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リベラル再生宣言

どうも、犬井です。

今回紹介する本は、マーク・リラの『リベラル再生宣言』です。この本は、2017年に出版された『The Once and Future Liberal: After Identity Politics』を邦訳した書です。

本書は、原著の題目からもわかる通り、”かつてのリベラル”と”未来のリベラル”を対象にしており、特定の集団ばかりに寄り添い、大多数の国民をないがしろにする「アイデンティティ・リベラリズム」を標榜する”今のリベラル”への落胆を明らかにしています。

トランプの勝利後、次こそは選挙に勝つと息をまくリベラルに対し、このままでは次も負けることになると警告を発するリラの根拠は何か。以下で、簡単に書き綴っていきたいと思います。

アメリカ政治の変遷

アメリカ政治体制は、1930年代以降のルーズベルト体制と、1980年代以降のレーガン体制に大別できる。

ルーズベルト体制が生じた背景には、保守政権の明らかな失敗があった。大恐慌という経済の破綻、そしてファシズムの広がりという二つの大きな問題への対処に保守の政権は失敗した。ルーズベルト大統領のリーダーシップの下、人々はその二つの問題を乗り越えることができた。この経験は国民を結びつけ、国民の間にかつてないほどの絆を生み出した。その結果、リベラルという信条も半世紀近く、大半のアメリカ人に当然のものとして受け入れられた。

しかし、どのような政治的信条も時間が経つと硬直化し、柔軟性を失ってしまう。そして、やがて社会の現実とは乖離していくことになる。1970年代、アメリカのリベラリズムに起きたのはまさにそういうことだった。社会協力、公共への奉仕は正しいと信じられ、法律も裁判所の判断も全て、公共の利益を優先すべきとされていた。しかし、その判断の主体である政府や議会、裁判所への信頼が揺らぎ始める。ベトナム戦争やウォーターゲート事件、スタグフレーション等の問題に直面した時の無力さがそうだ。

ロナルド・レーガンが登場した頃、ルーズベルトの政治ビジョンはもはや、比較的裕福な国民には魅力的に見えなくなっていた。個人主義者が増え、郊外社会に暮らす人が多くなった社会に強く訴えかけることができなくなったのだ。そんな国民に向け、レーガンは新しい考え方を示した。政治に頼ることなく良い暮らしを実現できるという考え方だ。これは、かつてフロンティアを開拓することで暮らしを豊かにしてきたアメリカ人の経験に合致していた。

レーガンは、国民が、家族が自分のこと__特にビジネス__に懸命に取り組んでさえいれば、暮らしは自然に良くなる、と約束した。起業家をある種の神のように崇拝する風潮はこのとき生まれた。ただ良い暮らしを追い求めればいいというアメリカ像を人々に抱かせたレーガンは、ウォーターゲート事件後、現在の民主党と同じように分裂し、統率が取れなくなっていた共和党を一つにまとめることに成功した

体制の終わり

ブッシュ時代が終わりに近づいた頃、レーガン主義の共和党支配層は、自分たちが二つの大きな課題と対峙していることを知った。

第一の課題はバラク・オバマだった。オバマの言葉には少し空虚なところがあったし、”Yes we can!”と言われても、何ができるかわからなかった。しかし、数多くのアメリカ人には、特にはっきりと物を言いにくく、戦争の続いたブッシュ時代に育った若者たちには、オバマの言葉が詩のようにも聞こえた。

第二の課題は、2008年の景気後退によって生じた、ポピュリストたちの怒りだ。当時、共和党の空気を支配していたのは、右派扇動政治家、グレン・ベックのような人物だった。ベックは、経済に関しては国粋主義、孤立主義の考えを持っていた。彼の考えに共鳴する人々は少なくなかった。高度な教育を受けた一握りの人たちだけが、新たなグローバル経済からの恩恵を受け、とてつもなく裕福になっている。国民の多くは恩恵を受けることもなく、辛い思いをし、そして怒っていた。

そうした国民からのメッセージを受け取ったのが、ドナルド・トランプである。トランプは2016年の共和党予備選挙と、その後の大統領選挙で勝利し、アメリカの二大政党の両方を打ち負かしたのだ。閉鎖された工場の前、失業したかつての労働者たちの前に立ち、トランプは、自由な労働市場、自由貿易協定などが彼らから富を奪っていると訴えた。

レーガン体制はこうして終わりを迎えた。それは反政治的な保守主義の空虚さを明らかにし、リベラルにとっては、自分たちがそれに向けて努力してきた目的すべてを脅かす事態であった。今後、またレーガン体制の初期のような状態に再び戻るとは想像しにくい。しかし、レーガン主義の思想から一部を取り出し、それをさらに過激化させるような新しいポピュリストの扇動政治家が登場することは容易に想像がつく。リベラルが国のあり方、未来について明確なビジョンを示して国民の心を掴まなければ、そうなってしまうだろう

アイデンティティ・リベラリズム

ここでは、レーガン体制時代のリベラルについて論じる。反政治的になったアメリカを前にして、リベラルはどう対応したか。リベラルは、人種差別、排外主義、同性愛嫌悪と言った、個人の内面に関わる問題を最重要視し、彼らの主張を個別に実現させるように働きかけるようになった。

それは市民の連帯を基本としていたかつてのリベラルとは大きく異なるものである。ではなぜ、リベラルが、マイノリティの利益を主張する、アイデンティティ・リベラリズムへと姿を変えてしまったのか。その主な理由は大学にあると考えられる。1960年代になる前は、リベラルや進歩主義の活動家の多くは、労働者階級や、農村社会の出身者だった。だが時代は変わる。現代の活動家や、その指導者たちは、弁護士、ジャーナリスト、教育者などインテリ層が中心であり、かつての構成員とは乖離するようになったのだ。

また、活動の場が大学に移ることは、議論がどちらが道徳的か道徳的でないかの判定に傾くことを意味する。かつては、誰かが「私はAだと思う」と言い、その後、互いに自分の意見を言い合う、という流れになったはずである。しかし、今は「Xの立場で言えば、〜」という言い回しを使い、道徳的に上であると思われるアイデンティティを使った方が勝者となる。ここでは、互いに妥協点を探るという過程は軽視される。

結局のところ、アイデンティティ・リベラリズムは新自由主義に対抗する力とはなり得なかった。そして実のところ、個人に絶対的な価値を置くという点では、アイデンティティ・リベラリズムは、左派のレーガン主義だったのである

リベラル再生宣言

ドナルド・トランプが大統領に選出された時、アメリカのリベラリズムは「リセット」の時を迎えた。アメリカの今の制度の下で、民主政治には何が必要で、どのような可能性があり、またどのような制約があるか私たちは再確認をすべき時にきている。それに少しでも貢献すべく、私はここで、歴史から得られる教訓をいくつかまとめておこうと思う。

1. 運動による政治よりも、政府機関、議会による政治を優先すべき
自分たちの目的を達成できるかどうかは、究極的には、民主主義制度の中で、つまり大統領府、立法府、官僚組織などで、自分たちがどの程度の力を獲得し、保持できるかにかかっている。今の連邦制度の下では、まず国政選挙で勝利を収めることが、私たちの最大優先の政治的課題である。

2. 目的のない自己表現よりも、民主的な手続きを通じて自分たちの意見を通すことを優先すべき
通常の民主政治では、自分と似ていない人たちと関わり、彼らを説得するという作業がどうしても必要になる。アイデンティティ・リベラリズムに走り、それを避けて、一段高いところから無知な人たちに向かって説教するだけでは、意見は通らない。

3. 集団や個人のアイデンティティよりも、誰もが市民であることを優先すべき
アイデンティティ・リベラリズムは、本格的な政治論から「私たち」という言葉を追放してしまった。しかし、もはや「私たち」という言葉なくして、リベラリズムの将来はない。私たち全員が自由意思を持つ存在でありながら、同時に法の定める共同事業体の一員であることを今一度思い出すのだ。

4. 国が個人主義になり、細分化が進んでいる時代だからこそ、全体を一つと見る市民教育が必要である
市民は生まれるものではなく、作られるものである。時には、戦争のような歴史的な力が、市民を作る仕事をする。しかし、現代で最も希望が持てるのは、自治の原則に基づいた教育によって民主的市民を作るという方法だろう。それは少なくとも、アイデンティティを基礎とした教育の見直しを意味する。

あとがき

リベラルが要請する「寛容」の道徳観を見直す機会を与える、大変優れた書であったと思います。ただ、もう少し"今のリベラル"を理解するために、本書ででてきたアイデンティティ・リベラリズムを、グローバリゼーションと絡めて考えてみたいと思います。

本来、リベラルは寛容さや多様性を重んじ、一方で、弱者に対しても目を向け、弱者に手を差し伸べる存在です。

一方、グローバリゼーションは資本も移民も受け入れ、多様性をもたらしました。しかし、多様化した結果、労働者は虐げられ、格差は拡大し、弱者に転落した人々が溢れることになりました。

ここで、リベラルの立場が問われます。多様性が大事だと主張し、グローバリゼーションに組みするか。それとも、労働者を救うために、再分配の対象である”アメリカ人”の線引きをして、多様性を減ずるか。

”今のリベラル”の主張は、多様性も所得の再分配も必要だと強弁するものでした。しかし、所得の再分配を行うには、富裕層の私的財産を奪うという強大な国家権力が必要になります。そのとき、お金をもっている側は、同じ国民という理由だけで私的財産を奪われるには、許せる範囲が存在します。したがって、そこには必ず”アメリカ人”という線引きをし、無限の多様性には制限をかける必要があります。こう考えれば、リベラルは多様性を減ずる、すなわち、グローバリゼーションからの脱却を選択しなければなりません。

ポピュリストの台頭以来、さすがに欧米リベラルは、社会保障や福祉国家がナショナリズムと結び付くということは理解してきており、バーニー・サンダースがその例でしょう。

そう考えれば、日本のリベラルはまだまだこのことを理解できていないように思われます。日本共産党は最初から理解していますが、野党第一党で、リベラルを自称する立憲民主党は全く理解していません。今の与党の堕落も、こうした野党の不甲斐なさがあるのは間違いないでしょう。

では。

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