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集団での出し物が鬼門(5)

話し合いの結果

長男によると、合宿前の練習の段階からダンスに参加できなかったらしい。その際に、ダンスが協調性を目的としているのだと、先生から教えてもらっていた。

しかし、協調性が目的と教わっても、そのためにダンスするというのが理解できなかった。

理解できなくても、自分の評定を下げないことをモチベーションに人に合わせる選択肢もあったが取らなかった。「もう俺は単なる問題児だし」と思ってしまっていることも、今更頑張ることにモチベーションが上がらない理由かもしれない。

自尊心が低い

今回の件に限らず、集団行動ができないことは、こだわりの強さや空気が読めないこととして、発達に問題があるのではないかと指摘されるきっかけになっている。長男も、自分がよく問題視されていることは気付いている。

そして、長男の自尊心は低い。これは長男の特性が異質なものとして、なかなか理解されず叱責や注意を受け続けてきた結果だと思う。親も長男がギフティッドと気付くまでは、長男の行動によって周りが困る可能性があるときは、常に長男を直そうとしてきた。

今もそうかもしれない。長い年月付き合う中で、もう何度も注意してきたのだから、さすがに長男が状況を理解して直してほしい、と思う気持ちがあることは否定しない。

でもこれがずっと続いているというのは、それくらい周囲とギフティッド(一般化するわけではなく、あくまで長男)が大切と考えることが一致しない場面が多いのだろうとも思っている。

なぜ大切なものが一致しないのかの一つの解

それは、例えば、私だと、子供の躾だとか、半径数百メートル以内の日常の出来事で頭がいっぱいになっているが、長男の場合は半径というレベルではなく、宇宙から地球を見ているようなところがあって、こちらが共通認識の上で同じ物を見て話をしているはずと思っていても、私にとっては臨場感のある出来事として見えている物が、長男にとっては高いところから見たときの小さな点にしか見えていない、ということがあるのではないかと思った。

これは、そうかどうか確かめようもない。私自身が、これ以上自分の価値観でもって長男を罰することを辞めたくて、なんとかして「何かぜったい理由があるはず」というのを見つけたいと思い続けた結果、そうかも、と思っただけである。

例えば、省エネとか、温室効果ガスの削減というテーマがあった時、普通だと身近なところで出来る取り組みとか、今注目の省エネ技術とかを話題にすると思う。

長男は、「コウモリが出す超音波で水を沸騰させてタービンを回せるかも知れない。ただコウモリは呼吸するから二酸化炭素はゼロではないけど」とか、「月を発電のタービンに見立てて、月の自転の力で発電すれば、ある程度安定的に電力供給できるかもしれない。ただ周期がゆっくりすぎるかも・・」など、それぞれコスト、衛生面、整備の問題や、実現可能性を問われると難しいことは認めつつも、アイデアを出せと言われたら次々出てくる。そのうち、半分近くは宇宙が絡んでいた。

幼少期こそ宇宙が好きそうだったが、最近はもう興味が無くなったのかなと思っていたので意外だった。

それで、いつも何かを考える時に、これくらいのスケールの中で考えているとしたら、私が必死に心配しているようなことは、いつの間にかだいぶ隅っこの方に追いやられているのではないかと思った。

まだ長男が保育園児だった時、「もう親に叱られすぎて、この子にとって親があれこれ言うことは、また怒られたと思う程度で、全てノイズでしかないんだと思います。」と先生に話したことがあった。怒られ慣れてしまって、大した事に思えなくなったということだ。

しかし、怒られすぎたかどうかは関係なく、長男にとって、ああしろ、こうしろと言われることは、ほぼノイズなのではないかと思った。これは別に悪い意味ではなくて、もっと違う所に意識が行っているだけなのだと思う。

ノイズにしないようにするには別人にでもならないと無理であり、結果、叱られ続けるために、気付いたら自尊心だけは低下している。毎回何で怒られたかはノイズとなり消えるので、形を変えてはまた何かが起きる。

以前大学病院の頭痛科の先生にも、本人が直せたら今頃直っています、と言われた。たぶん、脳の反応の仕方とか、そういうレベルで違いがあるのだろうと思う。

それでも、この能力も捨てた物ではないかも知れない。普通なら学校に行けなくなるような状況でも学校に行けたり、親にこっぴどく叱られてもケロッとして数時間後には甘えに来たりするのも、ノイズとして処理できる能力があるからなのかもしれない。

普通は、これだけ痛い目に遭ってきていれば、双方にとっての大事な物が違うと分ったとき、もういい加減痛い目に遭いたくないからと、ダンスだろうと何だろうと参加しそうなものだ。

難しいことが簡単にできるのだから、日常のことなんてもっと簡単に要領よくできるだろうと思いたいが、落とし穴があれば必ず落ちる。

それを、これまではずっと、本人も自覚しているのに直す気がないからだろうと思っていた。痛い目に遭っても学ばないなら救いようがないと思っていた。でもたぶん、本人は屁理屈を色々言うけれど、根本的に、これらがノイズになっていることを自覚していない。

少なくとも長男は、学年が変わってからは反抗的ではなくなった。「痛い目に遭う」ことを承知の上で拒むような行為はなくなっている。参加が無理だから退散して、終わるまで待っているような感じだ。彼にとってみれば、過去に比べても目をつむってもらえる程度の些細なことで、騒ぎになるとは思っていない。

それでも周囲は問題視する。すると長男はそのつもりはなくても、責められていると感じると、なんだかんだ言って正当化しようと理屈を言い始める。しかし、これは周囲からしたら期待した行動ではないから、さらに問題視される。

親としては、長男を以前よりは理解しているつもりだ。その上で、将来のことを考えると、時々地上に引っ張り戻して「ほれ、見ろこれを、分るか?」と、時々はやらなくてはいけない。

(6)につづく