【BOOK】『舟を編む』三浦しをん:著 言葉によって救われる旅
人類が言葉(言語)を使い始めたのは、約10万年から8万年前くらいだとされている。
それぞれの地域でそれぞれのコミュニティを形成するにあたっては、言葉がなければ実現しえなかっただろう。
その言葉を、言葉の意味を、語釈を、簡潔に明快にまとめることは、この世界を生き抜いていくために必要な道具を作ることと同義である。
本作は、辞書編纂という仕事を通して、自身の人生や価値観を揺さぶられながらも、読者をも含めた「不器用に一生懸命に生きていく者たち」への讃歌である。
誰かに何かを伝えるために、言葉は生まれた
人類の言葉の起源はいまだにわかっていない事が多い。
というよりはっきりと解明できるとは思えない。
だが、諸説ある中で、歌のような感情表現が進化して言語が生まれたという説がある。
「言葉」はどのようにして生まれたのか | 時事オピニオン | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス
例えば小さな鳥などは鳴き声で求愛の意思を示す。
音の組み合わせを変えることで、独自性を発揮し、異性に気に入ってもらう。
こうした「音の組み合わせができる」というのが特徴のひとつ。
もうひとつの特徴として「新しい音が学べる」という点が重要なようだ。
異性への求愛という目的に対して競争論理が働き、歌声はより複雑になる、つまり進化していったと考えられる。
こういった考え方を「言語の歌起源説」というらしい。
一般的には、人間の赤ちゃんのように、意味のない発話から始まり、単語が増え、単語の組み合わせで表現の幅を広げていくという「単語起源説」が学会などでも多勢を占めているようだ。
いずれにしても、人はとなりの誰かに何かを伝えたくて、言葉を獲得していったということだ。
多くの言葉を獲得した人類は、それぞれのコミュニティの中で独自に言語をアップデートしていく。
やがて違うコミュニティとのやりとりも発生する。
そうした時、言葉の種類や意味を網羅した辞書が必要になる。
言葉は人間が人間らしく生きていくために必要不可欠な、空気や水と同じような存在なのかもしれない。
辞書という舟
舞台は玄武書房という出版社の辞書編集室。
近代的で立派な本館の隣に建つ別館(映画では旧館)にある。
日本語研究に生涯を捧げた老学者・松本先生、辞書編纂数十年のベテラン社員・荒木、仕事はできるが愛想がない契約社員・佐々木さん、およそ辞書など使ったことがなさそうなチャラい若手社員・西岡など、個性的な面々が揃う。
玄武書房では新たな辞書を企画していた。
その名を『大渡海』(だいとかい)という。
新しい辞書をいちから立ち上げるとなると、かなりの年数を要するらしい。
10年や20年かかるのが普通という世界だ。
時間がかかるので編集している間にどんどん時間が過ぎ、新しい言葉が生まれ流通していく。
そうなるとまた新しい言葉を採取し、見出し語として採用するかどうかを吟味しなければならない。
そうして吟味している間にもまた新たな言葉が日々生まれていく。
イタチごっこではあるが、言葉がそれだけ「生きている」ということの証左だろう。
人生を賭けられるほどの、命を燃やせる仕事と出会う幸せ
当初、営業部に配属された馬締光也は、そのコミュニケーション力の無さから、ほとんど営業部にとってお荷物扱いであった。
大学では言語学を学んだというその言語に対する感性は、辞書編集部に異動することで花開いた。
まさに水を得た魚のように。
そこでは言葉によって様々な人たちと出会うことになる。
とりわけ、日本語学者の松本先生は、馬締にとって人生のお手本となるような人物として描かれていた。
常に周りにアンテナを張り巡らせ、新しい言葉を聞くとすぐにメモを取る「用例採集」は、ライフワークとして馬締にも受け継がれていた。
フットワークが軽く、年齢を感じさせないアクティブさは、馬締のみならず、読者にも感動を与えたに違いない。
人生を賭けてもいい、と思えるほどの仕事が、この世界にどれほどあるだろうか。
それに従事できる人がどれほどいるだろうか。
そう考えると、この物語が途端に尊いものとして眩く見える。
映画版『舟を編む』
映画版では、主人公・馬締を松田龍平が演じている。
小説の実写化においてここまでイメージ通りのキャスティングも珍しい。
それくらい読みながらイメージした雰囲気を持っていた。
西岡役のオダギリジョーは意外な人選だと思ったが、本編では実にしっくりとくる役作りであった。
岸辺役の黒木華も意外な感じがしたが、辞書編集部に配属になった当初、小説とは違って少し苛立っている様子であった。
だが次第に辞書作りに熱を帯びてくるところも非常に良かった。
本作のエッセンスを丁度よく詰め込みながらも、映画オリジナルのエピソードも織り交ぜる、理想的な実写化だったと思う。
ごく限られた少人数で漕ぎ出した辞書作りという”船出”は、次第に仲間を増やし、ついに発売という大きな”航海”へ。
そしてその次の日からは、改訂という名の「旅」が続くのであった。
明日からの仕事がちょっとだけ晴れやかになる、そんな作品だった。
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