見出し画像

短編小説 昼と夜のリポート (2846字)

その時代の空気はその時代の人をつくり出す。

プロローグ
1959年昭和34年冬
定時制高校の物理教師河合将史は自宅で、期末試験の採点をしていた。
当時は日本中の高校生の四人に一人は定時制高校の生徒で、その大半は家計を助けるために仕事をしながら学業に励んでいた。
当然、人数も多くガリ版刷りのB4の回答用紙も束に成っていた。
解答に赤鉛筆で〇✔を付けて採点し合計点をつける。
授業で問題をほのめかしているのに、こいつは✔、✔、✔、見事に0点だ。
半分呆れて0点と赤鉛筆で記した。
名前を見ると、石山だ。
見ると解答用紙の裏に何かびっしり書いてあった。


A市B高等学校は、全日制と定時制のある文武両道で有名な高等学校である。
全国レベルで活躍する部活もある、定時制にも部活はあるのだが、文武労三道では、全日制部活には全く歯が立たなかった。

定時制高校の授業時間は午後5時~午後9時までである。
当然昼は働いている。通常考えれば部活は午後9時以後となる。

B高校には全日制、定時制共にボート部がある。
前年1958年の定時制のボート部は強かった。
夜、船の舳先に懐中電灯を括り付けて漕ぎ出す。
艇はナックル4と呼ばれ、1クルーは4人の漕ぎ手(整調、3番、2番、バウ)、舵手(コックス)1名の計5人で構成される。

B川での夜の練習は衝突の危険があり、朝の練習に比重が置かれていた。
レースが近くなると時間を惜しんで合宿をして練習した。
勿論、合宿所から艇庫朝練、各自の仕事、学校、艇庫夜練、合宿所の繰り返しで、睡眠は授業中に取った。
「全日制昼の連中には負けない」
の合言葉で練習に励んだ。
高校総体の県大会では目標の昼の連中を一艇身差で破り決勝に駒を進めた。
しかし決勝では常勝のT大高校に、30センチ差で敗れ2位となり、初めての全国大会へのキップを手にする事は出来なかった。
次の国体予選も決勝で敗れた。
全国大会への夢は次代に託された。
次代のクルーは、運送屋に勤める石山、鉄工所に勤める土屋、墓石屋に勤める武田、印刷屋に勤める菊池、コックスは菓子店に勤める今井だった。

我々は、個々の運動能力は先輩より優れていたが、1クルーとしては、バラバラで、お互いの力を奪い合う様な漕ぎ、バランスが悪く、つまり艇が真っ直ぐ進まず舵を切ると、スピードが落ちる、ロスの繰り返しで、タイムは上がらず、同高の全日制にも勝てず、
バカにされる状態だった。
しかし練習だけは、よくやった。
顧問の河合先生の紹介でB川近くのお寺の観音堂を格安で借り受け、
合宿所として使用した。
冬は寒さに凍え、夏は蚊に悩まされながら、良く練習をした。

賽銭箱の脇を三段登り格子戸を開けると、観音様がいらっしやる、
その前に六畳程の板の間があり、そこに各自持ち込んだ布団を引いて寝た。
遅い時間に来た参拝客のお参りの鈴を鳴らす音に隠れ息を潜めた。

食事は、観音堂の脇で七輪に炭で火を熾し、ご飯を炊き、魚を焼いたり、
顧問の河合先生の奥さんが、よく肉の差し入れをしてくれて焼き肉をした。
焼き肉と言えば、前年は先輩が肉を全部食べ、
我々下級生は焼き肉の汁をご飯にかけて食べた。
肉を喰いたいと恨めしかった。それを思えば今は天国だった。
一年の殆どを合宿所で暮らし、練習量は前年の倍はあった。
しかしタイムは上がらなかった。
高校総体では、予選で同高全日制に、一艇身差で敗れて、敗者復活で準決勝まで行ったが、T大高に一艇身半をつけられて敗退した。
練習のし過ぎで、本番では疲れて負けるのではないかと言われたり、
やる事為す事が裏目に出た。

我々はシーズン最後の国体予選を目指し練習していたが、
顧問の河合先生の勧めで、
B高校全日制で例年行われる100キロの遠漕に参加する事に成った。
B川を県境まで遡上する遠漕で、厳しい練習ではあったが、いつもと違う半分ピクニツク気分もあった。
折り返しの県境の浜でバーベキューをするのも楽しみであった、
我々定時制クルーは弁当の運搬を受け持った、
全日制クルーは2艇でバーベーキュー道具や材料を受け持った。
当日は前日の雨でB川の流れは急で、全クルーへとへとで漕いで遡上していた、40キロを過ぎた辺りで、コックスの今井が弁当の段ボール箱を間違えて持って来た事に気づいた。
ダンボール箱には、弁当でなく工具が入っていた。
我々は、戻って弁当を取って来ると連絡して戻る事にした。
既に40キロ漕いでいる。幸い流れは急で流れに乗り我々は弁当のある艇庫に急いだ。弁当を積み上流に漕ぎ始めて初めて気づいた、体が重い疲れている、オールが重い、水を漕ぐブレードが重い、艇が重い、コックスの今井が悲壮な顔で声を上げ、
「力漕50本、さあー行こう、1、2、3、4、・・・」
と声を掛ける、我々は必死で声に合わせ、漕ぐ、漕ぐ、漕ぐ、・・・・
しだいに、漕ぎ手同志から漕ぎ手に同志に、ガンバレの声が出る。
これは他の漕ぎ手にと言うより、苦しい自分にハッパをかけているのだ。
折り返しの浜まで、必死で漕いだ。
浜に着くと、全日制の連中がバーベキューの煙を消し、かたずけを始めていた。我々を見ると
ご苦労さんの声も早々に弁当をさらっていった。
弁当を喰っている全日制を横目に、我々は喰う元気も無かった。
間もなく、出発の指示が出た。
くたくたの我々は、全日制クルーに遠く水を開けられながら、
へとへとで気力だけで漕いだ。
ボート競技には、ローアウトと言う言葉がある。
その意味は、レースでゴールに、入った瞬間に気を失う事を云う。
その日の我々は、都合180キロほぼ休み無しで漕いだ事に成る。
恐らくローアウトに近かった。

しかし、我々はそれ以後、強くなった。
県国体予選では決勝に勝ち進み、高校総体予選で一艇身半負けたT大髙に、逆に一艇身半の差をつけて優勝した。
遂に全国大会のキップを手にした。

我々はあの苦しい遠漕で、知らぬ間に、力を入れずに、どう漕げば、艇が効率よく進むか、その漕ぎ方をクルー全体が体で覚えたのだと思う。

1959年昭和34年東京国体は、オリンピック前の戸田ボートコースで行われた。我々は勝ち進み、準決勝で本年のインターハイ優勝の愛媛農大付属とあたった、我々に気負いはなかった。B高定時制クルーが、インターハイ優勝の愛媛農大付属に二分の一艇身差をつけ勝ち、決勝戦に進んだ。
決勝戦は、我々はゴール200mでスパートをかけて追い込んだが、
及ばず4位に終わった。
今までに、定時制のクルーでは、決勝に残ったチームクルーはいない、
全国の全日制クルーを相手に決勝に残ったのだ。
みんな口々にこの記録は破られないだろうと言った。


エピローグ

採点をしていた河合は、手を止め
石山の0点の答案の裏に書かれた文字を追った。
そこには、ボートの歴史、漕ぎ方、レース前の心構え、
効率の良い体の動かし方、モチベーションの保ち方
合宿、食事、七輪の炭の熾し方、焼き肉の分配方
こと細かく書いてあった。
河合は全部読み終わると、
ニヤリとして、
赤鉛筆を持ち直し0点の左に8を付け加え
80点に直した。

おわり。














この記事が参加している募集

文学フリマ

よろしければサポートよろしくお願いします。励みになります。