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土着語の政治

どうも、犬井です。

今回紹介する本は、ウィル・キムリッカの『土着語の政治:ナショナリズム・多文化主義・シティズンシップ』(2012)です。この本は2001年に出版された『Politics in the Vernacular: Nationalism, Multiculturalism and Citizenship』を邦訳した書です。

本書は、リベラリズムの観点から国家によるネイション形成を示すとともに、ネイション形成から生じるマイノリティの権利をいかに擁護し、それをリベラリズム理論の枠内に位置づけるかを論じています。個人の自律性とナショナルな文化的基盤が相反するものではなく、むしろ共生の関係にあるというキムリッカの理論体系は、ナショナリズムをめぐる右派と左派の対立図式に修正を促すものとなっています。

それでは以下で、簡単に内容をまとめていこうと思います。

マイノリティの権利をめぐる新たな論争

マイノリティの権利を主張するものは、民族文化的中立性の規範から逸脱する場合、説得力のある理由を示さねばならないと想定されてきた。しかし私は、自由民主主義国家が、民族文化的に中立だという見解は明らかに誤りであると論じたい。

「中立国家」の代表的形態であるアメリカ合衆国の現実の政策を見て欲しい。歴史的に、州境の決定、および連邦への加入時期の決定は、英語話者が、マジョリティになるように慎重に計画された。こうして、アメリカ合衆国の全領土で英語の覇権が確立した。英語の支配的地位の継続は、現在の政策にも支えられている。学校教育で英語が使われていること、移民の英語学習が法的要件になっていることなどがそうである。

これらの政策はすべて、私が「社会構成文化」と称するものへの統合を促進する意図の下で追求されている。社会構成文化とは、公的および私的生活における広範囲の社会制度で用いられている共通の言語を中核に持ち、一つの地域に集中していることを意味する。

現代の自由民主主義における社会構成文化は、必然的に多元主義的である。宗教、職業、性的指向、左右などの多様性は、リベラルな市民に保障されている権利や自由の必然的結果である。しかし、この多様性は、言語的および制度的絆によってバランスされ、制約されている。この絆は、おのずから生じたものではなく、むしろ周到な国家政策の結果なのである。

ネイション形成

したがって、「民族的文化的に中立な」国家という見方を、自由民主主義的な新しいモデルに置き換える必要がある。新しいモデルとは、私が「ネイション形成」モデルと称するものである。国家がネイション形成をしているからといって、政府は一つの社会構成文化だけしか促進できないというわけではない。カナダやスイス、スペインなどは複数ネイションの国家である。

しかし、事実上すべての自由民主主義国が、歴史上のいずれかの時期に、自国の全領域に一つの社会構成文化を広めようと試みてきた。この種のネイション形成は、数多くの重要な目標に寄与している。

例えば、すべての市民が現代の経済社会で平等に働く機会を得るためには、共通語による標準化された公共教育が不可欠である。加えて、共通の社会構成文化への参加は、共通のアイデンティティや帰属意識を促すため、福祉国家の求めるような連帯を生むのに不可欠だとしばしば考えられてきた。さらに、共通の言語は、民主主義にとって不可欠であるとされてきた。もしお互いを理解できなければ、どうしてともに自治を行えるだろうか。

要するに、共通の社会構成文化のもとでの統合は、現代国家における社会的平等や政治的絆にとって不可欠だと見なされてきたのである。したがって、国家は、「ネイション形成」のこうした過程に従事してきた。つまり、共通語を普及させ、共通語に基づく社会制度への共通の帰属と平等なアクセスの感覚を育む過程である。

ゆえに、本来論ずるべきは、中立性という規範からの逸脱がどう正当化されるかではなく、むしろネイション形成を目指すマジョリティの企てがマイノリティに不正をつきつけていないかどうかである。また、マイノリティの権利が、こうした不正から保護に有益かどうかということである。

リベラル・ナショナリズム

二つのネイション集団がリベラルな正義という同一の原理を共有しているからといって、両者が二つの別々のままでいるよりも統合する強い理由にはならない。二つのネイション集団が一つの国家のもとで暮らしたがっている場合、政治原理の共有は明らかにそれを容易にするだろう。しかし、政治原理の共有だけでは、二つのネイション集団がともに暮らしたがる理由にはならないのである。

それでは、政治統合の基礎に横たわるものは何なのだろうか。政治統合の鍵は政治的価値の共有ではなく政治的アイデンティティの共有である。人々は、誰とアイデンティティを共有しているか、誰と連帯を感じるかを問い、そうすることで誰と国を共有したいかを決定しているのである。

それでは、共有されたアイデンティティの基盤は何であろうか。その答えはおそらく、言語、領土、歴史的絆に関連した諸要因の複合なのであろう。政治的統合を共有された価値で説明するのは、人々の抱く原理を重視するのと併せて、あまりにも頭でっかちであり合理主義的である。

実際には、政治的アイデンティティは、はるかに偶発的で情動的である。それは長い時間をかけて発達し、特定の地域に住む人間集団を、共通の政治的アイデンティティへと統合するのである。

グローバル化時代のシティズンシップ

多くの論者が主張するように、グローバル化が国民国家のこれまで保持してきた主権を縮小したため、国内政治に参加する意味が薄れつつある。明らかに、この議論には何がしかの真理が含まれている。では、この問題はどれほど深刻なのだろうか。

私は少なくとも、グローバル化が「政治的運命共同体」の意識を弱めるまでには至っていないと考える。お互いに運命に責任を感じ、共同体が直面している困難に集団としてどう立ち向かうかを一緒に話し合いたいと望む時、人は同じ運命共同体に属しているのである。このような意味で、国民国家がそれぞれ異なる運命共同体を形成しているという感覚はまだ存在しており、私の言える限りでは、グローバル化はこうした感覚を蝕むまでには至っていない

まだ国民国家はかなりの自立性を有しており、市民はネイションの政治的文化を反映した独自の方法で自律的に行動している。そして市民は依然として、歴史的連帯を反映したネイション集団としてグローバル化が突きつける課題に立ち向かうことを望んでおり、互いの運命を共有したいと思っている。こうした事実はいずれも、国内の政治参加に意味と意義を有するものである。

あとがき

本書を読み、改めて土着語の重要性を認識しました。共通語を普及させることが、共通語に基づく社会制度への共通の帰属と平等なアクセスの感覚を育むということは、本来は「常識」のはずなのですが、今の日本をみていると、むしろ「異端」なように思えるのは不思議なものです。

本書を読んでいただければ(私の拙い要約文でも構いませんが)わかる通り、言語というものは人間の実存に関わるものであり、国家の視点では、土着語を蔑ろにすることは国家の死を意味します。にも関わらず、ビジネスでお金を稼ぐためであったり、国際競争力を高めるためなどという俗悪な理由で、日本語を軽視し、英語教育を推進している我が国をみてると、「国家ってこうやって滅んでいくんだなあ」と呆れる次第です。

外国語を古典のレベルまでマスターしたような知識人、例えば福田恆存や夏目漱石、小林秀雄などが、むしろ日本語の重要性を唱えていたことを考えれば、いい加減に日本語や英語を学び、思考もいい加減な人が、「英語で授業をやるべき」などと言うのでしょう。

我々日本人は、日本人が最も複雑な思考が可能な言語が日本語であり、最も創造性を発揮できる言語が日本語であるということを再認識する必要があると思います。

では。

#本 #読書 #推薦図書 #読書感想文 #政治 #ウィル・キムリッカ

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