ACCATTONE(1961) ピエル・パオロ・パゾリーニ監督
イタリア映画を勧めているのに、パゾリーニになかなかたどり着けなかった。Pier Paolo Pasolini(ピエル・パオロ・パゾリーニ)の初監督作品「Accattone(アッカトーネ)」(1961年)、これは元々フェリーニの映画となるはずだったことを皆さんはご存知だろうか。
パゾリーニはもともと詩人で文学者になるつもりだったのだが、ひょんなことがきっかけでフェリーニの「カビリアの夜」の脚本手伝った。(その前から脚本は13本ほど書いて映画界に関わってはいた。)ヒョンなことというのは、パゾリーニは当時ローマの場末によく通っており、下品なローマ方言の俗語に長けていたので、フェリーニがちょっと手伝うように彼に声をかけたのである。「カビリアの夜」は娼婦の話だが、その後フェリーニはパゾリーニの才能を買い、今度は娼婦の”ヒモ”に関するストーリーを撮ろうと発案し、(いわばプロレタリア文学的に)またパゾリーニに脚本をお願いすることにした。さて脚本完成後、フェリーニは自分の映画のタッチではないことに気づき、監督をパゾリーニに譲り、プロデューサーとなることにした。しかし、彼はパゾリーニが監督をいきなり成し遂げることは現実的に難しいだろうと判断し、とうとうプロデューサーも降りてしまう。パゾリーニも確かに映像撮影の経験はなかったため、ベルトルッチに助けを求め、彼に助監督を担わさせ、完成したのがこの「ACCATTONE」である。なんともイタリア映画界は狭いというかなんというか。ロッセリーニ→フェリーニ→パゾリーニ→ベルトルッチと、この類まれな才能のバトンタッチというか、イタリア映画の王家の家系図ともいうべきか、とにかく全盛期を思わせる。
この時代の映画はネオレアリズモとは言えないが、それでもテイストは似ている映画も多い。ネオレアリズモの新世代と言えよう。この作品も貧困層に焦点を当て、俳優ではなく素人ばかりで撮っている。主役のFranco Citti(フランコ・チッティ)はパゾリーニが街で拾ってきたまさにACCATTONEだったという。”ACCATTONE"とは”乞食”の意味だが、この映画の主人公は先ほども少し触れたように、乞食というよりかはいわゆる”ヒモ”である。(”ヒモ”は正確にはイタリア語でPapponeとかMantenutoとかいう。字幕では訳されていないけれども、映画中にも暴言として出てくる単語だ)一般的にいって、人間としてどうしようもない輩と言っていいだろう。その彼を中心に下層社会を紐解いている作品である。チッティはその後もパゾリーニに気に入られ、俳優となった。しかしこういう役以外の役をやらせたら演技が上手いのかというと、ちょっとそこはわからない。彼はとにかくACCATTONEがぴったりなのである。(そう言えば、夫は友達とフランコ・チッティに会いに行ったことがあるらしい)
>>ネオレアリズモ映画に関しては、他の記事もご参照ください。(先週一番スキされた#映画感想 記事になりました。皆さんありがとうございます!)
あらすじとしては、Vittorio(Accattoneという渾名)の男は刑務所に入った友人の、妻をそのままかこって娼婦として働かせて、自分はヒモとして遊んで暮らしている。しかしその女が逮捕されたことをきっかけに改心しよう、生活を変えてみようと思い立つ。そして運命的に、ある純粋無垢な女性に出会い恋をする。一度は彼女をまた娼婦に仕立て上げ、ヒモ的生活を再開しようとしていたが、嫌がって泣く彼女を見ておられず、やはり自分が働いて一緒にまともな生活をしようと決意する。しかし、働きなれておらず、お金がなくてろくなものを食べていないこともあり体力がなく、働くことにとても苦労する。やはり自分には働くことが向いていないと絶望し、とうとう泥棒を始めてしまう。その泥棒をしているところを現行犯で逮捕されそうになったので、他人のバイクを盗んで逃走し、そのまま事故で最後、あっけなく死んでしまうのだ。(突然の結末がパゾリーニには多い)
一見、悪行を繰り返していると、ロクでもない目に遭うぞと言わんばかりの教訓めいた映画にも見える。もしくは貧困層の卑しさを強調し、貧困は人を精神的にも貧しくし、それが犯罪へと繋がっていくんだとも言っている、それもあると思う。しかしこの映画の不可解で特徴的なところは、映画のところどころにいかにも崇高なバッハの宗教音楽を使っている点、そしてダンテの新曲の一説が度々出てくるところだ。この映画には似つかわしくないような、神の存在がこの作品には隠れている。
...l'angel di Dio mi prese, e quel d'inferno gridava: "O tu del Ciel, perché mi privi? Tu te ne porti di costui l'esterno per una lacrimetta che'l mi toglie...
Dante, Purgatorio, Canto V(ダンテ「神曲」煉獄篇 第5歌より)
上記に引用した冒頭に出てくるダンテの神曲の一節は、地獄にいる悪魔が「神様どうして、この悪者を天国に連れてってしまうのか」と尋ねる趣旨のものだ。どんな悪行を行なってきた卑しい人間でも、少しでも良心の呵責を感じれば、死後魂は救われ天国へ行けるという、キリスト教と馴染みの深い一節だ。
是非じっくりと見て欲しい、Accattoneが夢にうなされるシーンがある。夢の中ではAccattoneが死に、Vittorioが別の人間として生きている。このシーンは今後のパゾリーニの映画スタイルがすでに確立していることを思わせる素晴らしいシーンで、脳裏に焼きつく。そう、Accattoneという悪魔はもうここですでに死んでいるようなのである。これで彼は救われた。
カソリックの国イタリアでは、実際この映画のおかげで、諦めの境地にいたような貧困層、犯罪者たちが救われた気持ちになったことは言うまでもない。パゾリーニはそういう層の人々から人気を集めた。しかしその後彼の思想(?)は変わって行ったのか、こういう結末の映画は撮らなくなっていった。
よくわかないのは、彼は一見キリスト教の思想をダンテを代弁し布教しているようで、しかし一方でキリスト教を軽んじ馬鹿にしているようにも見える。娼婦がダンテの一節を暗唱して卑猥に扱っているのは、バチカンへの皮肉のようにも見える。
パゾリーニの突然の死は謎めいていて、誰も確かな目撃者はいないが、男娼によってローマの郊外にて暴力をされ、そのまま死んでしまったという説が有力である。(最近映画にもなっている)その殺害シーンはACCATTONEのかこっていた女のレイプシーンを模倣しているのではないかという説もある。
ちなみに映画の趣旨とはずれると思うが、ACCATTONEの輩たちは「働くなんてカッコ悪い」みたいなことを何回も映画中言っている。確かに「働くとは何か」立ち返る。金を稼ぐためだけの単純作業のような仕事は、何も考えない彼らにとっては疲れる以外の何もないかもしれない。彼らのような人々にも、仕事が楽しめるようなそういう環境があればもっと世界は変わるのに、と漠然で夢物語みたいだけど、ふと思ってしまう。
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