に掻き消される。空気抵抗を諸に受けた耳には、聴いた事のない音が鳴り響いていた。

それから毎日のようにバイクで走った。ヘルメットを被るというルールすらも知らない。転けたら死んでしまうかもしれないという頭も持ち合わせていない子供が二人。

そんなことがいつまでも続く筈もない。ある日、
いつものように団地の周りを走っていると、物陰から男が手を伸ばしながら飛び出してきた。

「停まれ!!!」

この時Nは焦ってハンドルを切ったが、なんとか体制を持ち直した。状況がわからない私はとりあえずNに逃げる様に言った。

それから知らない男は猛ダッシュで追いかけてきた。山道を逃げる。後ろを振り返ると、男一人ではなく数人で追いかけて来ている。どこから現れたのか不思議だった。

増えてる

Nは運転を誤り、次の瞬間二人して田んぼに突っ込んだ。転んだ先が田んぼだったので大きな怪我は無かったのだが、状況が飲み込めていなかったのでNと二人して山の方に必死に走って逃げる。

後に知ったが、私達を追いかけてきたのは私服警官だったみたいだ。住民から通報があって張り込みをしていたらしい。

話を戻して、体は泥水でビチャビチャになり、不快でしかなかった。兎に角無我夢中で走って逃げた。

朝まで隠れてその場はやり過ごした。

次の日、Yが捕まった。

どうやらバイクで他所の家の塀に突っ込んだみたいだ。

幸い大怪我ではなかったようだ。調書をとる際に私とNのことを話し、後日家に警察が尋ねてきた。

母はまた泣き崩れ、父からは呆れられた。この日は殴られもしなかった。私のような子供は殴る価値すら無かったのだろう。

地元の警察に父親の親戚が勤めていたので、代わりにその叔父にはこっ酷く叱られた。

この後の話は都合良く端折る。スーパーカブの持ち主が本当に優しい老人で示談で済んだらしい。怪我が無くて本当に良かったと言ってくれた。他人事の様だが、この日を境に悪いことの区別がある程度だが出来るようになった気がする。気がするだけだったかもしれないが一時は静かにしようと思えた。

ここまでが小学生の頃の思い出だ。いい意味でも悪い意味でも、Nと出会えて本当に良かったと思っている。Nは今関東で絵描きをしているみたいだ。彼が絵を描いている姿を一度も見たことがない。大人になるにつれ色々なことを経験して天職に巡り会えたに違いない。


ー中学ー


中学生になると、Yや先輩達とはあの事件以来、連まなくなった。きっと幼いながらに私は、関わっていけないと思ったのだろう。Yは中学校に来ることは数回しかなく、しばらくして少年院に入ってしまった。現在は、その道の人になっていると聞いている。服役中らしく、二度と会うことも関わることもないだろう。

Nとはクラスも離れ、人数も倍以上になったことで次第に連まなくなった。Nは相変わらず学校には来ない。来たとしても登校は昼過ぎなので、会うタイミングがない。私も人のことを言えない。

中学校は周辺五つの小学校から集まる大きな学校だった。都会からしてみれば田舎だろうが、最初はその人数の多さに驚かされた。

自転車通学になったので、学校までは自転車で三十分かけて通った。あの事件の後に、母と中学校は真面目に通う約束をしていたので、通わないわけにはいかなかった。

この片道三十分がキツくてどうしようもない。バイクに乗ってしまうと人力ではエンジンに絶対に勝てないと幼いながら理解してしまう。マセたガキはそんな事を考えながら通学していた覚えがある。

授業は相変わらず退屈で、朝礼が終われば机に突っ伏して眠る。最初の方は先生も怒ってくれていたが、次期に何も言われなくなる。小学生の時とあまり変わりはない。

クラスメートとは直ぐに打ち解けた覚えがある。一年生の頃に仲良くなった子達とはよく、帰ってから携帯電話でメールをした。書いていて思い出したが、私が中学生の頃はガラケーだった。今はスマホが当たり前の時代になっているが、ガラケーが当たり前の時代だった。

町外れの山の中にある小学校から来たRという男と仲良くなった。Rは坊主頭でガッチリとした体型。野球部に入っていて少しだけ、いや、かなり尖っている性格の奴だった。

このRはかなりマセていた。というのも、私はそれまで服や髪型にそれ程まで興味がなかった。音楽なんて、ほとんど聞いたことはなかった。Rは私に色んな事を教えてくれた。あまりに楽しそうに話をするRを見ていると私まで楽しくなった。

ある時、「休日うちに泊まりに来なよ」と言われたので、山道を自転車を漕いで登った。今でも覚えているが、地獄のような坂道だった。学校が終わって夕方出発したのだが、Rの家に着く頃には辺りもすっかり暗くなっていた。

上り坂しかない山道を、よく一人で登り切ったなと自分で感心したものだ。

Rの家も母子家庭だった。父はRが小学生の頃に自殺してしまったらしい。Rの母の実家で、祖父と祖母四人で住んでいた。泊まりに行ったその日にRが《エミネム》というラッパーのCDを大爆音で流し始めた。

コンポが音割れする程ボリュームを上げて、Rはノリノリになっていた。今までこんなに大きい音を聴いて感動したのは、うるさいバイクのマフラー音だけだった私だが、この日から音楽にどっぷりのめり込んで行くことになる。

その日、HIP-HOPというジャンルの音楽を初めて聴いた私は、すぐにHIP-HOPに夢中になった。

今でこそサブスクが普及してスマホで音楽を聴くことが当たり前になっているが、当時はレンタルショップへ行き、片っ端からCDを借りてきて、それをMDコンポで焼くという作業をしたものだ。

それから2PAC、The Notorious B.I.G.、N.W.A書ききれないが、様々なラッパーの曲を聴き漁った。

CDに和訳付きの歌詞カードが付いていれば万々歳。歌詞カードを見て、頭の中で色々なことを思い浮かべたりすることが昔から好きだ。聞き手が自由に解釈出来るので音楽が好きだ。

ラッパーの半生や、ドキュメンタリーのDVDを探しては借りを繰り返した。どんどん知識を深めて行った。

昔から好きになればとことん追求したくなる性格だ。熱中し過ぎて時間があっという間に溶けてしまう。生きていく上でなんの役にも立たないことでも、自分が好きでやってるならそれでいいと思う。熱中して調べた事はいつか、どこかで話の種になったりするかも知れない。

無駄なことなんて一つもない

太字で書いた後にこんな事を言うのもなんだが、熱が冷めるのも早い。あれだけ好きでたまらなかったものに、ある日突然興味がなくなる。

これは特性なのか何なのか、調べたこともない。自分でもびっくりするほど見えなくなる。視界から消えるというより脳から消える。跡形も無くだ。

Rと連むようになってしばらく経った頃、Rの先輩で学年が一個上のS君と遊ぶことになった。S君は私を

「女の子みたいで可愛い奴だな」と言ってとても可愛いがってくれた。

というのも今でこそ身長が180近いのだが中学生になった頃の私の身長は、140しかなかったのだ。驚くことに、6年で40センチ近くも伸びている。小さく色白の私は、女の子みたいだと言われる事が多かった。

S君はどうやら、YやYの先輩と交流があるらしく私の事を知っていたのだ。余計なお世話だが、Yの先輩が私を可愛いがるように言ってくれていた。人は見かけによらない、悪そうに見える人達は情に熱い人が多い気がする。実際見た目通り悪いだけの人もいるのだが。

S君はRと違いロックが好きだった。私が初めて好きになった曲でもあり、ロックが好きになったキッカケでもある

GOING STEADYの童貞ソー・ヤング

この曲も私の大事な思い出だ。S君の家にあるスピーカーは馬鹿みたいに大きかった。ウーハーを別で繋いで改造しているので、聞いたことがないほど大音量で音楽が流れ出した。心臓に直接音が響くような感覚。

初めてこの曲を聴いた時に、なんてストレートで混じりっけのない魂の籠った歌なんだろうと感動した。

この歌詞が正に、当時の私の気持ちを代弁してくれているような気がしたのだ。私の青春は始まったばかり。パンクロックの素晴らしさはS君から教えてもらった。

それからはロックばかり聴くようになった。S君は太陽族、銀杏BOYZ、GO!GO!7188、ジャパハリネット、B-DASH書ききれない程、沢山のバンドのCDを貸して教えてくれた。

S君には歳の離れた兄がいる。そのお兄ちゃんも大のロック好きだった。ハイラックスサーフに乗っていて、SUVの素晴らしさはこの人が教えてくれた。

この頃からRとS君と私とお兄ちゃんの友達とライブハウスに行くようになった。

残念なことにGOING STEADYは解散したばかりで見る事は出来なかったのだが、銀杏BOYZは私が中学2年生の頃、ライブハウスで生で聴くことが出来た。

-比較-


私には二つ年下の弟がいる。弟は昔からとても可愛い、心から愛している。きっと今よりもっとおじさんになっても可愛い弟に変わりはない。私の大切な家族だ。

しかし、小さい頃は本当に仲が悪かった。書けば引かれるのだが、ここには思っている事を吐き出すことにしたので書いていく。

父はニ回も大学に入り直したらしい。一回目の辞めた理由は、夜の仕事や身近な人の死だとしか聞いていない。絵に描いたようなサラリーマンだった。

自分が苦労したので、息子には大学に行ってほしかったみたいだ。今思えば父は、どうしようもないくらい不器用な人だと思う。

私と弟に、勉強しないとつまらない人間になるぞと口酸っぱく言っていた。つまらない人間とはろくでもない大人という意味だろう。

私は小学生の頃から劣等生で、周りにいる人達に迷惑をかけてきた。自分勝手で傲慢、誰が見ても先行きは不安でしかない。望んで選んだのは私自身だからどうしようもない。

小学高学年のある日を境に、父とは目も合わない、一切口を効かなくなった。

父は私を見る度にため息をついた。

ため息をつかれる理由はわかっていた。兎に角父が嫌いでしょうがなかった。私も負けじと尖って見せた。頑張って背伸びをしたガキンチョだ。

弟は小さい頃からお兄ちゃんっ子だった。ヨチヨチ歩きの頃から私の後ろを着いてくる。私がソファーに座ると、弟も隣に座る。

今でこそ可愛い弟だと思う。当時は、真似をされるのが嫌でよく弟を殴った。いつも私が悪いので、母に叩かれた。

話を遡って小学生の頃、私がNの家に行くと言うと弟は決まって「僕も一緒に行く!」と言って着いてきていた。私はそれが鬱陶しく、酷い言葉を浴びせて泣かせた。それから、泣きながら執念で着いて来る弟をボコボコにして、川に突き落としたり。

とんでもない兄だ

また小学生の頃の話だが、私と友達が公園で遊んでいると急に弟が現れたことがある。

「お兄ちゃん!僕も入れて!」

と既に泣きそうな顔をしている。私の友達は、私が弟を鬱陶しく思っている事を知っていたので、弟に向かって「帰れ!」と怒鳴り、自転車ごと蹴っ飛ばしたことがあった。

弟は転げて泣きじゃくっている。

その時何故か私は、怒りが込み上げてきて友達をボコボコにしてしまった。頭に血が登って少しやり過ぎてしまった。後日母と一緒に、菓子折りを持ってその友達の家に謝りに行った。

なんとも不思議だったのは、私の中で弟は鬱陶しい存在だったはず。にも関わらず、弟が誰かに危害を加えられたら自分のことのように、ちゃんと気持ちが動くという事に驚いた。

弟を鬱陶しく感じていた感情が未だにハッキリとはわからないでいる。きっと自分の世界に弟を入れたくなかったのかなんなのか。

弟が中学生になるまでに、数え切れないほど喧嘩をした。歳を取る毎に弟も強くなってきた。酷い時には警察と救急車が来たこともあった。

そのくらい大事になったこともある。

両方が何かしらの武器を持って流血している光景は、今考えてみたらホラー映画みたいだ。何であんなに喧嘩したのか理解出来ない。本当に些細な事、ソファーの取り合いだったり、ゲームでの勝敗、理由は幼稚だったはず。

ある日、喧嘩がエスカレートして弟が私の頭を机の角に刺したことがある。そのまま流血、救急車で運ばれた。今も額の傷を見ると弟を思い出す。全部いい思い出だ。

弟は私と違い、文武両道でスポーツも勉強もピカイチだった。何のスポーツをしていたかは伏せるが、大学までそのスポーツ一本で行ってしまった。塾に通っていて、成績はいつも上位だった。

父と母は土日には必ず弟の付き人。朝から晩まで弟に付きっきり、三人はよくその日の出来事なんかを話していた記憶がある。

私は家にいる方が少なかった。家族と土日一緒に過ごすなんて、吐き気がするくらいに思っていたからだ。

弟と仲が悪かったのは、きっと劣等感みたいなものがあったからだと思う。

今でこそ本当のことが書ける。やっと書けると思うと、なんだが負けた気持ちになる。正直、私は寂しかっただけだ。私はいつも強がってしまう、大事な人を失くしてしまう。いつも決まって後悔するのだ。

捻くれず、強がらずに本当のことを言えば良かった。理解されないことが怖かったのだと思う。
いつも喉に痞えてしまう。そんな弱虫だ私は。

本当は、どこか父に認められたかったと思う。褒めてほしかったんだと思う。もっと沢山、色々なことを話せたら良かった。

性格が合わないので、話も続かないだろうけど。父と私は本当に噛み合うことは一生ないだろう。

頭の隅っこでは、父のことを気にしていた。否定される度、本当はしたくないことをした。本当は言いたくない酷い言葉も言った。全部裏目に出た気がする。

本当はそんな勇気もないし強くもないのだ。

父と再び会話をするまでに、数十年の時間が経過することになる。


ーKー


中学でも相変わらず勉強への興味が湧かず、授業も寝てばかりでテストはいつも0点だった。優しい先生の科目だけは、何か書いてあればお情けで数点をもらえる時もあった。

三者面談がある日、母はいつも浮かない表情をしている。

「お母さん、心痛よ」

と、ため息混じりで私に言った。

それもその筈、小学生の頃は

「息子さんは残虐性があります」
「息子さんは二面生があります」


と、教師から私の事を聞いた母は、何回かショックで倒れてしまった覚えがある。真面目で優しい母にそんなストレートに言わないでほしいと思っていた。全部私が悪いので仕方がない。

三者面談は母にとって地獄の時間だったと思う。中学生になっても先生から言われることは

「やる気が感じられない」
「何を考えてるかわからない」
「集団行動が出来ない」
「授業に集中していない」


但し、人に迷惑をかけるような事は確実に減っていた。0にはならないのだが。

進路の話になった時には決まって

「このままだと、どこにも行けない」

それを聞いた母との帰り道では

「○○、塾に行ってみる?」

と、言われた事がある

「行くわけない」

と突っぱねた覚えがある。そもそも勉強自体に興味がなかった。

中学二年生に上がると、Rとは別のクラスになり、毎日のようには連まなくなった。

学校に行った日には机に突っ伏して寝ていた。汚い話だが、たまに熟睡し過ぎて机が涎まみれになっていたこともあった。

それから、私の前の席だった女の子Cと仲良くなっていく話を書かないといけない。

Cは面倒見が良く、明るい優等生だった。

私が寝ていても、先生や他の生徒は機嫌が悪くなるのを知っているので起こさなかった。

しかし、このCだけは違った。何故か起こして来るのだ。天敵みたいなものだ。

「プリント置いとくよ!!!ねぇ!!!」

と大きな声で言われると私も

「うるせーな聞こえてんだよ」
等と口の悪い返答をしていた記憶がある。

「ねぇ!ねぇ!ねぇ!起きて!寝不足?ねぇ!」

このようなやり取りが数十回繰り返された。流石の私も折れてしまった。次第にCと話すことが増えた。多分、面白くなってしまったのだ。それに悪い奴じゃないだろうと思えたからだ。

それから、メールのやり取りをするようになった。

Cはバレー部に所属していて、真面目なので学級委員だった。私とは真反対のタイプだ。家族が好きだと言っていた。自分の両親の話や弟の話を楽しそうに話していた。

明るいかと思えば、人付き合いは苦手みたいだった。今思えばかなり繊細だったと思う。普段そうは見えない人間なので、聞かないと本当のことはわからない。

音楽の話をしていると、Cは私に聴いてほしい曲があるらしく、学校に一枚のCDを持ってきた。

CはBUMPしか聴かない!と言うほど

BUMP OF CHICKENの大ファンだった。私にピッタリの曲があると言って、The Living Deadのアルバムを貸してくれた。

その中に入ってるKという曲を聴いてほしいと言う。私は帰って早速CDをセットして聴いてみた。

Kに辿り着く前に、一番のOpeningを聴き終わった段階で、涙腺が緩くなってしまったのを覚えている。文章力がないので上手く表現が出来ない。今まで私が聴いてきたどのジャンルにも当てはまらない。そっと寄り添ってくれているような、優しい歌声と音色だった。

お次は二番のグングニル

冒頭

そいつは酷い
どこまでも胡散臭くて
安っぽい宝の地図
でも人によっちゃ それ自体が宝

二番の冒頭

そいつは酷い
どこまでも胡散臭くて安っぽい宝の地図
でも誰にだって それ自体が宝物


歌詞を理解した瞬間に

あ、これ好きだ

と直感で好きになった。

それから歌詞カード片手に、順に流していくとKという曲が流れ出した。Cが言ってたのはこの曲かと思い、集中して聴いた。

聴き終わってから一番に思ったのは、一つの完結した物語を見ているようだった。情景が思い浮かぶ、猫を拾い上げた男。黒猫は走る、あの子の元まで。これまで感じたことのない、不思議な感覚だった。

それから何度もリピートして聴いてみる

Cが私にこの曲をオススメした意味がなんとなくわかった気がするのだ。言葉じゃなく、音楽で私にわからせるなんてすごい奴だ。

正直、Cには沢山救われた。子供ながらに大人のように気が配れるすごい奴だと思えた。

簡単に言うと頑張れってことだ。こういう目に見えない優しさみたいなモノが、素直に嬉しかったという思い出。

②に続く

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