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そして自家製に至る

#つくってみた

私が幼い頃、多分うちは貧乏でした。

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何がどう貧しかったのかは覚えていないけれど、例えば友人家の電話がプッシュホンなのにうちの電話はいつまでも黒かったり、オーブンではなく天火(上にしか電線がない家電)だったり、と、子供心に

あ、うちはビンボーなのかもしれないとうっすら自覚していました。

両親共働きで、そのうち妹も生まれて、4人家族が2DKの借家住まい••••

と書くと、ちょっと不憫な感じもしますが、それを吹き飛ばす要素がうちの家族にはありました。

ふふふ。

家族揃って物を作るのが大好きだったのです。

(あ、妹除く)

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リーダーは父、学もなく貧しい農家出身だったのですが、ものすごく器用でなんでも作れる手を持っていました。

母との結婚時、せっかく入れた郵便局勤めを辞めてまで再就職したのはトヨタ。セールスで入ったのに修理現場に移動させてもらったほどの車好き。と言うよりとにかく機械の方面に長けていました。

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母は母で、どっかで教えてもらった料理を大した家電もない家で、

どうにかなるから、

と言いながら、ケーキやクッキーを作ってくれました。

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とはいえ、母がマーガリンで作るクッキーは市販のものより味も見かけも劣り、友人が有名製菓店で買ったエクレアを食べているのを見て羨ましく思っていました(貧乏だった思い出)。


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ある日、母が手土産用のクッキーを焼くから手伝って、と言い出しました。自家製クッキーが好きじゃなかった私は、渋々付き合うことに。

その時のクッキーなんて、生地を作って型で抜いて、ドライフルーツ乗せて焼くだけの簡単なもの。母がいつも作っているのを見ていたので簡単に出来る!と思っていたら、型で抜く温度管理や、ドライフルーツの配置など意外と考えることも多く、手間取りました。

無事焼き終わり、母が出かけた後、なんの気無しに失敗作を口にしたら、

美味しい!

なんだこれ、美味しいじゃん!自分で作ったらこんなに美味しいのか!

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帰宅した母が失敗作が無くなっていることに気づいて、追い討ちをかけます『ね、自分で作ったものには愛着が湧くでしょ?』

11歳で興味を持ちました、手作り道に。


父はさらに良い仕事をしています。自作のスピーカーから始まり、天火オーブンの下にも電線を這わせ、本物のオーブンに改良、庭にボイラー付きのお風呂を作り(つまり風呂もない家に住んでいた)井戸水を利用したクーラーをも製造。

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すっかり両親のサバイバル術に染まった私は小学6年の夏休み、壁にぶち当たります。宿題に選んだ手作りラジオに苦戦していました。

出来ない事を父に八つ当たり、父がテレビを直している時でした。

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私『こんな電気が通る機械なんて私に作れるわけがない』

父『説明書をきちんと読めば材料は揃っているからできるんだよ』

私『クッキーとは訳が違う、もう止めたい、絶対に作れない、お父さんが修理している車だって機械が作ってる、お父さんが車が作れるわけじゃない。私に機械は作れないよ!』と責め立てました。

修理の手を止めて父が話します。

確かに車は機械が作ってる、大きな機械が作ってる、でもその大きな機械を作るの小さな機械だ、その小さな機械を作ってるのはもっと小さな機械だ。でもその小さな小さな機械を作ってるのは人間の手だよ。時間をかければどんなものでも人は作れるんだよ。

小6の私に納得と言う言葉が天から降ってきました。

どんなに複雑な物も最初の一歩は人の手から始まる!

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洗脳された私はその後苦労しつつも、ラジオを完成させ、中学に進む頃には、ハンドメイドにどっぷりハマっていきました。台所では母が魔法のような自家製のコツを伝授してくれます。

商品の裏側を見るの、そこに材料が書いてあるでしょ、それがわかったらこっちのもんよ。

何が、こっちのもん、かは、疑問ですが、、

母は買える物のほとんどは作れると(ラベルがあるから)言いながら、その時は巨峰でワインという名の果実酒を仕込んでいました(違法だから秘密にしてね)

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父の改造とはいえオーブン(もう天火とは呼ばせない)を手に入れた私は、スポンジケーキやミートローフをつくり、母から棒編みを習ってからは、コムデギャルソン comme de garsons と手袋に編み込み(売ってないですよ(笑)あくまで自分で使うのみ)アイロンプリントで好きなバンドのオリジナルTシャツを作り、

手に入らないならば作ってしまえ!

の家訓はその後の私の人生に大きく影響を与えました。

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2年前サンフランシスコに引っ越すことになった時、都会だろうから、なんでもあるだろう、と私は高を括っていました。

ところが、私の住むミッション地区は(れっきとしたサンフランシスコ中心部)

ここはどこなの?メキシコなの?

って言うくらいラテン色が強く、日系スーパーが徒歩40分の場所にあるくらいで、慣れ親しんだ食生活を続けるのは相当厳しかったのです。

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野菜は売っていても日本のものとは違う、薄切り肉は売っていない、日本調味料も揃わない、小麦粉も薄力と強力に分かれていない、などなど。

最初は途方に暮れ、あれがない、これがない、と出るのは愚痴ばかり。夫にも当たりました、こんなじゃ作りたいものも作れない。

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だけど思い出したんですよ、あの言葉、

手に入らないならば作ってしまえ!を。

するとどこからか 材料さえわかれば、こっちのもんよ、

母の声も聞こえます。

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食パンから始めました。味噌も仕込みました。納豆も作りました、大判焼きも、ほうとうの麺も、水まんじゅうも。お正月の和菓子も!ラベルどころか、今はネットでどんな物のでも大抵レシピが拾えます。

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あとは、やれる!作れるはず!の自分への信用だけ。

小さい時に羨ましかった友達のエクレア、今では簡単に作ることができます。

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幼い頃、貧乏だった事も 今こうして自家製が苦にならない状況を思えば、

私の人生、辻褄があって来ているなあ、


と思ったりしています。

ふふふ。








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