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【BOOK】『正義の申し子』染井為人:著 本当の正義は「献身」

自前のブログに掲載した読書感想文をnoteにも展開する実験です。

【BOOK】『正義の申し子』染井為人:著 本当の正義は「献身」 – Crazy One – glad design blog –
Photo by TK on Unsplash

小さい頃から正義のヒーローになりたかった。
という話は「シン仮面ライダー」の回で書いた。
本作『正義の申し子』のヒーローは、そんなかっこいいヒーローなんかではなく、かなりの「どうしようもないクズ」なのである。

告発系ユーチューバーの出来心から燃え広がる 路傍のクズたちの大騒動!

現実では引きこもりながら正義のユーチューバー“ジョン”として活躍する青年・純。悪徳請求業者に電話をかけ、相手をおちょくったところ大好評。キャラの濃い関西弁男を懲らしめた動画は爆発的に再生数を伸ばす。味をしめたジョンは、男とリアルに会って対決し、それも配信しようと画策する。一方、請求業者の鉄平もジョンを捕まえようと動き始めた。2人が顔を合わせた時、半グレや女子高生をも巻き込む大事件に発展する!

Amazon.co.jp: 正義の申し子 (角川文庫) : 染井 為人: 本より引用:

登場人物、全員がクズ

Photo by Ahmed Rizkhaan on Unsplash

出てくる登場人物のほとんどが「クズ」である。
本作は主要な登場人物たちが、それぞれの視点からの語り口で紡がれている。
派手なパフォーマンスで再生回数に取り憑かれている告発系ユーチューバーである「佐藤純」こと「ジョン」、関西弁のろくでなし架空請求業者の「栗山鉄平」、退屈な毎日をただ無為に過ごしている女子高生「眞田萌花」。
同じ出来事であっても、視点が違えば全く違う意味で伝わってしまう。
セリフのひとつひとつが、ジョンからの視点と鉄平からの視点では全く違った意味を持っている。

正義とは人間の数だけある。
その人にとっての正義は、あの人にとっての正義とは限らない。
価値観は人ぞれぞれだが、何を大事にするかで人生の充実度は大きく変わってくる。
本作におけるそれぞれの登場人物視点での構成は、誰もが良いと考えていた「正義」というものが、実はそれぞれの主観の産物でしかないことを端的に示している。
人間は主観の中でしか生きることができないのかもしれない。
どんなに客観的に物事を見ようとしても、バイアスがかかってしまう。
それは自分という存在を消し去ることはできないからだ。

「正義の申し子」は誰か

Photo by Jon Tyson on Unsplash

本作の主人公は誰か。
表面的には「鉄平」が主人公感を醸し出しているのは間違いないが、本当の主人公は「佐藤純/ジョン」ではないかと思う。
ユーチューバーの「ジョン」はタイガーマスクをかぶって暴れ回る様子を撮影・配信する。
だが、マスクをとると生身の人間としての「佐藤純」が現れる。
いや、デフォルトは「佐藤純」で、マスクを被ることで「ジョン」が現れると捉えた方がいいかもしれない。
「佐藤純」の中で、現実世界でのストレスが「ジョン」を産んだと解釈した方が良さそうだ。

ーーーネタバレ注意ーーー

物語中盤で、佐藤純とジョンとのやりとりが頻繁に起こる。
それはマスクを被ったりとったりが繰り返し繰り返し反復され、それぞれの人格がひとりの人間の中で別々に形成されていく。
マスクを被ったりとったりすることで、人格がスイッチするのだ。

俗にいう「二重人格」である。
正確には「解離性同一性障害」という神経症だ。

解離性同一症とは、かつて多重人格障害と呼ばれた神経症で、子ども時代に適応能力を遥かに超えた激しい苦痛や体験(児童虐待の場合が多い)による心的外傷(トラウマ)などによって一人の人間の中に全く別の人格(自我同一性)が複数存在するようになることをさします。

解離性同一症 / 解離性同一性障害 | e-ヘルスネット(厚生労働省)より引用:

「解離とは、(中略)、軽いものでは読書にふけっていて他人からの呼びかけに気付かないことなどが当てはまります。」
とあるので、我々も日々の暮らしの中で、軽い「解離」をしているということになる。
読書だけにとどまらず、テレビを見たり、「推し活」に夢中になっている時間は、メインとなる自分の人格から「解離」しているのだ。
そう考えると、解離すること自体はそんなに悪いことでもない気がしてくるから不思議だ。
むしろ、毎日の中で適度に解離することで、バランスを取っているのかもしれない、とさえ思う。

佐藤純がどのような心的外傷(トラウマ)を経験したのかは描かれていない。
だが、学校生活でのストレスが肥大化していったことは想像できる。
四年生の頃の回想シーンで、先生の指示で教室中が二人一組を作っている時、自分一人が取り残されてしまった、という経験が描かれている。
その後は具体的な描写がないが、佐藤純の中で、こういう寂しさを抱えることなく、強い自分になりたいと思えるようなキャラクターが具体化していき、タイガーマスクをかぶることで「佐藤純ではない別の何か」になることで一気に現実化してしまったのだろう。

正義とは

Photo by Luke Michael on Unsplash

佐藤純にとって、またジョンにとっての「正義」とは一体なんだったのだろうか。
悪徳な架空請求業者は社会悪であり、それらを成敗することがジョンにとっての「正義」だったということは読み解くことができる。
だが一方で、佐藤純は家族に対して辛辣な言葉を浴びせ、妹の蘭子にまで暴力を振るってしまう。
その怒りを自分自身で制御できないことに逆に驚き、自信を失っていく。
自身の思うがままに力を行使することは正義ではない。
そのことに気づきながらも、制御できないもどかしさが「ジョン」という怪物を生み出したのか。


長い期間にわたり激しい苦痛を受けたり、何度も衝撃的な体験をすると、その度に解離が起こり、苦痛を引き受ける別の自我が形成されてしまい、その間の記憶や意識をその別の自我が引き受けて、もとの自我には引き継がれず、それぞれの自我が独立した記憶をもつようになることが発生の原因と考えられています。

解離性同一症 / 解離性同一性障害 | e-ヘルスネット(厚生労働省)より引用:

ということは、やはり(ほとんど描かれてはいないが)過去になんらかの大きなストレスとなりうる出来事があったと見るのが妥当なようだ。
その辺りを深く掘り下げていくことで、より「ジョン」の狂気と「佐藤純」の素朴さが浮き彫りになったのではないだろうか、という気がしてしまう。

正義とは人間の数だけあり、人ぞれぞれによって解釈が異なるものだ、と先ほど書いた。
本作の構成も、それを裏付けるように、同じ出来事を登場人物それぞれの視点で描いている。
だが、それでも万人が首肯する正義はないのだろうか?

その答えは、アンパンマンに象徴されている。
今や誰もが知っている子供のヒーロー、あの「アンパンマン」である。
正確にはアンパンマンの生みの親、やなせたかし先生である。

しかし、やなせさんは「正義とはかっこいいものじゃない」と譲らなかった。アンパンマンに込めた“本当の正義”とは、「お腹をすかせた人を救うこと」。彼は第二次世界大戦時、24歳で中国に出征。飢えに苦しみながらも日本の正義を信じて戦ったはずが、戦後「悪魔の軍隊」と呼ばれ、信じていた“正義”が一変した。自著『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)では、「正義のための戦いなんてどこにもないのだ 正義はある日 突然反転する 逆転しない正義は献身と愛だ 目の前で餓死しそうな人がいるとすれば その人に 一片のパンを与えること」と綴っている。

戦争経験したやなせ氏が伝えたかった“アンパンチ”に込めた正義とは | ORICON NEWSより引用:

本当の正義とは「献身」である、と先生は述べられている。

本作では、自分のやりたいことを優先して生きてきたジョンと鉄平が、最後には協力して萌花たちを救出へと向かう。
これはまさに「献身」の行動である。
目の前でお腹を空かせた人がいれば食べ物を差し出すことと、大切な人が苦しんでいたら何をおいても駆けつけ助けることは、献身の行為であり、「本当の正義」なのだ。

これは何も特別なことではない。
考えてみれば、ごく当たり前のことである。
現代に生きる我々は、その当たり前のことを、日々の生活の中で忘れてしまってはいないだろうか。

今も世界のどこかの国では戦争が起きている。
誰かと誰かの諍いが絶えない。
中東の国では、いまだに空爆を繰り返し、一般人が犠牲になっている。
ロシアとウクライナの争いも、出口が見えていない。

ただ、目の前の困っている人に手を差し伸べるだけのことが、どうしてできないのだろうか。
当たり前の「献身」ができれば、それだけで「正義」なのに。


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