アディクションのエネルギーを「表現」へ
赤坂真理『安全に狂う方法』を読んだ。私の好きな、医学書院のシリーズ、ケアをひらくの一冊である。
依存という在り方をアディクションとして、一般的定義とは少し離れた視点で述べる本書、大変面白かった。
読んで、自分の経験を踏まえ思うところがあったので、記録しておく。
アディクションは、「固着」であると本書では述べられる。
薬物、アルコールなどは顕著な物質依存とされるが、それよりも本書が重視したのは、「思考」に対する固着と、人間関係における「恋愛」的固着である(私はこれを「恋愛」と括ることに関しては異議があるが、ここでは述べない)。
例えば、「自分はなんてだめなんだ」「どうせ私なんて」こういった思考にすぐ至ってしまうことは、思考の癖と言われる。本書ではこれも「思考」へのアディクションと述べる。
また、人間関係において、「この人のせいでこうなった」「この人が死ぬか私が死ぬかしければ解決しない」そう感じてしまうこともアディクションだと述べられている。
私は、このふたつのアディクションに、笑ってしまうくらいピンとくる、まさにアディクション傾向のある人間である。
幼いころから思考優位で、とにかく情報収集し、その通りにすることに意義を見出していた。
小学生の頃から、頭がよくなりたくて青魚や大豆製品を自ら摂ろうとし、「こうでなくてはならない」にひどく執着するような子どもであった。
そして私は、自らの身体を思考でコントロールする病である摂食障害の当事者でもある。さらには、自傷癖も自殺歴もある。まさしく、「思考」へのアディクションが強い。
また、人間関係においては、私の執着が原因でもある離別を数回経験している。深く関わると、すぐに対象との一体化を求める。「人は人」と切り離すことが私には難しい。
ずっと真夜中でいいのに。という歌手の「サターン」という歌の歌いだし「私といるより楽しまないで 心に傷を負った君がいい」という部分、これ、私です。
この一節は、私と同化しているはずの「きみ」が私の知らないところで、私の知らない楽しみを見いだしていることに対する私の不安と怒りを見事に表現している。
このような執着の深さを単に「メンヘラ」と片付けて、嘲笑する文化は良くない。自らの主着の深さを「わたしメンヘラだから笑」で片づけてしまうことは、自分を大切にしているとは言えないし、みつめているとも言えない。
アディクトの普遍性が提示される点は、本書の第一の特徴といっていい。私は、そこに自分を見たし、深く共鳴した。
その点を踏まえ、本書の後半部で述べられる「表現すること」へのエネルギー転換は非常に興味深い。
アディクションのエネルギーは転換できるのだと本書では述べられる。
どういうことか。
エネルギーというものは何かに変換可能である。風力エネルギーや太陽光のエネルギーが電力になるように。
というわけで、固着する(私はこの語を用いず、日常的によく「執着」と述べるが)エネルギーもまた、何かに変容可能であるという。
その変容のうちのひとつとして提案されるのが「表現」である。
文章を書くことでも、絵を描くことでも、踊ることでも、パフォーマンスをすることでも、なんでもいい。
かくいう私もまた、「表現」があるからこそ、なんとかここに留まり、犯罪的案件を起こさずに済んでいる。
絵を描いていた頃、当時のカウンセラーに自傷行為を禁止されていた。私は、女の子の絵を描き、描かれた彼女の身体に傷を描くことで、その衝動をやり過ごしたことが何度かあった。
今は、このような誰が見るかもわからない文章を書いているときが、一番自分がいきいきしていると感じる。
「表現する」へのハードルが、現在は異様に高いように感じる。
日常的に創作活動をしている人にはピンとこないかもしれないが、創作に携わってない人に「表現してみよう!」と言ったところで「で、それはお金になるの?」「なんかの役に立つの?」と返されてしまうだろう。
十分に理解できるし、経験がある。
このような反応の根底にあるのが、生産性を至高とする現代社会の価値観である。
「プロでもないのに、なにしちゃってんの笑」という、創作者に対する嘲笑は、「生産性=社会に有用」という価値観があってこそ生まれる。
私自身の話に戻すと、私はこの「有用」という価値基準に疑問があり、美術をやめた節がある。仕事で使わなければ、それは無用なのか?
理想的な学生であることこそ重要だとなぜか感じていた私は、作品の「有用」性を示すには、教師の求める美術作品を造らなければと考えるようになってしまっていた。
ちなみにこの時期は摂食障害の症状が一番酷かった時期と重なっている。
また、私は研究者でありながら、学会や学会誌での発表が非常に嫌いである。「有用」であることに重きを置いたとたん、私の筆は止まる。
正直、研究者適性があるとはいえないだろう。
自由に書く、もしくはお題がある依頼(だいたいの到達目標が示されている)ものを書いているのが好きだ。
後者は到達目標を期待して読む読み手がいる。私は受け手がいるということが明らかな「仕事」に関して燃えるタチである。
前者はまったく文字通り自由だし、自由に書いているときが一番楽しい。その出来はどうであれ、イキイキしているなぁと自分で感じる。
私の周りには、創作をしている人がぽつりぽつりといる。音楽をやっていたり、短歌を詠んでいり、デジタルアートを描いていたり。彼らは、生活のための仕事とは別にそれをしている。
そして、彼らには、独特の奥深さと余裕があるように私には映る。
こういう創作者が周りにいるんだよという話を、いわゆる趣味のない人にしたときに、「え、そんなお金にならないことになんで時間使うの?」と言った。
そして、彼は、彼らの作品が「たいしたことないんだろう」というように商業的価値を前提に述べた。
彼の価値観はまさに、「社会的有用性」に支配されているのだろうなぁと思う。
何が言いたいのかというと、「表現すること」へのハードルがもっと下がって、表現する人口がもっと増えて、数人の中で発表できるような場があるといいと思う。
生活の為、仕事に追われるような社会の在り方ではそれは実現不可能だし、社会に有用であることや利益を追求することに重きをおいていても、不毛なバトルが勃発するだけだ。
社会の在り方自体が、「表現すること」を許容し包み込むようにならなければいけない。
では、どうするのか。
そうなると一気に問題は困難になる。
ひとまず私は、よくわからない文章を書き続けることしかできない。
少なくとも、広義の「表現」は、アディクション傾向のある私が生きてゆくための必要条件であるのだから。
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