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難病を患った父への感謝と死の淵から救ってくれた紅白歌合戦【大学病院ER23日目】

この日は大晦日。いつもは義実家に帰省していたので、自宅でオットと2人で過ごす年越しは久しぶりだった。『お節は無理だけど(笑)蕎麦とお雑煮くらい作るかね〜』なんて父とも話していたので、年越し用の買い物に出かけてから面会に向かった。

相変わらず、年末の救命外来は大賑わいだった。待合の椅子に座ることすらしんどくて、背もたれに倒れ込むようにして待っている患者さんやそのご家族が所狭しと。待合から離れたところで1人、看護師さんの迎えを待つ。自分の身は自分で守らないといけない。

思えば約40日間、毎日こうして看護師さんのお迎えを待った。地元の総合病院でも大学病院でも。検査が長引いて3時間近くかかったこともあれば、行き違いから1時間半待ったことも。10分で呼ばれた日は「今日はラッキー」と気分が上がったりした。

どの待ち時間も「考えるための時間」になった。疲れ果て爆睡してた頃もあったけど大半は急性期にあった父の症状を思い巡らす時間だった。さらに、そこにまつわる父と娘、自分と病気の家族、医療スタッフと患者(家族も)など、他者や物事と自分との関係性についても随分と考えたものだ。

考えたからってどうにかなるものでもない、と私は思う。「考えるより先に」行動してしまうタイプ。ただ、父が救急搬送されてからは今までになく考えるようになった気がしている。いろいろと決める、決断するという場面が多かったからかもしれない。「考えずに決めるなんて軽率なことはしたくない」と思ったのはこれまでの人生ではあまりなかったように思う。

父の病気は、その辛さは、そしてそれらと向き合う父の姿は、全部私にとって糧になった。

父への感謝を伝えたくて

前日ベッドの場所が変わり、徐々に「緊急対応は不要」と判断されていることがわかってきた。さらにこの日の父はずいぶんと身軽で、急性期を脱しつつあると確信が持てた。

さすがにDSを持ってくる勇気はなかったんだけど(笑)御所望のニベアプレミアムを持参すると『そうそう、これこれ♪』と喜ぶ父。さっそく病室の流しでホットタオルを作り、顔を拭き、プレミアムを塗ってあげてご満悦。これで看護師さんにも「ハンドクリームを顔に塗っている人」と思われなくて済むね、お父さん。

顔のケアと口腔ケアを終え、ちょうど看護師さんが『これからカテーテルを外す処置をしようと思います。少し待合でお待ちいただけますか』とやってきた。待合に長くいるリスクを考え『今日はこのまま帰ろうと思います』と伝えると、父も了承してくれた。

帰り際、

『今年はほんとうに頑張ってくれてありがとう、お父さん。来年もよろしくね。頑張ろうね!看護師さんもぜひ良いお年をお迎えください』

と伝えると、看護師さんが笑顔で『ありがとうございます』と返してくれ、父も『おう、頑張ってお雑煮作って。良いお年を』と笑顔で返してくれる。

この救命病棟で、こんなに穏やかであったかい空気が流れるなんて、来たばかりの頃は想像もつかなかった。

いろんなことがあったけど結局私は父にも医療スタッフにも支えられてきた。本当にただただありがたい気持ちで、どうしてもそれを伝えたかった。年末って、そういう優しい気持ちになれる時なんだね。

最後に父を救ってくれた紅白歌合戦

これは後日談ではあるんだけど、大晦日だったこの日、スタッフステーションではテレビで紅白歌合戦をつけていたらしい。

夜になると、悪夢や幻覚を見るのが続いていた父。眠剤を飲んでも眠れない(眠るのが怖い)という状態は症状が良くなってきても消えていなかったそう。

「誰かに見張られている」「自分を引き摺り下ろそうとしている」「陥れられる」そういう妄想に苦しみ、現実の医療スタッフにも猜疑心を抱いてしまった父は、正直スタッフを信頼しきれていなかったらしい。

「ここは安心できる場所ではない」そう思っていた父の耳に入ってきたのが、紅白歌合戦を見て談笑しているスタッフの声だったそう。『あぁ、ここにいるのは【普通の人たち】なんだと、ようやく実感できたのが大晦日の夜だったんだ。それからは悪い夢はあまり見なくなった』と後になって話してくれた。

年の終わり、最後の最後で、紅白歌合戦が父を現実に引き戻してくれたのだ。

死の淵をさまよう。たぶんこういう表現がぴったりなのだと思うけど、後から父の話を聞いてゾッとした。グレイ先生にも、スター先生にも「最悪のケースを」「生きるか死ぬか」と言われながら《そんなはずない》と自分に言い聞かせてきたけれど、実際、ほんとうにそうだったのだ。

『もう、お願いだからここから出してくれ』と何度もスター先生に嘆願していたらしい。その都度先生や看護師さんたちが『大丈夫ですよ、ここは安心していいところなんですよ』と伝え続けてくれたと聞く。

もしも父が、(幻覚の中の)黒い服を着た人と一緒に付いていってしまったら…もしも先生方が『危ないから戻っておいで』と妄想から引き離してくれなかったら…父はあちらの世界に行っていたのかもしれない。

そんなスピリチュアルなことも、ある意味現実になっていたのかな?なんて思う。

よかったよ…マジで、戻ってきてくれて。

何の事前通告もなかったけれど(笑)実はこの大晦日が、救命病棟で過ごす最後の夜になった。年が明けて2020年の元旦、父は【救命病棟を出る】という最初の目標をクリアした。

地元の総合病院で17日間、大学病院で24日間。父はE-ICUと救命病棟で《生きるか死ぬか》の闘いを続け、そして見事に勝ってくれた。目前に迫る「最悪のケース」と逃げずに向き合い、そちらの世界に引きずり込まれそうになりながらも、脱出してくれた父を誇りに思う。

再び戻ってくることは絶対にない、とは言い切れない。難病とは「治ることが難しい」という定義だから。再発し、また前みたいに苦しむのでは?という恐怖や葛藤と闘いながら、今も多くの人が自分の体と対話し、治療方法を先生と一緒に模索し、病と共に生きておられる。

運命を受け入れ、逃げることなく運命と共に生きる。それがどんなに難しいことか、私の想像をはるかに超える領域なのだろう。

できることは、目の前にあるものをしっかり見つめ、小さな目標をひとつひとつクリアすること。父から教わった最大の教訓かもしれない。そうやって毎日を積み重ねていくことそのものが、闘病なんだと思う。

急性期を脱した父を待っていたのは、TAFRO症候群という疾患の治療(「持病」への移行)と併せ「廃用症候群」つまり日常生活動作を自分1人で行うことができない、という課題だった。

新たな課題に向けて、新しい年にまたチャレンジしていく父。私はまだまだ「伴走できている」とは到底言えないけど、いつも父のそばにいて、ずっと父の味方でありたいと思う。

ずっと頑張ってくれてありがとう。
また新しいスタートを切って、一緒に走っていくよ。
(あ。父ちゃん、置いてかないでね〜爆笑)



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