新年の挨拶と、ちょっとした話
挨拶代わりに投稿します。今年はしばらくスローペースです。
※ ヘッダー画像は、三嶋大社の福太郎餅。縁起のよいお餅です。
挨拶
旧年中はnote運営と、気にかけてくださる皆様にお世話になりました。誠にありがとうございました。たくさんの方とオンライン・オフラインでお会いでき、新しい世界が広がりました。また、いくつかの企画にもお誘いいただき、これもまた刺激的でした。
今年も昨年同様、良い加減でほどよい感じによろしくお願い申し上げます。
ここから先はちょっとした話
noteから離れて桃源郷あたりをほっつき歩いているうちに、noteのロゴが変わってました。知らんけど。
まだしばらく桃源郷におりますので、その間に読んだ本のことでもちょいとメモしておきます。1日に1冊ずつ公開してもよいのですが、なにかケチケチしているように思えまして、何よりめんどくさいのでひまつぶしと言ってはなんですがね、とりあえず出しておきます。
こういうメモは、所詮ちょっとした話であって「力作」ではありません。
文字数が多いだけで力作の栄誉に値するのであれば、世間はすでに力作で溢れており「力作」という言い回しの価値が暴落しているはずなのです。本当の長編力作はnoteにおいて、アレだよアレ、と思い当たるものがあったりしちゃったりなんかしちゃってもう、と広川太一郎になってしまうアレとかアレです。他にもあるのでまあいいや。力作というのはあるいはその一部が(作者がそうすべきだと判断したうえで)有料になっていることでしょう。そして有料であるがために人に知られる機会を逸しているようにも思えます。人に知られたいのか人に知られたくないのかわたしにはよくわかりませんが、気になった方が気になった投稿を有料となさったときにその考えを理解すればそれでよいので、今それ以上は知ろうと思いません。
そんなことはどうでもよく、つまりすでにこの投稿を読んでいない人が大半なのですからもうよろしいのです。ここ数年140字を超えた文字数は無駄でしかなく、それ以上の文字数に意味を見出さない人は遥か昔にわたしの投稿など読まないことになっております。しかし140字を連続投稿した場合にその身勝手なルールはどうなるのか、わたしは知らないのであります。
さて改めて。
ジャンクファイルだらけになった頭の中をいちど空っぽにしようと思いnoteから遠ざかって本を読んでみました。自分なりにまなぶための時間だったような気がしています。
どうしてだか"自分が今読む本"に出会うタイミングがあって、それは「あ、たしかこれ読みたかったんだよ」だったり「あの人がいいって言ってたな」だったり、心の声が「今読むのはこれだ」と言い出したり、あるいは本屋で背表紙から「読め」と促されたりするものです。そのいくつかの理由で読みだした本たちからひとつの軸が見えてきたのは興味深い。今回挙げるものはそういうある軸に沿った一面的な切り取り方なので、他の切り口から見ればまったく異なる感想をもつことになります。
今回、ちょっとした期間にいくつか本を読んだことで、創作に挑む人の動機を少し理解できた気がしました。その延長でいつもどおり自分の頭の整理をしているだけで、偏った個人の立場から同じことの繰り返しを書いております。読みたいやつだけ読んでください。読みたいものがなければ残念でした。例によって本題は一番後にあります。あははん。
與那覇潤|過剰可視化社会
見えるものだけを対象にする考え方の射程。これは「手近にあるもの、手に届く程度の範囲にある事象のみを相手にする」思考の危うさを示唆している。相手の顔の見えない最近の社会において、見えていないものや知らないものを「そもそも存在しない」として考慮に入れないロジック(それをロジックというのかどうかは脇に置いておく)の射程の短さを指摘した場合、それが直観的なものであっても、反射的に「エビデンスを出せ」というテンプレートと共に理屈をこねられるように思う。そういう言葉は生身の人間が対面で話をする場合にも使われるのだろうか。現実に対面の場で発せられる肉体的な言葉とそうでない言葉との間には大きな乖離が存在するように実感する。
物事の表層のみを反射的に判断する「効率の良さ」は我田引水に過ぎないと思う。その底の浅さを無視して特定の論理に拘泥する世界では、立ち止まって息継ぎをすることさえ「効率が悪い」とか「ビジネスチャンスを逃す」とされる。この一連の流れの源流には「時は金なり」を先鋭化した思想があり、「早くしないと置いていかれる」という無根拠かつ無責任な価値観の押しつけがある。わたしはそこそこの時間を生きてきたが、未だかつて「(よくわからない何かしらをしないことで)何かあるいは誰かから置いていかれて困った」経験はない。つまりその手の日本語はただの嘘である。
計量できないあなたやわたしという存在やその背景を想像するプロセスを経ず、現在の自分勝手な度量衡と"論理的な正しさ"をセットで押しつけるのは簡単だが、この安易な押しつけを繰り返していると、自分の立てた論理で自分を縛ることになる。昔のひとはこういうのを自縄自縛、あるいはそれ以前に縄もなく勝手に自分が縛られていることから無縄自縛と言ったようである。煩悩のなせる業である。
和嶋慎治|屈折くん
仏教の唯識学では、個人において意識の下に末那識が存在すると説明する。末那識とは、執着の心。意識があろうとなかろうと末那識ははたらく。
生命が根底で繋がっているというのは、生命、つまり生きることへの執着がそれぞれの生命個体に等しく存在すると説明できそうである。個体が違っても種が違っても「生きたい」と願う方向が同じだとなれば、異なる生命個体の生命への執着を”心情”と捉えて思いを馳せ、そこにsympathyとも言うべき感情が湧き上がることも道理である。
だからといって世の中はそのような表層的な理屈だけで片付くものばかりではなく、むかしから「虫の知らせ」などという言い回しがあるのはどうしたことか。経験を積むにしたがって世の中や組織の動き方はある程度予測がつくものの、一方で理屈で説明できないことが多すぎるとも思う。
人と人とは無意識よりも下層において繋がっている、という説が真面目に語られる解説図を子どもの頃に見た記憶がある。まともな学説だったのかいい加減な出まかせだったのかは覚えていない。生命は根底で繋がっているのかもしれない、と言われて「そんなばかな」と言うのは簡単で「そりゃそうだ」と言うのも短絡的ではあるけれども、和嶋の言うことを相手にせず脇に置いておくには歳をとりすぎた。
町田康|私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?
おもしろいことを決めるのは誰か。まずは自分自身である。自分がその経験や知識からくる「おもしろいこと」を判断する。町田はそれが「この世の真実」だと断言する。主観が真実であれば、真実は人の数だけある。真実という言葉を使うとその事象はひと通りで括れそうに思うが、人の観る事象はそれぞれに異なるので、この場合「真実が一つに括れる」というのは誤った理解に思える。たとえば個人の把握する世界はその属する文化圏、履歴、教養の程度等、複数の変数が介在するので、それぞれの真実は異ならざるを得ない。
しかし一方で、人間には個人を超えた共通の「真実」もあるように思われ、これが他人に理解されるかどうかは、表現者の洞察力、表現力に依存すると思われる。
経験的に知っている自然現象が数式という言語で表現されつつある現代において、世界を説明する理論を発見しようと研究者たちが鎬を削っている。われわれの身体はいくつかの元素からなっており、自然現象を利用して生命活動として運用されている。であれば、それを統べる”理論”があってもおかしくはない。心理的な変化が物質的に説明される事例(分かり易い例ではたとえばセロトニンやドーパミンなど)もあり、人間が構築する理論はその奥にある情緒にたどり着けるかどうか。仮にたどり着いたとして、その先には新しい「まだ見ぬ世界」が広がっていることだろう。
角幡唯介|極夜行
印象的な経験をしたあと、同じものを五感で感じ取ったときに、もう以前の自分ではいられない。一般的に経験は人間にそのように作用する。では、探検という特異な経験を通過する前後で精神はどう変わるのか、世界の見え方がどう変わるのか。
本来当たり前だった「光のある世界」というシステムから離れ、光のない世界に身を置く。光がないことにより身体がこわばる感覚。自分自身は変わっていないのに、外の環境が変化することにより否応なく揺るがされる自分の存在を省察する。
角幡によれば、人が未来を予測して生きていけるのは、光により現在の時間・空間的な把握ができるからだとする。光を失うことは、昼夜の感覚を失い時間を手放すこと、重力はあるものの空間的な距離感を手放すことを意味する。そして時間・空間の2つの遠近感を失った人は未来予測ができなくなる、つまり光ある世界で漠然と構築してきた「生存予測」ができなくなる、とする。
これは「わたし」と「わたしの経験を根拠にする世界」において、一方が機能不全に陥ると、もう一方もまた存在が危うくなるという相互関係を表している。
そのような闇の世界を通過することで自らの見える景色がどう変化するのかを体感したい、それが彼の目指した探検であった。
鴻池朋子|どうぶつのことば 根源的暴力をこえて
優れた作品はその表現形態(音楽、文章、絵画、彫刻等)にかかわらず繰り返し鑑賞するに耐える。しかしそれを意図して作り込むことは難しい。
引用部分に至る前段ではまず、近代自我の端的な説明があり、次に「わたし」と「世界」との関係性を論じ、そのうえで作品の制作過程に「わたし」がどう関与しているかの対話を展開している。また、矢野はメディアを「身体と結びつき新たな自己と世界を切り開く媒介物」と定義している。
作者が作った作品は、確かに「わたし(=作者)の手」による作品ではあるが、作品にすべて自分の意図が完全に張り巡らされているわけではない。「わたし」が創作したものに「わたし」の意図しない何かがいつの間にか入り込んでいる。ここで矢野は、最初から「意図したもの」を完璧に作るのであれば、それはアーティストではなく職人だと指摘する(※)。
作者は作品の最初の鑑賞者でもあり、そうなると作者は自らの作品によって更新されていく存在でもある。その作品を作っているのは「わたし」のはずだが、その作品に影響されるのも「わたし」である。そのふたつの「わたし」をつなぐ(未完成の)作品には、わたしの意図しない何か、わたしを動かす何かが存在する。鴻池自身の言葉から引いてみよう。
ここで矢野が「身体 ー メディアを介して、自己と世界との境界線を溶解させ、世界の深さに触れる」と対話を展開しているのが興味深い。鴻池は「世界を獲得する」と捉え、矢野は「世界に触れる」という。両者の世界の捉え方の違いから生じる対話でもあり、鴻池の感じる手触りを矢野が整理しているようにも見える。
(※)分野は違うが、小説家の小川洋子は同じような指摘をしている。
岡本太郎|青春ピカソ
観ることは、単に視覚的な体験にとどまらず、それをきっかけにして視覚以外の感覚に積極的にうったえること、それにより鑑賞の前には気づかなかった自分(の感覚)に新たに気づくこと。これは(視覚を含めた)思索の視野を押し拡げることである。
「鑑賞の前後で鑑賞者自体の変容・変化がある」ことが創造の姿になる。創造とは、過去の自分のままで留まることなく更新し続けることである。周りの草を薙ぎ払い、あるいはこれまで行けなかった高みへ登り、周りを見渡すことと表現できる。そのプロセスを経た自分は、たとえば以前の自分と肉体的には同じかもしれないが、見えるものの受け取り方、見え方が変わっている。視点が変われば同じ事柄でも見方が変わる。
岡本のいう「一種のメタモルフォーゼ」を体験するには、鑑賞する対象とその時の自分自身との波長が一致しなければならないだろう。その瞬間は「機が熟する」という日本語で表される。言い方を変えれば「出会うべくして出会った」というタイミングが各々の人生に訪れるのである。その瞬間、生命が内側から外へ向かって躍動する。
人生即芸術。こういう思考・体験のプロセスを肌身に感じることで、彼が一貫して表現し続けてきたものに共感できるのではないか。それは彼の著作の字面を追うだけで感じることはできず、(彼が製作したもの以外も含めた)絵画・彫刻作品を眺めるだけでは近づけない領域である。意識的にか無意識的にか自分が作品と対等な立場になったとき、作品と対峙したときに、作品との対話が初めて成立する。作品の持つエネルギーと自分のエネルギーとが相互作用する。それは、芸術を敷居の高いものと無条件に崇める態度ではない。美術館や博物館はこれに「保存すべき価値あるものを鑑賞するにはその保存や運搬、警備に対する対価を払い、館内にて演出されたものを遠目から静かに眺めるべき」という条件をつけた。確かに配慮が必要なものも存在する。それはそれとして、鑑賞する立場としては、未知の作品たちと自分の心がどう出会うのか、出会ったときにどう感じるのかに期待する。それは旅にでて初めて走る道に期待するものに似ている。その期待があるとき、自分の五感は外に開いて世界を受け入れる準備ができているのだ。
村上春樹|夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997−2011
巷には村上に関する論評がたくさんあるけれどもわたしは真剣に読んだことはない。論評する立場から見たいことしか抽出しないからで、それはわたしの知りたいことと異なる場合が多いためである。ことばを操ることを職業とする本人の言葉を追うのがもっともよい。複数の人物からのインタビューを通じて、小説という体験について村上には一貫したスタンスがあると知ることができる。
小説を読む前後で、人は変化するものである。読むという体験は文字を追うだけではなく、その物語のなかに身を置くことで書き手の構築した世界を体験し、その体験によって自分が変容するプロセスである。
おもしろいのは、書き手自身も執筆によって同じ行程をたどるところである。執筆あるいは読書という体験を通じて、その前と後で人は別人となっている。良質な芸術体験とはそもそもそういうものである。その体験は、精神的な旅とみることも可能である。
その体験を共有するために村上は自らが「深みに達することで共通の基層に触れ」ることが必要で、作者としてそのプロセスを経ることで読者と交流することができるとする。村上の作品の(国によらない評価の)普遍性の一端を知ることができるとともに、文学とは体験するプロセスそのものという示唆でもある。
これは前掲の鴻池の本に収録されている作品「風が語った物語」にも端的に表されており、鑑賞者が触れるメディアの種類に関わらず、体験を通じて自己と世界を新たに捉え直すことが明確に意識されている。
また、本を読むにあたっての心構えとして、以下は他からの引用であるがメモしておく。
よい文章に出会うと、人は自ずとそのような心持ちになるものである。
わたしは過去に上記メモ書きにおいて
「よい文章は、それに触れた後で自己の変容を促す。」
と書き留めていた。それは作者の方でも起こっている変化だという点は新しい気づきであった。
いくつかの本に共通していること
最初に紹介した3冊から、世界とは自分が知覚できる以上の不確かな存在である、という示唆が得られる。
角幡はその不確かな世界において肉体的な体験を通して自らの変容を試みる。鴻池(と矢野)、岡本、村上はそれぞれの分野において精神的な体験を通した人間の変容に言及している。
それぞれを、自分自身が任意のプロセスを経て止揚という道へ至る弁証法的なものと置くこともできるし、数式における作用素のようなものと解釈することも可能である(固有値が簡単に見つかるわけではないが)。これらの書籍に共通することは、下記のようなものである。
いま自分が把握できることが、わたしの全て・世界の全てではない。
芸術をはじめとする身の周りの事柄に五感で触れることにより、新たな自分自身を発見すること、未知の自分と出会うこと。
このプロセスは、自分の外の世界と触れ合うことによってのみ進めることが可能で、自分の内的なプロセスでありながら外の世界の助けを借りなければ進むことができない。ここに思い至ったとき人は「ひとりでは生きていけない」と気づいて立ち止まることになるだろう。立ち止まって周りの景色を見たときに、以前と違う手触りを感じる。それはそのまま、自分という存在が更新されたことでもある。芸術の力を借りる精神的な旅でなくても、人は空間的な旅のプロセスを経ることで、時にそれが可能になる(いつもそんなことを考えて旅をしていれば息が詰まってしまうが)。
自分のことは一番よく分かっている、という。それは単なる思い上がりと言うこともできるが、わたしは「自分にはまだまだ未知の領域がある。それを発見するプロセスを自分で切り拓き、自分で意味を与えることが可能だ。」ということの言い換えだと考える。
自分とはそもそも変容していく存在だ、となれば、自ずと他者も環境もまた同じく変容していくとの理解に至る。大げさに言えば、これまで生きてきた枠組みを俯瞰し、捉え直し、場合によっては破壊することで、新しい捉え方を獲得する。たとえば1冊目に挙げた與那覇は、目に見える事実どうしを結びつける「みえない物語」の重要性を指摘している。
みえない物語とは、一度自らを当たり前の感性から遠ざけたローコンテクストな世界に置き、他者と共有できる事実の断片の認識を出発点として、断片をつなぐための言葉や感情の道筋を他者とともに手探りで探し、共有する一連のプロセスにあたる(場合によってそれは自己の内面の対話で完結する場合もあるが)。
これによって人はそれまで気づかなかった自分、気づかなかった他人、気づかなかった世界に光を当てることにもなる。それは、それまでと違う思考回路が開通したり、新しい箇所に血の通うような感覚が生じたりする実感として体験される。
そのたびごとに世界の見え方が変わるのだから、できるだけ立ち止まってお互いの存在を認め、五感と言葉とでたしかめること。それにはそれ相応の時間が必要でありながら、時間をかけたからといってマークシートを塗りつぶすようなクリアカットな答えに辿り着くことは殆ど無い。
立ち止まってお互いを認めることは、自分がそれまで気づかなかった新しい世界を「打ち開く」ことへとつながる。答えが容易に見つからない世界では、このプロセスを何度も経ることで知的な体力がついていくのだろう。
それは、自らの視野を過度に正当化したうえで物事を反射的に選別してその短期かつ数値的な金銭的価値(コストパフォーマンス)をテンプレートに押し込めて論じることとは別のベクトルになる。
本題
相変わらず寒いですね。みなさま暖かくしてくださいね。
あと、福太郎餅おいしいよ。福ちゃん。これ大事。
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