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「この割れ切った世界の片隅で」を読んで:東京から見た片隅とは?

「この割れ切った世界の片隅で」を読んで

「この割れ切った世界の片隅で」というnoteを読みました。長崎の女子高生が夢をもちながら努力するうちに自分ではどうしようもない壁にぶちあたり、自分の「ふつう」は多くの人の「ふつう」とは違うのだと気が付いてしまう。そんな17歳が自分の経験と気持ちを正直に語りかける。

読む人に「あなたのふつうを教えてください」と呼びかけた投稿が多くの人に響いたようで、たくさんのスキやコメントが付いています。自分の気持ちを代弁してくれたと共感する人も、逆に地方の学生が持っている歯がゆさを初めて知ったという都会の「恵まれた」人も、遠い過去にそういう経験をしたという人も。まだの人はぜひこのnoteを読んでください。

わたしはといえば、やはり地方出身なので、この人の「ふつう」と似たような子供時代を過ごしました。てか、今よりももっと保守的で進学率も低かった時代だったし、ただぼーっとした子供だったので、この人のように強く何かをしたいとか、将来何になりたいとか思うことなく、悩む以前の「ふつう」の田舎の女の子にしかすぎませんでした。彼女に言わせるときっと「生きてるだけで100点」と言われるような存在(でも、そんな彼女の言葉にはきっと愛がこもっている)。

今も「生きてるだけで100点」の若者は地方にはたくさんいて、その人たちはそれなりに日常に満足しているかもしれないし、人生について特に小難しく考えてないかもしれない。でも、田舎にだって彼女のように夢や野心を持つ人もいる。そういう人たちにとって、東京の「ふつう」の家に生まれ育ち、塾で勉強して私立学校から大学に行き、海外旅行に行ったり留学したりする同世代の人は、どんなにかまぶしく、うらやましく映ることでしょうか。それをはじめて目の当たりにしたとき、地元では優秀と言われる学校の優等生としての自負はがらがらと崩れていくのでしょう。そして、自分はスタート地点にさえ立てない気がして絶望してしまいそうになるのかもしれません。

とはいえ、東京で「恵まれた」家庭に育った若者にとっては、それが彼らにとっての「ふつう」です。地方出身者の多くが高卒で地元の自動車工場や市役所に就職して一生をその街で過ごすという「ふつう」の生活を知らないのも仕方がないことです。分断された「割れ切った世界」では、知り合うことも、すれ違うことさえないかもしれないのですから。

上野千鶴子教授の東大入学式祝辞

この記事を読んで、去年女性差別に関連して話題になった東大祝辞のことを思い出しました。2019年の東大の入学式で、上野千鶴子教授が東大新入生に向けたものです。男性の比率が多い東大入学生におめでとうと祝辞をのべたあと、上野教授はこう語りました。

がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひとたちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

長く女性学を専門としてきた上野教授はこのスピーチを主に男女差別の図式で語りました。でもこれは性別に限らず、社会やその出身における格差についてもあてはまることです。

社会的に成功した人は自分の成功は自分の努力によるものだと(特に悪気はなく)思いがちです。でも、実はその背景にはそうすることができた環境や幸運があるのは否定できません。本屋も塾も進学校もない田舎の小さな村に生まれ、親や周囲に高卒で職を持つことが当たり前と刷り込まれて育ったら、どうでしょうか。たとえ本人が18歳になって大学に行きたいと思ってもスタート地点にさえ立てないだろうということは簡単に想像できます。

ノブリスオブリージュの教え

上野教授はこのあと、エリート候補生に対して「ノブリスオブリージュ」の教えと言ってもいいようなことを語ります。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。

私が住むイギリスは今でも階級がはっきりと存在するところで、異なる階級の間の「ふつう」ギャップが日本よりずっと大きいと言えます。だからこそ、生まれながらに上流階級で育ち、私立学校などの高等教育を受けてエリートとなった人たちは、その成功を自らの才能や努力のたまものとは考えません。エリートになるべく生まれ育ったのだから、社会に貢献すべきだというノブリスオブリージュの義務を感じています。また、周りからもそれを期待されています(中にはそうでない人もいるけれど)。

これに対し、自分の代で功成り名遂げた人は、その成功はすべて自らの才能と努力によるものだと感じがちです。だから社会に還元しようという気持ちがわかないというのも自然なのかもしれません。

かつて「一億総中流」と言われた日本社会も、今は親の階層が世代を通じて次の世代に引き継がれつつあります。その意味では新たな階級社会へ向かっていると言えるのです。もちろん昔の階級に比べればその境は緩やかであり、階層間の移動も個人の才能や努力である程度は可能です。

けれども地方の公立高校から有名大学へ進学する生徒が多かったひと昔前に比べるとどうでしょうか。今は、塾や私立学校などにかかる学費や下宿費用、教育・大学入試に関する情報量などが学生の進路を大きく左右する傾向にあるのは否定できません。身近なロールモデルの有無、周囲の期待、学習意欲や将来展望、自己肯定感の違いなどがこれに追い打ちをかけます。

このままの状況があと半世紀もが続いて日本にもはっきりとした「階級」ができるのでしょうか。そうなればエリートとなる人にはノブリスオブリージュの精神がいつかは身につくのかもしれません。けれども、その過渡期にあるあいだはどうでしょうか。「勝ち組」となった人たちは自分たちの成功から得る報酬や社会的な名声を自分だけの成果だとして(悪気はなくても)独り占めしてしまうかもしれません。だから上野教授のように、未来のエリート候補生にそのことを伝えて、現実を知ってもらわないといけないのだと思います。

東京以外はみんな片隅

どこの国でも多かれ少なかれ、階級や格差は存在します。イギリスからながめる私から見て日本が特殊なのは、その格差が東京とそれ以外という極端な一極集中の構図になっていることです。(もちろん、東京以外にも大都市や経済的に裕福な地域や、地域内の格差もありますが、おおむねそうであるという意味で)

イギリスでは、本当の上流階級やお金持ちは田園地帯に大きなお屋敷を持って住んでいることが多いし、中流階級も郊外や地方の田舎に住みたがります。有名大学もオックスフォードやケンブリッジをはじめとして全国各地に散らばっているし、大学に入る前の名門私立小中高校も同様。エリート養成所であるイートンなど寄宿舎付きの私立名門パブリックスクールはほとんど自然豊かな田園地帯にあります。

首都ロンドンは政治経済の中心ではあるけれど、日本のように仕事、メディア、文化などがすべて首都に集中しているわけではありません。国の政策もあって、産業が地方都市にも分散しているので、地方にいながらもキャリアを構築し高収入を得ることができます。シティで働く金融業界人はいるし、ロンドンが好きで都心に住んでいる人もいますが、一般的に言ってイギリス人は人口密度が高い都会より郊外や田舎に住みたがります。若い人でもかなりそういう傾向があるし、子供を持つ家族となるとなおさら。

けれども日本では首都一極集中が極端で、政治、経済、文化、メディア、エンターテイメントなど何から何まで東京にあります。いい大学も、まともな仕事もだいたい東京圏にしかないのです。だから上昇志向を持つ若者はぞろ東京にあこがれ「上京」を目指します。取り残された人々は、東京の人にとっては世界の片隅と思われている地方で「ふつう」の生活を送るわけです。

とはいえ、人数を考えるとどちらが「ふつう」なんだろうかと疑問に思います。東京都の人口は日本全体の11%、首都圏となると30%となりますが、それでも大多数の人はそれ以外の地方に住んでいます。それなのに、政治経済もですが、メディアや雑誌などの情報がほとんど東京からの発信なので、東京が中心で他の地方はすべてが「片隅」に見えてしまうのです。

スタートラインが逃げてゆく

走らうとすれば地球が回りだしスタートラインが逃げてゆくんだ  山田航

山田航という歌人は札幌の人だそうです。その境遇などはよく知りませんが、この歌を聞いたとき、地方に住む若者の焦りや苛立ちのようなものを感じました。希望に向かって走り出そうとするのに、スタートラインがするすると向こうに逃げていき、いつまでたっても出発点にさえたどり着けないという風景は「この割り切った世界の片隅で」に描かれている景色にも重なるところがあります。

山田航はさらに、あきらめの感情さえ漂わせている歌もつくっています。

たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく  山田航

高度経済成長の時代は地方にいても昨日より今日、今日より明日が豊かになっていくという希望がありました。地価の安い田舎では一般家庭が庭付き一軒家を持つこともそう難しくはなかったのです。そんな親の世代が建てた家の子供部屋に今でも同居している若者がいるでしょう。

私の田舎の知り合いの話を思い出しました。大学は出たものの就職氷河期時代に就職できず、実家に帰ってコンビニの非正規雇用につく息子を持った人です。親はこの子の将来はどうなるのだろうと心配していました。「まともな」職について独立し、結婚して家庭を持つものと思っていたのに、今でも親の家に住んでコンビニでペットボトルを補充していると。

東京から見た片隅

思えばコンビニって、中央に支配される「片隅」という構図を象徴しているようですね。日本の地方はすべてが東京を中心とする郊外なのかもしれません。それぞれの地方にもはや中心はなく、あるのは郊外型ショッピングモールやロードサイドに点在する全国チェーン店だけ。そこにはテレビや雑誌に載っている東京発ブランドの商品が並んでいて、それを買うことで何とか中央とつながっている気持ちになれる。

日本の地方にも昔は中心市街地があってにぎわっていましたが、今はシャッター街と化して空洞化してしまいました。かつて地方都市の中心市街地は軒並み「〇〇銀座」と呼ばれ、東京をまねる街づくりだという声も聞かれました。でも今ではそれさえ消えてドーナッツ状態。そこにはもうお店も飲食店もありません。店のおやじににらまれながら立ち読みができる本屋も仲間とたむろするゲームセンターも。

地方の車社会の到来と並行してやってきた、東京のにおいがする店舗、ブランド、商品が置かれた郊外型の店は車を持たない学生や若者にはチャリでようやっと行けるところにしかありません。そんな、何もない田舎に愛想をつかした若者は都会に出ていきます。取り残されたものはローンで車を買って中央の匂いがするイオンでつかの間の消費を楽しみます。

サンデルのThe 'Tyranny of Merit'

最近マイケル・サンデルが出した 'The Tyranny of Merit' という本はまだ翻訳されていないようですが、「能力主義の横暴」とでも訳すのでしょうか。「メリトクラシー」についての問題点とその解決策を述べた本です。「メリトクラシー」というのは階級や生まれではなく、個人個人の能力や業績によって社会的地位や報酬が決められるべきだという考え方です。

生まれによってすべてが決まるという昔に比べ、今は努力すれば報われる平等な社会であるとされてきました。身分や階級、性別、人種など自分では選べないものではなく、本人の努力や才能によって成功を収めた人にはその価値があり、それに対する報酬や名誉を得るのは当たり前であるという考え方です。一見もっとものように聞こえますよね。

でもサンデルは「勝ち組」の成功の陰にはしばしば境遇や環境、運があると主張します。東大の上野教授が祝辞で述べたことと重なるところですね。このメリトクラシーの結果として貧富や名誉の差が生じることはもちろんですが、それよりもっと社会に悪影響を与える問題として、サンデルは次のことを挙げています。

①勝ち組と負け組の間の分断
②勝ち組がその理由が自分にあると思い込むこと
③負け組がその理由は自己責任だと感じ、自分に誇りをもてなくなる
④勝ち組が社会に還元しないこと

勝ち組と負け組の間の分断ということでは、思いあたる事象がいろいろ出てきます。米国で白人労働者階級が経済的に辛酸をなめたことでトランプのポピュリズムを支持したこと、イギリスで労働者階級がEU離脱を支持したこと、フランスで地方の労働者が「エリート」マクロン政権に抗議して行った黄色いヴェストデモ、ヨーロッパ諸国での右派ポピュリズムの台頭など。

勝ち組が社会に還元しないことというのは、前にも上げたノブリスオブリージュの欠如という観点と同じです。自分の成功が自らが勝ち取った成果だと信じる人たちはその褒美を独り占めしようとしがち。勝ち組が社会に貢献するとしたら、自分1人では使いきれないお金を自分の趣味趣向でばらまいたり、自分自身が好きで応援したい人だけ気の向くままに助けるというようになることが多いようです。

この本を読むと、これまで私たちが信じてきた民主主義社会の「平等」という考え方が覆され、暗澹とした気持ちになります。けれども、サンデルは問題を指摘するだけで終わらず、この本で解決策をも示唆してくれています。

サンデルの解決策

行き過ぎた能力主義によってもたらされる問題を解決するための手段として、サンデルは次のことを提案しています。

1.大学の役割について考え直す
2.労働の尊さの再認識
3.成功の意味について考える

まず、彼が主張するのは大学卒業を立派な仕事やいい生活の条件にするべきではないということです。誰もかれもが大学に行くわけではないし、行く必要もないのかもしれません。現に、大学に行きさえすればいい仕事に就けると思ったものの、得たものは非正規雇用と膨大な教育ローンの借金だったという人も多く出てきています。大学卒業生のすべてが望む職業や地位を手にいれられるわけではありません。また、アカデミックな学習が性に合わない人もいれば、手に職をつけたりほかの分野に秀でている人もいます。だから、各人に合った職業選択をすればいいというのです。

これとも関連するのが、「すべての労働は尊い」という彼の主張です。「職業に貴賤はない」というのは日本の道徳の教科書で習ったことです。でも貨幣価値がすべてというような昨今の米国社会では、もはや誰も信じていなかった観点でしょう。

サンデルはどんな仕事であれ、公益に寄与する仕事は尊いと説きます。この点については、新型コロナウィルス流行中に医療介護、運搬、清掃、店舗スタッフなど、国民の生活を支えてくれたエッセンシャルワーカーへの感謝の気持ちが高まったことで、理解できるようになった人がいるのではないでしょうか。彼が、ゴミ収集者や清掃人の仕事は医師と同じくらい尊いのであるからそれについての尊敬の念を忘れるべきではないと語るとき、パンデミック前とその後では説得力がずいぶん違うと思います。

サンデルはこのような考え方は社会において仲間意識やコミュニティ意識を育てるためにも重要であるといいます。働く人一人一人が自分の仕事は社会に役立っていると考えられるようにしたり、高い賃金や尊敬を得られるような社会にするべきだと。

そして「勝ち組」の人たちは自分が勝ち得たと思っている成功は本当に自分だけの手柄なのかを今一度考えるべきだといいます。そこに到達することができたのはもともと持っていた境遇や環境、幸運や周りの理解やサポートがあったからこそなのであるという、謙虚な精神をもつことが必要だと。

私たちに何ができるのか

サンデルの言うことはよくわかるけれども「そうは言っても」という気持ちもあります。

まず、能力主義に問題があるとはいえ、昔のように生まれた時の身分や性別、人種で差別されるような社会よりはいいではないかという点。まずはそういう差別をなくしてみんなが機会の平等を得られるようにすることが先決ではないかという。

もうひとつは、国や社会全体のメリットということから考えると、無能な人がトップに立つよりは、能力や業績、経験がある人に重要な役割を担当してもらった方がいいのではないかということです。そのためにはそれなりの地位や報酬をその人たちに与えるのは当然でもあるし、そのほうがコスパがいいのではという考え方。無能な人を社長に据えて会社全体の利益が減ったら社員全員に分配するべき収入が減ってしまうでしょう。

その上で、やはり過度の能力主義によって社会に分断が起こるということは問題ですよね。また、能力もあり希望もあるのに、環境によってその可能性の芽を摘まれてしまう若者がいるのは不公平。

だから、せめてスタート地点は公平に、機会の平等を全員に与えるための努力は必要。教育レベルや学習機会の格差をなくすためにできることは何でもすべき。地方の片隅で大志を抱きながらも、もがき悩んでいる子供を支援したり、情報を提供する仕組みがその第一歩といえます。

そのためには政策決定者となるトップに立つ「エリート」政治家や官僚、そしてその候補生たちに、自分たちがふつうと思っていることが果たしてそうなのかを考えてもらい、社会の多様性や片隅でもがいている人たちの存在と悩みを理解してもらう必要があります。

その上で私たち全員が考えるべきなのは、そもそも、今の社会で「成功」とか「出世」とか「勝ち組」とか考えられていることが、本当の意味での幸せにつながるのかということです。アカデミックな高等教育を受けたり、外国語を学んで国際社会で活躍したり、政治家になったり、高収入を得たり、大企業で出世することだけが人間の評価や個人の幸せをはかる基準なのかということ。

そういう大人を生み出すための画一的な学校教育がすべての子供にふさわしいのか。多様な価値観や生き方、働き方を尊重し、一人一人が希望する将来に向かうことを手助けする教育こそが大切なのではないか。さらに言えば、成長する段階、またはいったん社会に出てからでも、本当に自分が学びたいことやしたいことが見つかった時に、その分野での学びなおしやトレーニングを受けることができる機会があることも。

そして、ほかの誰かが「片隅」と思うようなところでも、その地域社会に根をはって愛する家族や仲間たちとささやかながらも幸せに暮らす生活は、都会であくせく働き高収入は得ても孤独感を持つ暮らしより豊かなのではないかということ。

これが、日本の田舎で生まれた特に取り柄のない女の子が、世界に飛び出してぐるっと回ったのちに得た結論です。世界に飛び出したからこそ分かったことなのかもしれないのですが。

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