【BOOK】『正義の申し子』染井為人:著 本当の正義は「献身」
小さい頃から正義のヒーローになりたかった。
という話は「シン仮面ライダー」の回で書いた。
本作『正義の申し子』のヒーローは、そんなかっこいいヒーローなんかではなく、かなりの「どうしようもないクズ」なのである。
登場人物、全員がクズ
出てくる登場人物のほとんどが「クズ」である。
本作は主要な登場人物たちが、それぞれの視点からの語り口で紡がれている。
派手なパフォーマンスで再生回数に取り憑かれている告発系ユーチューバーである「佐藤純」こと「ジョン」、関西弁のろくでなし架空請求業者の「栗山鉄平」、退屈な毎日をただ無為に過ごしている女子高生「眞田萌花」。
同じ出来事であっても、視点が違えば全く違う意味で伝わってしまう。
セリフのひとつひとつが、ジョンからの視点と鉄平からの視点では全く違った意味を持っている。
正義とは人間の数だけある。
その人にとっての正義は、あの人にとっての正義とは限らない。
価値観は人ぞれぞれだが、何を大事にするかで人生の充実度は大きく変わってくる。
本作におけるそれぞれの登場人物視点での構成は、誰もが良いと考えていた「正義」というものが、実はそれぞれの主観の産物でしかないことを端的に示している。
人間は主観の中でしか生きることができないのかもしれない。
どんなに客観的に物事を見ようとしても、バイアスがかかってしまう。
それは自分という存在を消し去ることはできないからだ。
「正義の申し子」は誰か
本作の主人公は誰か。
表面的には「鉄平」が主人公感を醸し出しているのは間違いないが、本当の主人公は「佐藤純/ジョン」ではないかと思う。
ユーチューバーの「ジョン」はタイガーマスクをかぶって暴れ回る様子を撮影・配信する。
だが、マスクをとると生身の人間としての「佐藤純」が現れる。
いや、デフォルトは「佐藤純」で、マスクを被ることで「ジョン」が現れると捉えた方がいいかもしれない。
「佐藤純」の中で、現実世界でのストレスが「ジョン」を産んだと解釈した方が良さそうだ。
物語中盤で、佐藤純とジョンとのやりとりが頻繁に起こる。
それはマスクを被ったりとったりが繰り返し繰り返し反復され、それぞれの人格がひとりの人間の中で別々に形成されていく。
マスクを被ったりとったりすることで、人格がスイッチするのだ。
俗にいう「二重人格」である。
正確には「解離性同一性障害」という神経症だ。
「解離とは、(中略)、軽いものでは読書にふけっていて他人からの呼びかけに気付かないことなどが当てはまります。」
とあるので、我々も日々の暮らしの中で、軽い「解離」をしているということになる。
読書だけにとどまらず、テレビを見たり、「推し活」に夢中になっている時間は、メインとなる自分の人格から「解離」しているのだ。
そう考えると、解離すること自体はそんなに悪いことでもない気がしてくるから不思議だ。
むしろ、毎日の中で適度に解離することで、バランスを取っているのかもしれない、とさえ思う。
佐藤純がどのような心的外傷(トラウマ)を経験したのかは描かれていない。
だが、学校生活でのストレスが肥大化していったことは想像できる。
四年生の頃の回想シーンで、先生の指示で教室中が二人一組を作っている時、自分一人が取り残されてしまった、という経験が描かれている。
その後は具体的な描写がないが、佐藤純の中で、こういう寂しさを抱えることなく、強い自分になりたいと思えるようなキャラクターが具体化していき、タイガーマスクをかぶることで「佐藤純ではない別の何か」になることで一気に現実化してしまったのだろう。
正義とは
佐藤純にとって、またジョンにとっての「正義」とは一体なんだったのだろうか。
悪徳な架空請求業者は社会悪であり、それらを成敗することがジョンにとっての「正義」だったということは読み解くことができる。
だが一方で、佐藤純は家族に対して辛辣な言葉を浴びせ、妹の蘭子にまで暴力を振るってしまう。
その怒りを自分自身で制御できないことに逆に驚き、自信を失っていく。
自身の思うがままに力を行使することは正義ではない。
そのことに気づきながらも、制御できないもどかしさが「ジョン」という怪物を生み出したのか。
ということは、やはり(ほとんど描かれてはいないが)過去になんらかの大きなストレスとなりうる出来事があったと見るのが妥当なようだ。
その辺りを深く掘り下げていくことで、より「ジョン」の狂気と「佐藤純」の素朴さが浮き彫りになったのではないだろうか、という気がしてしまう。
正義とは人間の数だけあり、人ぞれぞれによって解釈が異なるものだ、と先ほど書いた。
本作の構成も、それを裏付けるように、同じ出来事を登場人物それぞれの視点で描いている。
だが、それでも万人が首肯する正義はないのだろうか?
その答えは、アンパンマンに象徴されている。
今や誰もが知っている子供のヒーロー、あの「アンパンマン」である。
正確にはアンパンマンの生みの親、やなせたかし先生である。
本当の正義とは「献身」である、と先生は述べられている。
本作では、自分のやりたいことを優先して生きてきたジョンと鉄平が、最後には協力して萌花たちを救出へと向かう。
これはまさに「献身」の行動である。
目の前でお腹を空かせた人がいれば食べ物を差し出すことと、大切な人が苦しんでいたら何をおいても駆けつけ助けることは、献身の行為であり、「本当の正義」なのだ。
これは何も特別なことではない。
考えてみれば、ごく当たり前のことである。
現代に生きる我々は、その当たり前のことを、日々の生活の中で忘れてしまってはいないだろうか。
今も世界のどこかの国では戦争が起きている。
誰かと誰かの諍いが絶えない。
中東の国では、いまだに空爆を繰り返し、一般人が犠牲になっている。
ロシアとウクライナの争いも、出口が見えていない。
ただ、目の前の困っている人に手を差し伸べるだけのことが、どうしてできないのだろうか。
当たり前の「献身」ができれば、それだけで「正義」なのに。
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