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TAFRO症候群最重症での急性期脱出時はこんな状態

救急搬送されてから40日、父は集中治療を終えて救命病棟を出ることができた。「何かあったらすぐ来れるように」と先生から呪文をかけられ、病院からの電話に怯え、「このまま意識がなくなってしまうんじゃないか」と焦る意識混濁を目の当たりにし、人工呼吸器や輸血・透析などのたくさんの管に繋がれていた状態を脱することができたのは、父の頑張りと医療スタッフの懸命な治療のおかげだと思っている。あとは少なからず運やタイミングなども関係していたかもしれない。

集中治療室(ICUのほかここでは救命病棟も含む)を出るタイミングは、患者の回復状況だけではないことも知った。病院のベッドの空き状況、医療スタッフの状況など病院側の事情でもタイミングは変わる。

ただ父の場合は入院当初から「透析からの離脱が課題」と説明されていたから、それを一つの指針として父の経過を見ることができたのは家族にとって本当に心強かった。実際には他にも課題はいくつもあっただろうけど「透析が外れればひとまず経過は良好なんだ」と【わかる】安心があったからだ。

TAFRO症候群は急激に全身症状が悪化する。父の場合も倦怠感や息切れ、歩行困難など「これはいつもと違うな」と感じてからわずか数日で救急搬送になった。いくつかの前兆はあったものの「風邪でもひいたか」という感じで、かかりつけの病院ではたびたび風邪薬が処方された。

一人一人、出現する症状がまったく異なるので、あくまでも父の場合ではあるけど、TAFRO症候群の症状が救急搬送時(前)→集中治療終了の期間でどのように変化したかをまとめてみようと思う。

ちょっと長くなるけど、お付き合いくださいませ。

※父の病院と経緯の移り変わり
・2019年10月下旬→下痢と腹痛でかかりつけの近医を受診(2回)
・2019年11月下旬→血液検査の結果により近医から救急搬送、敗血症と診断され総合病院E-ICUへ
・2019年12月上旬→総合病院から大学病院救命センターへ転院、TAFRO症候群の診断
・2020年1月初旬→救命病棟を出る

T:血小板減少

救急搬送時、父の血小板数値は0.5万だった。正常値は15万以上と言われている。血液を固める役割を果たすため減少すると体のあちらこちらで出血が起き、脳や主要臓器で出血が起これば救命は難しいと言われ(半分脅され)ていた。

当初はDIC(播種性血管内凝固症候群)併発の疑いも。DICは出血傾向と凝固傾向が同時に無秩序に起こり、相反する2つの傾向どちらに対しても治療をしなければ予後が悪いと言われていた。

そもそもTAFRO症候群のひとつの症状として血小板減少が起きている。TAFROの治療をしなければ数値は回復しない。が、最初の2週間はその疾患そのものがわからない状態だった(病名の診断がつかない)から、血小板輸血による補充療法と「ヘパリン」という血液凝固を防ぐ薬の投与によって「これ以上悪くなるのを防ぐ」という対処療法で凌ぐしかなかった。

大学病院に転院するまでの期間、上記2つの対処療法で父の血小板は最大4万まで上がっていたが、これは輸血による補充のおかげで自力で上げることはできない状態(「輸血依存」というらしい)。輸血をしなければすぐに数千単位に戻ってしまう。

診断後、TAFRO症候群への治療が始まってからも、数値は1〜4万を行ったりきたり。輸血依存にも変わりはなかった。最後の血小板輸血をして救命病棟を出る際の数値は2.9万。その後、輸血なしで1万台を推移する状態が10日ほど続き、自力で数値が上がってきたのは治療開始から1ヶ月経過した頃だった。

最低でも10万という単位が正常値。どうやっても4万程度にまでしか上がらないから「いつ出血してしまうのか」とずっとビビっていた。けど、ある情報によると『血小板が1万でも通常の生活を送っている人もいる』らしい。

そうすると、最初の先生の脅しって一体…

まぁツッコミはともかくとして、ひとまず「輸血をせずに済むと判断された状態」で父は集中治療を終えることになった。

A:全身浮腫・胸水・腹水

血管から滲み出た水分が体の中に溜まってしまうことで起こる全身の浮腫。胸に溜まれば呼吸が苦しくなり、腹に溜まれば妊婦のように膨れ上がる。顔や手足にも浮腫が広がり、ふたまわりほど体が大きくなっていた父。

救命病棟を出た後に測った体重は90Kgで、通常体重が75Kgほどの父は単純に考えても15Kgの水が体内に溜まっていることになる。食事が取れず脂肪や筋肉は確実に落ちていたので、溜まった水分はおそらくそれ以上だ。

この時、すでに顔と手の浮腫は随分ひいていた。お餅のように膨れ上がっていた手はしぼんでシワだらけになっていたし、頬は痩けて骨張っていた。

MAXでどのくらい水が溜まっていたのかはわからない。ただ見た目に「少し水が引いた状態」で15Kgは溜まっているわけで、さらに脂肪と筋肉の低下を考えると、最大で20Kg以上は水があったのだろうと推測している。

胸水で呼吸が苦しそうだったのは治療開始後も2週間くらいは続いたように思う。つまり搬送から1ヶ月くらいは呼吸が苦しく、SpO2(血中酸素)も低い状態だったということだ。人工呼吸器をつけたのは大学病院に来る前のこと。挿管すれば喋れないわけで、マスク型の人工呼吸器だけで済んだのは今思えば幸いだった。

酸素は最初がマスク型、その後鼻チューブ型に変わり3〜5Lの間を行き来していた。搬送当初から『酸素マスクが苦しい』と父はずっと訴えていて、できる限り鼻からの酸素に変えてもらっていた。もちろん救命病棟を出る際にも鼻からの酸素は続いたままではあった。

搬送されて数日経ってから出現した腹水は長く続いた。私はいつも「妊婦さんのお腹の大きさ」で腹水の状態を表現していたのだけど、妊娠8ヶ月〜臨月くらいの大きさのお腹を抱え、寝返りが打てず仰向けの体勢がほとんどだった父はすごく苦しそうにしていた。介護用おむつもLLサイズでないと入らない状態。

腎機能が低下して尿が出ないため、透析による水分排出のみでコントロールしていた集中治療期間。「水が溜まったら抜けばいいのでは?」と思っていたんだけど、腹水はあまり大量に抜いてしまうと血圧低下などのショック症状が起きるため慎重にしていますと先生から説明があり、私が知る限りではTAFROの治療が始まってから1回だけ、腹水を抜く処置をしたみたい。

救命病棟を出る際にも、父のお腹はまだ臨月大ほどあった。透析を外したらもっと苦しくなるのでは?と心配だったけど、腎機能が回復してきて、利尿剤を使って尿として排出されるようになり、2ヶ月ほどでお腹は徐々に小さくなってきた。

F:発熱(炎症)

救急搬送から2週間、父の体温はずっと38℃台だったようだ。1回目のアクテムラを投与して一旦は37℃台に下がったものの、搬送から1ヵ月は熱が出てずっとアイスノンが欠かせない状態だった。いつも「寒い寒い」と言っていた父。布団(毛布)をかけると重たくてお腹や足が苦しい状態と、寒さとの戦いが続いていたように思う。

炎症の数値を表すCRPという血液の値は、大学病院に転院当初11だった(正常は0に限りなく近い)。かかりつけ医から救急搬送と判断されたのも、血小板とこのCRPの異常値がきっかけ。

治療を開始してからの数値変化の経緯はわからないんだけど、救命病棟を出るときにはCRPが0.27まで下がっていた。それでもまだ体内で炎症が起きているという値ではあるらしい(0に限りなく近いという判断にはならない)。ただ発熱が治まって36℃台〜37℃台前半まで下がってきたのもあり、炎症は抑えられてきたと判断されたのだと思う。

最初の頃は頭の後ろだけでなく、腋や鼠径部も冷やして熱を下げる処置を続けていた。手足は冷たく「寒い」と言いながら布団をかけるのを嫌がった父。浮腫と血栓予防のための医療用フットマッサージャーが付いた足を薄手のタオルケットでくるんであげたりしながら熱と戦っていた。

R:骨髄繊維化/O:臓器腫大

この2つに関しては、正直よくわからない部分だ。

骨髄繊維化については、地元の総合病院で骨髄穿刺をした結果「繊維化している」と判断されて以来、その後の経過がどうなったのかの説明は一度もなかったと記憶している。骨髄が繊維化してしまうと血液を正常に作れないという話は先生が説明してくれたのだけど、治療によって元に戻ることがあるのか?それとも「持病」として続く症状なのか?まったくわからない。

TAFRO症候群と診断されてから救命病棟を出るまでの間に、再度骨髄を取って検査をすることもなかった。あの検査、相当痛いらしいので父にとっては良かったはずだ。地元の総合病院で人工呼吸をつけることになったのも骨髄穿刺の後のことだったくらいだし、体の負担を考えて、もしくは急性期にやる検査ではないと判断されたのかもしれない。

臓器腫大についても、父のケースではあまり該当しないのだと思う。TAFRO症候群はリンパ節が腫れるタイプとそうでないタイプがあると患者会の方が教えてくださったけど、父はリンパ節の腫れの所見はないようだった。また肝臓や脾臓の腫れも多少あったにせよ指摘を受けたり、その治療をするなどの説明もなかったと思う。

ただ、腸が腫れているという症状はずっと続いていた。これがTAFRO症候群の「臓器腫大」に該当するのかはわからないけど、最初の「風邪かな?」という兆候である下痢や腹痛の原因も、腸が腫れて腸壁が薄くなっていたからとのことだった。腹痛と下痢はずっと続き、進行すると腸壁に穴が開いて腹膜炎になる可能性があるらしく、ステロイド治療を第1選択にしなかったのは副作用で腹膜炎を引き起こすのを避けるためと言われていた。

お腹を壊すことを恐れていた父は、集中治療期間中、水分も食事も流動食やゼリー類でさえほとんど口にしなかった。水下痢でおしりが荒れてしまい寝ていても痛い状態だったようで、いろいろな症状の中で最も苦しかったのがこの下痢だったらしい。

救命病棟を出るときも、おしり問題と水下痢は良くなっていなかった。ただ水分や食事を取らず、寝たきりで動けない状態だとガスも溜まり、お腹はどんどん苦しくなる。『薬だと思って食べて欲しい』と先生に言われた重湯から始め、少しずつ水下痢が解消されていったのは、搬送前から続いていたことを考えるとたっぷり3ヶ月は経過していたと思う。

通常のおむつと尿取りパットでは間に合わず「軟便パット」と呼ばれる介護用品を使っていた。それでもほとんど毎日のようにベッドや病衣を汚してしまうことがとても心苦しかったと父は話してくれた。

その他:腎機能障害

尿が出にくいという症状は救急搬送されて数日後に現れた。搬送時すぐに尿カテを入れられたのだが、目で見てわかるほど量が減った時は、1日400ml以下の「乏尿」状態だった。そこからあっという間に1日100mlも出ない「無尿」状態に陥り、たった2週間で腎不全の状態にまで悪化していた。

救急搬送当初は何らかの感染症から来る敗血症の対処療法のため、血液浄化の目的で透析をつけられたと思っていた。

そこに腎不全という意図もあったと知ったのは、大学病院でTAFRO症候群の診断が下り「透析からの離脱が課題」と言われてからだ。実はそれまで腎機能低下に関して私の中ではそれほど問題視していなかった。「多臓器不全」の可能性を指摘されていながらも、救急搬送当日に先生から『透析は浄化のための一時的なものですから』と言われ安心し切っていたというのが大きい。

父の症状はそれほど日に日に、刻々と悪くなっていったということなのだろう。

腎機能の状態を見るのは血液中の「クレアチニン」という値だと先生は説明してくださった。通常は1.0〜1.2ml以下が正常値で、転院時の父の値は3.07、腎機能が低下し排出されないクレアチニンの値が高くなっている。

24時間透析を続け、間隔透析への移行、そして離脱で救命病棟を出ることができたが、その時のクレアチニンの値は1.73に下がっていた。依然として正常値ではなかったけれど、これも利尿剤を使って尿として排出できるようになってから数日で下がっていった。

TAFRO症候群重症度の変化

TAFRO症候群の重症度分類は以前の記事にも引用しているけど、転院時の父の状態はほぼ満点、grade5の最重症と診断されていた。2015年TAFRO症候群診断基準と重症度分類に基づいて、急性期を脱出して救命病棟を出たときの重症度がどのように変化したのかを考えてみる。

・Anasarca(最大3点)・・・3点→2点(腹水+浮腫)
画像検査で確認された胸水(1点)
画像検査で確認された腹水(1点)
理学所見で確認された圧痕を残す浮腫(1点)
・血小板減少(最大3点)・・・3点→2点(4万以下)
10万/ul未満(1点)
5万/ul未満(2点)
1万/ul未満(3点)
・発熱/炎症(最大3点)・・・2点→0点(37℃台前半&CRP0.27)
発熱が37.5度以上38.0度未満、又はCRPが2mg/dl以上10mg/dl未満(1点)
発熱が38.0度以上39.0度未満、又はCRPが10mg/dl以上20mg/dl未満(2点)
発熱が39.0度以上、又はCRPが20mg/dl以上(3点)
・腎障害(最大3点)・・・3点→1点(透析離脱&※)
GFRが60ml/min/1.73m2未満(1点)
GFRが30ml/min/1.73m2未満(2点)
GFRが15ml/min/1.73m2未満、又は人工透析が必要(3点)
※GFRとは老廃物を尿へ排泄する能力を示しており、値が低いほど腎臓の働きが悪いということに。推算糸球体濾過値(estimated glemerular filtration rate)というものでクレアチニン値・年齢・性別から救命を出るときの父の推算をすると、32.1という値が出る。
参照-旭化成ファーマ東京女子医大腎臓病総合医療センター

※4項目最大12点で重症度をスコア化し、
0-2点:TAFRO症候群の診断としては不十分
3-4点:軽度(grade1)
5-6点:中等症(grade2)
7-8点:やや重症(grade3)
9-10点:重症(grade4)
11-12点:非常に重症(grade5)

あくまでも推察の域を出ないけれど、ここから考えると、急性期を脱出したときの父のスコア合計は5点。TAFRO症候群の重症度はgrade2の「中等度」にまで回復できたのではないかと思っている。

家族から見たTAFRO症候群の治療と経過

ここで書いたことはあくまでも家族から見た、または家族に説明があった、経過だ。1日に面会できるのは長くて2時間程度。きっと実際にはもっといろいろなことが起きていたのだろうとは思う。

病気を抱えるご本人の体験や医療関係者とは情報量や正確さに雲泥の差があるのは重々承知の上だ。

ほんとうに「良くわからない難しい疾患」なのだというのが素人の感想だし、何よりも集中治療と全身管理が必要な状態を早く脱出したいというのがまず頭にあったから、素人の私から見た経過や治療は、専門的に見てTAFRO症候群の治療とは言えない部分に焦点が当たっているところもあるんじゃないか、とも思う。

でも少なからず、私がネットで穴が開くほど見てきたTAFRO症候群の症例や論文に、上記のような内容は書かれていない。そして患者家族である私が何より一番知りたかったのは「何が苦しいのか、それはどの程度で、どんな経過を辿るのか」ということで、そういう情報はTwitterや患者会の「生の体験」からたくさんのことを教えていただいた。1人のTAFRO症候群の体験としてほんの少しでも参考になったらいいな…と思っている。

治療法が確立されていない、症状も一人一人バラバラ、合併症や副作用などで疾患以外の症状が出たり、治療抵抗性(一般的な治療をしても症状が良くならない)のケースも多い希少難病、TAFRO症候群。

幸いにも急性期を脱出して救命病棟を出ることができた今、家族の立場で一番望むのは、1日も早くこの疾患が医療関係者の間で知られる状態になるまで研究や認知が進むことだ。診断がつかず、治療が遅れて、急速に進む症状の悪化を抑えられずに亡くなってしまうケースが、悲しみや悔しさが、少しでも減ること。

父は、素晴らしい先生方との出会いや、アクテムラとステロイドの治療が効いたという意味で少なからず「運やタイミング」にも恵まれたと私は思っている。

現状、TAFRO症候群の体験記や闘病記録はわずかしかない。微力ながらちょっとでもこの疾患の認知や、苦しんでいる方・周りで支える方の「わかる安心」に繋がってくれたら、ほんとうに嬉しい。

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