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脚本『先生、夜ってなんですか?』

先生、夜ってなんですか?


先生 先

生徒 生

友人 友


【1】


教室にて。


友「ねえ、今度の月曜の夜、空いてる?」

生「月曜日の、夜、ですか?」

友「そう、家でパーティがあるのだけれど、良かったらって。」

生「夜、ですか?」

友「そう夜。」

生「夜、夜、夜ですか?」

友「夜、駄目そう?門限厳しそうだもんね。」

生「いえ、その……なんというか。」

友「ぜんぜん気にしなくていいよ。取り敢えず、他の子に声かけてくるから、来れそうだったらいつでも言ってね。」

生「あの、夜って……いってしまいました。」


【2】


下校の合図。教室にて、先生、日誌のようなものを書いている。戸から生徒が入ってくる。


生「先生、よろしい?」

先「なんでしょう?」

生「先生は物知りでしょう?」

先「ええ、ええ、全く正しい認識です。」

生「ですから、きっとこれも知っておられるのでしょう。」

先「これと言われてもどれだかわかりません。」

生「先生、どうか無知を笑わないで。」

先「笑うはずがありません。無知は当然です。知ったと驕る方こそ笑えども、ですよ。」

生「安心しました。」

先「どうぞ、お云いなさい。」

生「その、私、十数年生きてきて、もうすぐお酒だって飲めるのですけれど……ああ、恥ずかしいわ。」

先「大丈夫です。ゆっくりとお云いなさい。」

生「本当に笑わないでくださいな。私、夜を知りませんの。」

先「夜、ですか?」

生「ああ、やっぱり、おかしいのだわ、私。」

先「いえいえ、少しばかり狼狽しましたが、おかしいなどという事はない。」

生「真実の目をして言ってください。」

先「ほら、目を見て。」

生「ああ、真実の目だわ。やっぱりお優しい。」

先「人間、多少常識が欠落していたとして、案外普通に生きられるものです。」

生「そうかしら。私の、友人方、皆さん夜を知ってっらっしゃると。その、私、皆さん当然の様におっしゃるので、尋ねるのが恥ずかしくって。」

先「それは、あれですな、普通に囚われております。」

生「普通にですか?」

先「ええ、人間、様々です。おかしくない人間などいない。普通でないことが普通なのです。」

生「でも、知るべきことを知らないことは。」

先「ええ、普通であることに満足してはいけません。普通でないことに気づいたのなら、普通になるよう努めましょう。」

生「ああ、わからない。今の普通はどちらの意味での普通?」

先「あなたは、努力をした。夜を知らないことを知って、私に尋ねた。」

生「ええ、先生。」

先「それだけで、一等です。」

生「ありがとうございます。」

先「さて、一応の確認なのだが、夜とは、名詞の夜の事でよいのだね?」

生「ええ、先生、きっとそうだわ。」

先「きっと?」

生「友人の話ぶりからすると。」

先「よろしい、では、夜について学んでいきましょう。」

生「はい、先生。」

先「はて、まず何から教えてたものか。」

生「難しいんですの?夜というものは。」

先「いえ、わかってしまえば容易いものです。」

生「そうなんですの?」

先「ただ、夜を教えたことがないものですから。」

生「申し訳ありません。」

先「良いのですよ。教える言葉を今探しています。そうですな、先ずはあなたの知識を確かめましょう。」

生「はい、先生。」

先「では、夜について知っていることをお話ください。」

生「先生、私、夜について知りませんわ。」

先「そんなはずはない。何も知らないなんてことはない。ちょっとは知ってるはずだ。」

生「でも先生、何にも知らないわ。」

先「ふむ、君は夜について何も、これっぽっちも知らないのかい?」

生「ええ、本当に、私、一ミリだって知らないの。知らない事には自信があるわ。」

先「知らないことは卑下することではありませんが、誇ることでもないのですよ。」

生「でも先生、無知の知って言いますわ。」

先「それは違う。」

生「違うってそんな。」

先「良いですか、無知の知というのはですね、何かを知っているからこそ、何を知っていないかわかるのです。」

生「はい、先生。」

先「知識の面積を広げると、無知との境界線量が増え、また、それは、視座を広げることに繋がり、様々な視点から、未知領域を概観するに至り、故に知らないことへの見通しが立つのです。」

生「わかりませんわ、先生、もう少し優しい言葉で教えてください。」

先「ふむ、一口に知らないと言ってもその程度は様々で、先ず本当に何も知らない原初の無知、そして、ある程度知ったことによるどのように知らないのか、どんなことを知らないのかを言える無知。」

生「はい、先生。」

先「どうやら伝わっていなようだ。」

生「はい、先生。」

先「つまり、抽象的な無知から具体的な無知に学習の進度とともに変遷するわけです。」

生「私の無知は抽象的ですか?」

先「そうでしょう。自身の無知を御覧なさい。」

生「はい、先生……見れません。」

先「比喩ですよ。省みろという事です。」

生「どのように?」

先「あなたは何も知らない。ただそれだけを知っている。夜について知らないことは知ってても、なにをどのように知らないかはわからない。」

生「まあ、先生、その通りです。」

先「無知の知とは、知らないことを知っていることです。しかし、それは抽象的無知ではなく具体的無知についていっています。」

生「はい、先生。」

先「ソクラテスの問答法を御覧なさい。」

生「はい、先生……見えませんわ、何方に御座いますの?」

先「……ソクラテスは、知識について徹底して何故を問います。知っていることを洗い出して、そこに何故をぶつけ、知らない事を明確にする。何をどのように知らないのかを。これは知っている、これは知っている、でもこれは知らない。さあ考えよう。」

生「考えます。」

先「あなたの無知は、問答法にかかる以前の抽象的、原初的無知だ。それには無知の知など言いようがない。」

生「かっこいいですわね、私の無知。」

先「誇らないでください。」

生「はい、先生、誇りませんわ。」

先「よろしい。」

生「それで、私の無知には問答ができませんのね。」

先「ええ、ですからかなり基礎的なことから始めるとしましょう。」

生「よろしくお願いします、先生。」

先「さて、一口に夜と言っても、その含む範囲は様々で、つまり夜は他の言葉の多くがそうであるように多義語なのですが、さて、多義語への対処法をあげなさい。」

生「多義語への対処ですか。先生、ちっとも浮かびません。」

先「そんなはずはない、これはこの前の授業で教えた所ですよ。」

生「そうでしたの……先生、ちっとも思い出せませんの。」

先「ふむ、君は勉学につき優秀だが、はて、どうしたのか。何か問題でも抱えているのかね?」

生「その、私、最近、どうにも勉学に身が入らなくって。」

先「悩みか、何か気がかりが?」

生「そうなのです、気になってどうしても。」

先「夜も眠れない?」

生「……夜は眠るのですか?」

先「少し誤解がありそうだ。夜は眠らない。」

生「はい。」

先「夜に、人が眠る。」

生「夜は人を寝かしつけるのですね。母親のようなものかしら。」

先「良い洞察です、が、このまま進むと、体系的な学習になりません。戻りましょう。」

生「はい、先生。」

先「それで、あなたを悩ますものとは?友人、恋人、家族、お金、なんでしょうか?」

生「夜、です。」

先「一周しましたか。」

生「ええ、私、夜の事が気になって、どうしても。皆さんの話ぶりから察するに、とても素敵なものなのでしょう?」

先「それはもう、素晴らしいものですよ。では、あなたの学業の為にも、夜を学ばなければなりませんね。」

生「はい、先生。」

先「よろしい、では、どこだったか。そう、多義語への対処でしたね。基本的には、まず、その語の主要な意味を押さえ、そして、文脈に沿って意訳する、それだけです。応用的な話は来週あたりの授業でやることでしょうから、いったんはこの程度ですね。」

生「ああ、思い出しましたわ、先生、そうでした。お恥ずかしい。」

先「さて、夜には主要な意味が三つあります。これは学術的な分類なので、少々難しいかもしれませんが、あなたならば、問題ないでしょう。」

生「頑張ります、先生。」

先「では、一つ、定義的意味の夜。一つ、実質的意味の夜。一つ、これは少し特殊で、修飾法上の夜。この三つです。」

生「定義的意味の夜と、実質的意味の夜……ええと。」

先「修飾法上の夜。」

生「そうですわ、修飾法上の、修飾法上の。」

先「そんなに必死になって覚える必要はありません。試験に出すようなものでもないですし、ざっくりとこうだというのがわかればよろしい。」

生「はい、先生。」

先「メモは?」

生「はい。」

先「ではまず、一つ目の、定義的意味の夜から説明していきましょう。辞書を開いて。」

生「はい、先生。」

先「辞書を開いて、お読みください。」

生「辞書に載ってるんです?」

先「はい。一般的なものですから。」

生「そんな。」

先「気に病むことはない。辞書に載っていること全てを知る必要はない。」

生「でも先生。私、先生に聞く前に、辞書に当たるべきでしたわ。」

先「いい心がけです。しかし、夜は複雑かつ広範なもの。辞書にある意味はそのほんの一部。今回ばかりは、辞書で分かった気になって、私に聞きそびれるなんてことにならないとも言い切れません。」

生「良かったですわ。」

先「ええ、大変すばらしい。あなたの学習にとって良い傾向だ。さあ、辞書を開いて。」

生「どこに載っているのかしら。」

先「忘れましたか?夜ですよ。よ・る。」

生「よ・る?」

先「辞書は五十音順です。」

生「思い出しました。ですから、夜は、よ、だから、よ、よ。」

先「ゆっくりと、焦らずに。」

生「ええと、五十音は確か、あ、あから始まるんです。だから、あ、あの次はい、う、えお、か、か、か。」

先「き。」

生「そう、き!き、き、く、けこ、さ、し、す、せ、そ、た、私ここは得意なんです。たの次は、ちつてとなにぬ。です。」

先「優秀だ。」

生「語呂で覚えました。」

先「どのような?」

生「ちつてとなにぬ!です。」

先「続けて。」

生「……ちつてとなにぬ、ぬ、ぬ、ぬ、ね、ですか?」

先「正しい。」

生「良かったわ。ね、の、はひ、ふ、へ、ほまみむ、む、め、も、も、も、も、た?」

先「たはすでに出ています。」

生「そうでしたわ。そんなはずがないの、もの後にたがくるなんて。」

先「では?」

生「たじゃないのなら、き?」

先「遠くなりました。あなたはどうやら、きの位置が苦手なようだ。」

生「きの位置。」

先「少し逸れますが、きの位置について復習しましょう。」

生「お願いします、先生。」

先「きの位置、、もとい、きの地位ですね、きは五十音の正順で七番目にあり、か・く、と、とても密接な関係にあります。また、見方を変えれば、い・しとも密接であり、このか・く・い・し、が、きの地位を定めていると言えます。」

生「では先生、そのか・く・い・し、の地位はなにが定めているのでしょうか。」

先「ふむ。良い質問だ。辞書を開いて。阿保の項を読んで。」

生「……あほ、あほう。馬鹿。」

先「では馬鹿の項を。」

生「……馬鹿、たわけ。」

先「よろしい。では次は……。」

生「たわけの項ですか。」

先「素晴らしい。良き推論だ。どうぞ。」

生「たわけ、阿保。」

先「では、尋ねましょう、阿保の意味は?」

生「馬鹿です。」

先「馬鹿の意味は?」

生「たわけです。」

先「たわけの意味は?」

生「そんなの。阿保に決まっています。そう書いてあるもの。」

先「阿保は馬鹿であり、馬鹿はたわけである。つまり阿保はたわけである。」

生「何をおっしゃってるの、先生?」

先「循環するのですよ。」

先「はあ……。」

先「よろしいですか、言葉を言葉で説明する限り、その言葉に対する説明をし続ければどこかで最初の言葉が出てくる。」

生「難しいです。」

先「阿保の説明に阿保を使うことは出来ません。何故ですかな?」

生「それは、阿保の意味が分からないと仮定すれば、その説明では意味を理解できないからです。」

先「正しい。では、阿保、馬鹿、たわけの意味を知らぬ人間を仮定しましょう。」

生「そのような間の抜けた方が?」

先「あくまで仮定です。阿保、馬鹿、たわけも知らぬような、阿保、馬鹿、たわけな人間に、阿保の意味を説明するとすれば。」

生「阿保は馬鹿という意味です。」

先「しかし、馬鹿の意味を知らないのであれば、その説明は不十分。馬鹿を説明しなくては。」

生「馬鹿は、たわけで、たわけの説明は阿保で。」

先「さあ、循環しました。」

生「どうしましょう。」

先「どうすることもできません。真のまっさらな無知の前では。」

生「そんな。彼は、この先何も知りえることがないのですか。」

先「そうなります。阿保に関する説明をいくら重ねた所で、その階層をいたずらに増やしたところで、結末は『阿保とは阿保の事である』という同語反復に過ぎません。」

生「ですが……。」

先「どこかしらに、知り得る単語が無ければ不可能なのです。さて、言葉を言葉で説明する以上、どこかの言葉を知らなければいけない。そうすれば、言葉は連鎖的にその意味、地位を決定される。」

生「はい……先生。」

先「五十音にしてもそうです。きに密接であるのがいであるならば、いに密接であるものがきであるという事が同時に成り立つ。」

生「はい、先生。きはいと仲良しなのだから、いはきと仲良し。」

先「そうです。」

生「しかし、田村さん。隣のクラスの田村さんは、うちのクラスの前田さんと仲良しですが、前田さんは田村さんを邪険に扱います。」

先「それは仲良しではない。」

生「ですが、田村さんは……幸せそうですよ?」

先「それは仲良しの主観性と客観性に起因する、が、今、関係がないことだ。戻しましょう。きの地位を決定するものにがいがあるならば、いの地位を決定するものにはきがある。循環的、相互的に地位が決定されるわけです。」

生「はい、先生。」

先「五十音は、密接な関係を持つ一音どうしが、相互・連鎖的にその地位を決定しているのであって、仮に、いの地位が、東に三十度ずれたとすれば、全ての地位が東に三十度ずれるわけです。」

生「あ、も、き、も、す、も、め、も?」

先「ええ、全てです。あ、も、き、も、す、も、め、も、も、も、ん、もです。」

生「んもももですか。」

先「ええ、全て連鎖しています。」

生「不思議だわ。頭がくらくらする。」

先「丁度、過去から未来へ、現在を通り過ぎ、連続なように。」

生「すごい!五十音って神秘なのですね。」

先「神秘ではありません。物理論です。」

生「ほう。」

先「つい、熱が入ってしまった。少ししたら休憩しましょうか。」

生「はい、先生。」

先「では、きの地位を確認したところで、えーと、何でしたかな。」

生「よ、です。」

先「そう、よ。確か、も、までいったのでしたか。もう少しですね。」

生「ええ、もの次、もの次。」

先「もの次は、や、です」

生「や、や?」

先「少しここは例外的なところですが、まあ、ここは更に進んだ内容に入ってしまうので、置いておきましょう。」

生「や、ですのね。や、では次は(yi)ですか?」

先「やはりあなたは優秀だ。稀に見る。素晴らしい。素晴らしい。」

生「そんな。私、夜も知らぬような女ですのに。」

先「夜を知らないことが何ですか。そんなことは些末なことだ。夜は今から、手とり足とり教えます。それよりもその推論。良いですか。学問において知識は大切です。非常に大切なのですが、知識は有害だ。それこそ無知の知。知っていると思ってしまうことが学問を妨げる。」

生「はい、先生。」

先「知識ではないのです、学問の枢要は。つまり、知識を持ちつつもそれに惑わされない純粋と推論、これこそが肝心要。これを持たぬものに学問は微笑まない。あなたは持っている。」

生「そんなに褒められると困りますわ。」

先「さて、あなたの素晴らしい純粋と推論による(yi)ですが、残念ながら正解ではありません。や、の次はゆなのです。」

生「なぜかしら?先生。」

先「言語における盲腸のようなものです。」

生「盲腸。」

先「全てが最適なわけではない。」

生「はい、先生。」

先「や、ときて、ゆ、なわけですが、あなたはきっと次に来るものが(ye)であると考えるでしょうが、ここで来るのが、目的の物、よ、です。」

生「ついに!」

先「五十音、正順で三十八番に来る文字が、よ、です。ちなみに、る、は四十一番です。」

生「近いのですね。」

先「ええ。ちなみに、辞書などで常用される五十音においては、よ、る、ともに、逆順から数えたほうが早くに来るので、これは、正確な知識としてではなく、テクニックとして覚えておいて損はないでしょう。」

生「何番なのでしょうか。」

先「るは逆順で六番。では、よは幾つかわかりますか?」

生「……すみません。」

先「正順では、よ、は三十八、る、は四十一、その差は?」

生「三十八と四十一では三つ。」

先「正しい。では、逆順でも三つの差があると考えれば?」

生「よ、は三番?」

先「逆です。」

生「九?」

先「正しい。この因果関係は図に表すと理解しやすいでしょう。今度作ってきます。」

生「ありがとうございます、先生。しかし、そのような労苦を。」

先「良いのです、あなたのような、意欲と能力をもった学生を教えるのこそ、教師の本懐。遠慮することなどないのです。」

生「はい、先生。」

先「では、いったん休憩を。水分補給等、しっかりと行うように。」

生「はい、先生。」

先「休憩中は、先ほどの(yi)(ye)について軽く説明しますので、流しながら聞いておいてください。」

生「はい、先生。」

先「水分補給を。では、これは、きの地位の説明にも拘わってくるものなのですが、発展的であったため、説明を省いておりました、が、あなたのその聡明さならば必ずや理解できるだろうと。まずもって、整理せねばならぬのは、子音と母音。日本における五十音では、子音と母音は一体となって表記されるものです。音節、音素、などなど、ここいらの事情は省くとして、そうですね、わかりやすく、あまり難しい言葉を使わずに。少し正確性に欠けますが、アルファベットを用いまして、例えば、は、はhとa、ひではhとi……という具合になる訳です。あなたの先ほどの推論では、やがyaですから、次に来るのはyiたる(yi)になるはずですが、日本語では(yi)について、特別な区別、または名づけをせず、これは日本語に存在しないという事ではなく、単に認知されていないという意味で、認知と存在については、これも省きます、が、ともかく(yi)は五十音上には存在しないので、(yi)を飛ばしyuたるゆが次に来るのです。例えば、鼻濁音が五十音には載らずに、しかし日本語の中には存在するようなもので(yi)は日本語にありつつも、五十音には存在しないのです。そして、この表記でいえば、いはiに当たり、かはkaに当たり、きがki、くがku、しがsiに当たるので、きの地位がこれら四つの音、か・く・い・しによって決定されるのです。あなた、休憩中ですよ。そんなに真剣にペンを走らせてはいけません。これはあくまで休憩。適切に休まなければ、学問は成りません。さあ、休んで。水分補給は?よろしい。では続きを。さて、聡明なあなたであれば、ここで気が付くことでしょう。たはtaであるのに、ちはchi、つはtsuではないかと。これもまた、日本語の表記における問題で、しかし一概にアルファベットの表記が正しいとも言えない問題なのですが、そう、ここが先ほど正確性に欠けるといった部分でありまして、実際にはアルファベットではなく発音記号を用いるべきなのでしょうが、しかし、煩雑。教師たるもの、教え子の知的レヴェルに合わせて説明の水準を変えるべきであるからして、便宜的にアルファベットを用いたわけですが、事実、taがたであり、tiはてぃ、tuはとぅに近い音で、たに合わせるのならば、た、てぃ、とぅ、て、とであり、ちに合わせるのであれば、chに対しての aiueoそれぞれの、ちゃ、ち、ちゅ、ちぇ、ちょ。つを基準にすればtsへの対応たる、つぁ、つぃ、つ、つぇ、つぉ、となる訳です。水分補給をしなさい。はい、。あくまでこれはわかりやすさを重視した、正確性に欠けるものですが、初学には十分でしょう。もしより詳しく知りたいのなら、また、私に聴くか、図書館の適当な本でもあたってください。そのように、発音としてはある、が、五十音には載っていない音とはたくさんある訳で、これは、五十音が、日本語の常用の為に、ある意味でカスタマイズされたものであることに起因し、つまり、生体の一部としての言語、故に、学術的な、水分補給!はいよろしい。そうですね。ヴァという音を日本語として認めるかという問題にもつながってくることですが、例えばヴァイオリンを、バイオリンと言ったりヴァチカンをバチカンと言ったり。うの濁音表記、及び、あ、の半音表記が存在しなければヴァは、バと表記されざるを得ず、これはてふてふ、ちょうちょう、と言った古語表記にも一部通じる問題であります。水!どうしたのですか。少し気分がすぐれないので?ですから、あれほど休憩をしろと。休み方が下手では、いつか体を壊してしまう。あなたはまだ若いだろうから、顕在化しないでしょうが、勉学中、常に心身は責め立てられている状態なのですよ。はあ、あまり、これでは休憩にならない様だ。仕方ない。休憩は終わりです。さて、五十音について、一区切りついたところで、本題の、あなたの知りたい、夜、の説明へ戻りましょう。」

生「はい、先生。」

先「まだ、夜の三つある意味の内、一つ目の意味にしか入っていない。いや、それにすら入っていないではないか。」

生「申し訳ありません。」

先「謝ることじゃない。素晴らしいことだ。いいですか、いい生徒というのは教師の情熱を引き出すものだ。逆説的に、良い教師とは、あまねく生徒に情熱を持ったものであると言える。普通、あなたの年頃に、このようなことは教えない。さあ、私があなたのような、うら若きものに夜を教えるというのも、ひとえに、あなたが、私の情熱を掻き立てるためだ。さあ、学びましょう、夜を!」

生「はい、先生!」

先「復習です。夜には大まかに、三つの意味があります。それは?」

生「定義的意味、実質的意味……修飾法上の意味、です。」

先「よろしい、では、辞書を開いて。覚えていますか?よ、は逆順で何番か?」

生「九。」

先「正しい。探して、読んで。」

生「……夜、日の入りから日の出までの暗い間。太陽が沈んで暗くなっている間。」

先「その通りです。」

生「読むことを褒められても困ります。子供ではないのですよ。」

先「これは失礼。さあ、辞書に書いてあること。その辞書は由緒正しき辞書ですから、そこにあるのは妄言ではない。これが夜の正しき定義的意味です。」

生「はい、先生。」

先「そして、実質的意味の夜は、夜の性質を鑑みて、その性質が満たされる期間の事を言います。」

生「それは定義的意味とは違うのですか?」

先「そうですね、結果的には多くの点を共有していますが、諸問題を片付ける際に、厳密な議論を要するならば、この意味を区別して考えねばなりません。」

生「厳密には違うと。」

先「そうです。しかし、実生活において、そこまでの厳密さが求められることはないでしょうから、あまり気にしなくてもよい。あくまで、学問的な、専門的な扱いです。」

生「はい、先生。」

先「つまり、陽が沈んだ後でも、それが夜の諸性質を満たさないのであれば、それは定義的意味における夜ではあるが、実質的意味における夜ではないという事になる。また、逆も言える。」

生「難しいです。」

先「そうですね、例えば、演劇の世界で夜を表現した時にはどうでしょうか、それは実際の時間に拘わらず夜として扱われるわけです。」

生「……なんでしょう。」

先「あまりうまく理解できていないようですね。」

生「その、辞書には、こうありました。日の入りから、日の出までの間と。」

先「そうですね、何か問題でも?」

生「でも先生、それって無理筋じゃなくって?」

先「……どういう事でしょうか?」

生「その、もしかしたら、私は何か大きな思い違いをして、もしくは読み違いをしている可能性もあるのですけれど。」

先「続けて。」

生「おそらくこの、間というのは時間の事だと思うのです。」

先「正しい認識だ。」

生「でも先生、日の入りと日の出の間に、時間的量はないのではないですか?」

先「ふむ、それは、そもそも時間的量が普遍的に存在しないという主張ですか?」

生「……何のことです?」

先「……時間的量の存在を認めつつも、日の入り、日の出の間にはそれが存在しないと。何故そう思われたのですか?」

生「すみません。きっと勘違いなのです。」

先「疑問をうやむやにしてはいけません。それは学問の敵です。続けて。」

生「あの……どのように言えばいいのか。どういえば伝わるのか。でも、時間はない。」

先「しかし……ふむ。あなたは、日の入り後、どのようにすごしているのですか?」

生「日の入り後、ですか?日の入り後には過ごせません。時間がないのですから。」

先「では、あなたの主張では、日が沈むと同時に日が出てくるという事になりますが、相違は?」

生「ありません。」

先「それはおかしい。あなたは知っているはずだ、日の出後の時間を……いや、あなたは夜を知らないのでしたな。」

生「おかしいのでしょか?」

先「いえ、きっと、何かの行き違いのはずです。日の入り、日の出、あなたはそれを体験したことがない?……まず朝があります。で、昼があって、そして夕、その後はどうなりますか?」

生「夕の後ですか、夕の後は、朝です。」

先「ふむ。寝ている?」

生「先生、わかりました!」

先「おお、素晴らしい。」

生「夜とは、ファンタジーなのですね。」

先「何をわかってしまったのだ。」

生「先生、辞書にはこうあります。暗い間。これは不合理です。世界が暗いことなどない。光あれですよ。」

先「それは。」

生「だから、夜はあれなのでしょう、タキオンだとか、シュレディンガーの猫だとか、概念的な、作り話。ユニコーンに、妖精に魔法、そんなおとぎ話。幽霊だとか死後の世界だとかの怪談。」

先「……タキオンはあります。」

生「え?」

先「妖精も。」

生「そんなはずは。」

先「幽霊も、勿論暗い世界も。あなたは、世界は常に明るいと?」

生「ええ、ずっとそう言っております。それよりも、先生、妖精だとかは?からかいはやめてください。真剣なのですよ。」

先「目を見て。」

生「真実の目だわ。じゃあ何故?」

先「いるのですよ、それらは。ふむ、あなた、これらは確かに一般的にお目にかかるものではない。しかし、存在する。」

生「本当ですの。」

先「ほら、目。」

生「ああ、真実の目だわ。この世で最も清い目だわ。」

先「学問の敵は、知です。」

生「何をおっしゃいますの?」

先「無知の知とは、実践的な戒めの側面が強い。」

生「はあ?」

先「諺と同じです。犬も歩けば棒に当たる。」

生「しかし。」

先「同じですよ。」

生「ですが、犬が棒に当たったところなど。」

先「見たことがない。」

生「ええ。」

先「それこそ決めつけ。知の弊害。知った気になり、驕る。まあ、「犬も歩けば」は特にデフォルメと強調によるコミカルな戒め。無知の知は多少写実よりです。」

生「どういうことですか?」

先「あなたは、無知だ、それが無知の知ではない。つまり、あなたの無知は無知の知の例外だ。」

生「そうですとも。私の無知は原初的無知!」

先「ですから、無知全般について、あまねく適応されるものではなく、ここに諺的な、詭弁的な、強調の技法が用いられている。」

生「その点で同じだと。」

先「そうです。良いですか。諺的戒めの観点から、無知の知を、そのレトリックをはがし、陳腐な表現に落とせば、ありきたりな知の弊害について語っている。」

生「ほう。」

先「学問は知の希求であり、知を蓄えるものでありながら、蓄えた知を盲信することは学問の敵です。」

生「巨人の肩に乗れと言います。」

先「程度の問題です。強調の技法ですよ。知を希求するという事は、疑う事であり、知ったと思う事は、疑う事を止めることです。存在、もしくは不存在を信じるという事は、学問の終わりを意味する。」

生「タキオンはある。幽霊も、ユニコーンも。」

先「信じるな!」

生「なぜ!」

先「私の言ったことを鵜吞みにするな!学問が終わってしまう。」

生「ならどうすれば?!」

先「疑いなさい。私の言葉を、自分の頭で考え、そして確かめなさい。」

生「はい、先生。私探すわ。ユニコーンを。捕まえてみせます。」

先「いい心構えだ。」

生「ずっと、ペットに欲しかったの。乗馬用に。」

先「それでは、夜についての話に戻りましょう。知らない、見たことがないから、それが存在しないという事にはならない。少なくとも、全世界的視点に立てば。」

生「夜は、存在する。」

先「ええ、夜は、確かに存在します。」

生「先生、夜とはどんなもの?」

先「どんなもの、ですか。ええ、そうですね、どんななもの。夜は、ですね、大きく深く、安らかであり、人に恐怖を与えるときもある。夜には、その暗さゆえに、星の輝きを観測することができる。」

生「……先生、少々、辞書的でなくって?」

先「そうですかね?」

生「先生、その、先生がおっしゃったから、そう心がけて、疑うように、先生のお言葉を。先生、その、もしかして、夜をご覧になったことがない?」

先「……ふむ。」

生「そうなのではなくって?先生、どうにも、先ほどからの説明、知識に寄りすぎているような気が。」

先「それは、先ず知識を付けてからの実践を、ですね。」

生「先生、知識として知っているだけでは?本当に夜を見たことはおありで?」

先「ええ勿論。」

生「先生、目を見せて?」

先「どうぞ。」

生「真実に揺らぎが!」

先「……そうですね。言わねばならぬでしょう。私も、夜の全てを知っているわけではない。」

生「……そうなのですね。」

先「しかし、夜というものを知らないわけではない。日が経過する時、そこに夜がある。」

生「それこそ、仮定の、作り話。」

先「違うのです。有るのです、夜は確かに。あなたは、まだ若い、光の世界しか知らない。かえりみれば、あなたがそう経験してきたように、夜は省略されがちで、日数の経過として、便宜的にあったことにされがちだ、しかし、確かに、存在する。人間の活動の主な場が日中である以上、それは仕方のないことだが、夜を舞台とした活動がある以上、存在する。」

生「先生、落ち着いて。」

先「夜は多岐に渡る。私の知っている夜は、そのほんの一部に過ぎない。確かに、私の夜の知識の大部分は伝え聞いた知識に過ぎない。その点は、君の言う通り、作り話である可能性も否めない。」

生「良いのです。完璧な回答は求めておりません。」

先「そうだ!では、理論的なことはここらで終わりにして、実践編に入りましょう。」

生「実践ですか?」

先「百聞は一見にしかず、というより、実の体験なしには、真の知識たり得ません。」

生「では、どうなさるの。日が暮れるまで待たれる?」

先「ここは、多少の融通が利く場所ですから、きっと、私がこの話をした段階で……そら来た、暗くなってきました。」

生「まあ先生、怖いわ、先生。」

先「初めての夜は怖いですか。少しこちらへ来なさい。闇夜は危ない。」

生「ありがとうございます先生。やはりお優しい。」

先「さあ、夜は冷えます。」

生「そうなんですの?」

先「じきに分かる。」

生「そんなことも知りませんでした。やっぱり、私おかしいのだわ。」

先「珍しいというだけでおかしなことはない。」

生「目!」

先「はい。」

生「ああ、真実!」

先「教師の、先達の務めです。あなたを真実に導くのは。」

生「ああ、もう、全く暗いわ。大丈夫なのかしら、こんな状態。」

先「ある意味で、ここは自由ですからね。例えば、ファンタジー。ファンタジーはあれで、ファンタジーとしての体裁の為に守るべき規律が多い。」

生「お詳しいのですね。」

先「ええ。子供の頃は、私も勇者などに憧れたものです。」

生「モンスターなどと戦闘なされて?」

先「いえ、見ているだけでした。私には華がなかった。」

生「そんな。」

先「並大抵の華ではだめなのです。世界を救うことに説得力をもたせられるほどのものでなければ。」

生「……そうなんですのね。」

先「そう言うものです。」

生「その、先生、夜って彩度がないのですね。」

先「ええ。」

生「でも、だからこそ、見える輝きがあるのです。」

先「……素直な感想ですね。」

生「先生、私、先生が、その、先生に、夜を教えていただいて、先生で、良かったわ。」

先「そうですか。それは良かった。」

生「あ、そう、修飾法上の夜とは―。」


友人がガラガラと戸を開けて入ってくると同時に明転。


生「なんです?!」

先「朝ですよ。」

友「二人は何を?」

先「きっと、鳥が鳴きます。ほら。」

生「ほんとだ。」

友「そんなにくっ付いて。教師と生徒の距離ではないのでは?」

生「距離?教師と生徒に?」

先「ふむ、君は何を?」

友「忘れ物を。そしたら教室が夜だったから、何事かと。」

先「それは心配をかけましたね。」

友「いえ、全然。」

生「あの!」

友「どうしたの。」

生「その、今度の月曜の夜。パーティ、私も参加します。」

友「ほんと!?よかった。嬉しい。浮かない顔をしてたからダメかと。」

生「その、私、夜を知らなくって。でも、今、先生に夜を教えていただいたの。」

友「はあ。」

生「やっぱり、おかしいかしら。」

友「いや、その、ねえ。」

先「……私はこれで。」

生「あ、先生、修飾法上の夜―。」

友「……もっと、知るべきことがあるわ、あなたには。」

生「え、なんです?」


終わり

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