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怒りについて。

今日のバイト中、隣の店員さんに向かって態度が悪いお客さんがいて、そのお客さんに対してちょっと怒ってる風になった店員さんを見てひらめいたことがあって書いてみます。


怒りについて書いた有名な本と言えば、古代ギリシャのストア派の1人である哲学者セネカが書いた『怒りについて』ですかね。

読んでみたいとは思っているのですが、優先順位的にまだまだ先になりそうな予感です。いつか読んだ暁には自分の説とどこが違うのか、なぜ違うのか、どちらがより論理的なのかについて考えてみたいです。そして自分の説がより整合性を持つように改善出来たらうれしいです。

しかし、今は『怒りについて』を読む前に自分の今の考えとして怒りについて思うことを書き残していきたいと思います。

これから怒りについて書いていくに当たって3つに項目を分けて考えていきます。

その3つとは

①怒りとはどのようにして発生するか。

②なぜ怒ると攻撃的になるか。

③怒らないためにはどうすればいいか。

です。

そしてその後に怒りについて考える過程で考えた別の事柄について少し書いて終わりたいと思います。

①怒りとはどのようにして発生するか。

まず、①怒りとはどのようにして発生するか。についての考えを書いていきます。

怒りとは自分や他人、周りの環境などの現実が自分の思った通りではなかったときに発生する感情である。と考えます。

ここでいう「自分の思った通り」の自分の思いというのは、自分の欲望を満たす理想的な状況の想起です。この想起が裏切られたとき、私たちはその裏切った対象に対して怒りが湧くのです。カッテニソウキシテタノハコッチナノニ。

私たちは何かを望むとき、その望みに対して自分が、他人が、世界のあらゆるものが自分に都合よく動いてくれると期待しています。というか反対に、それらが如何に自分の望みの充足に対して不都合な行動をとるか、外界の物体、状況がどのように自分の願望を邪魔するような動きをするかを我々はあらかじめ予期することが必ずしもできるとは限りません。このあらかじめ自分や他人などの、(自分の欲を満たすという)願望に対しての不都合さ、不完全さを認識することができないゆえに抱く全能性の観念のことを、消極的全能ということにします。

2種類の全能の観念。

話が少し逸れますが全能者の観念は2つの種類に分けられると考えています。

1つはいま出てきた「消極的全能者」です。この観念は無知から生じる観念です。ある人が「○○することができない。」ということを私が知らないことで、逆にその人を「私はこの人のできないことを知らない。つまりこの人はなんでもできる。」と思うことによって成立する、その人を全能者であると見なす観念です。

あるいは人に対してだけではなく、物に対しても我々は無知ゆえに、無意識的に全能性を期待します。たとえば、手から物が落ちた時、「なんで物が落ちたんだよ!落ちるなよ!」とその落ちた物に対して怒る人がいるとします。たまにいますよね、物に対して理不尽に起こる人。その怒った人は物が手から落ちないでいることを望んでいたのにも関わらず、というか物が落ちることを考えていなかったが故に、物が手から落ちた時に、「(物に「落ちてしまおう」という意志が存在しないのにもかかわらず!!)なんで落ちたんだ!」と恰もその物に落ちる意志があり、物がその意思を実行に移したかの如く怒りをあらわにします。この人は物にも魂の存在に基づく意志と行動力を認めるというアニミズム的視点により、物に対して怒るということを可能ならしめています。ジブンデオトシタノニ。

この意味で自分がその者(あるいは物)が、自分の願望充足に不都合な点を持つことを知らない(意識しない)ことで、その者(あるいは物)を完全な存在者であると見なすことによって生じる全能者の観念を消極的全能者と呼ぶことにします。

具体的に我々が消極的全能者であると見なす例がいくつかあります。

たとえば、普段の私たちの自己認識がそうなのですが、それを説明するのに分かりやすい例が、幼少期の赤ちゃんの自己認識です。

幼少期の赤ちゃんは自分が何ができて、何ができないかを理解していません。できることできないことの経験からくる知識がないからです。その意味で赤ちゃんは自分のことを何でもできる存在であると認識しているといえます。それと同じように、赤ちゃんよりは自分が何ができて、何ができないかを認識することができている私たちでも、完全に自分のできることとできないことを把握してはいません。その意味で我々は誰もが、自分のことを消極的全能者であると錯覚しています。このことが人生の苦しみの原因でもあるのですが、その話は別の機会に。(ちなみにここではさらに2つの無限の観念(実無限と可能無限)を混同しています。その所為で消極的全能者についての説明が分かりづらかったら申し訳ないです。その区別もいずれ別の記事で説明します。)

それと同様に私たちは他人に対しても、その人に何ができるか、あるいは何ができないかを初めはまったく知らないし、ついぞ完全に知ることもできません。その意味で私たちは、他人の事を「この人は何でもできるのかな。」と無意識に消極的全能者であると見なしています。だから私たちは、他人があることができないと知ったとき、「この人はこれができないのか。」とそこで初めて知り、その人に対する評価が下がってしまう、その人に対して幻滅してしまうことがあるのです。別にその人は、私(あなた)と出会ったときにもその性質、不完全さ、(自分に対しての)不都合さを持っていたのにも関わらず、私(あなた)がその人を無意識化で理想化していたことで、恰もその人が悪い人になったかの如く評価を変えてしまうことがあるのはこのためです。

このような消極的全能者の観念と対照的なのは積極的全能者の観念です。

積極的全能者の観念とは、経験から由来する完全なる者の観念です。

例えば一者や唯一神がこの観念に該当します。

私たちは普段、ある願望を抱いたときに、その願望を満たすためにはある手段を必要とします。そしてその手段を実行した後になって初めて私たちの願望は満たされます。その経験を繰り返していくうちに、願望⇒手段⇒充足のプロセスの内の手段が省略されることの在り得さを思い浮かべます。つまり願望を抱いた瞬間にその願望が充足されるという観念を得ます。その結果、願望⇒充足、つまり望むと同時に実現する全能者の観念が誕生するのです。

たとえば私たちがお腹がすいたとき、空腹感を満たしたいと思います。しかし、お腹を満たすためには特定の手段が必要です。その手段とは、食べ物を探し、手に入れ、口に運び、咀嚼し、飲み込むという手段です。このようにして食べたい⇒採集⇒お腹いっぱいという経験を積み重ねていくうちに、食べたい⇒お腹いっぱいをすることができたらいいのになあという観念を手に入れます。これが願望⇒充足の全能者の観念を手に入れた過程であると考えます。


話しをここでずうっと戻すと、私たちが怒りを感じるのは、このような消極的全能者の幻想が破壊されたとき、私たちが無意識的に抱いていた、ある対象がいままで持っていた全能性が損なわれたことによる欲求不満のはけ口として、その不快感をぶつけるためです。欲求不満というのは、私たちはそもそも、私たち自身が(消極的)全能でありたいし、現にそうであると思っていたいという性質を持っています。というか昔うまれたとき、最初に持っていた「自己(あるいは他者)が全能者である。」という認識を持ち続けたいのです。小さい頃って親の事を何でもできると思いがちですよね。それに自己の有限性を認識し受容するのは骨が折れることですから。私がこれまでの、そしてこれからの思索を通して明らかにしたいことはまさにこの有限性の自覚、受容の方法です。

しかし、実際は私たちの誰もが全能者ではないのだから、いつかはその希望が、願望が、欲望が挫折します。そしてその満たされない欲望を満たさせなくした張本人(あるいは張本物)に対して怒りを感じるのです。

では次にこのような仕組みで怒りを感じたとき、なぜ我々は怒りという攻撃的な態度を相手に向けるのでしょうか。②の話題に移っていきます。

②なぜ怒ると攻撃的になるか。

一言でいうと我々が怒ったときにある人や物に対して攻撃的になるのは、その怒りの対象を私たちから遠ざけたいからです。

どういうことかというと、私たちは未知のものや現象に対して不安感を抱き、同時に恐怖を覚えます。また、なぜ自分が(あるかは他人が、ある物が)自分の思った通りに動かなかったのかについて理解できない状況は不安であり不快なものです。なぜならば未知のものというのはこの先何が起こるか、何を起こすか予想することができず、この予想できなさは我々の安心や安全、さらには生存を脅かす危険なものだからです。つまり未知性故に私たちに不快感を与える対象を私たちから遠ざけようとすることこそ怒りの持つ重大な役割なのです。

ここで私たちがある対象の消極的全能性を否定したときに起こる不快感を整理したいと思います。

まず2つに分かれます。1つ目は1⃣ある対象の有限性の受け入れられなさ。2⃣理解できなさから生じる不安感。未知の排斥の欲望。

そして1⃣はさらにⅰ自己の理解力の有限性の受け入れがたさ。とⅱ怒りの対象の有限性の受け入れられなさ。の2つの不快感に分けられます。

まとめると、私たちがある対象に怒りを感じるとき、怒りを向けることで遠ざけたい理由はⅰ私たちが「なぜその対象がその行動をしたのか」について理解できないという現実(自分の限界=有限性)を受け入れたくないからという理由とⅱその対象(私や他人)が全能者(自分の願望通りに行動することができる存在)ではないことを受け入れたくないからという理由、さらに2⃣その対象の行動原理が理解できないこと(=未知性)から生じる恐怖感から逃れたいという理由の3つを挙げることができます。

私たちは以上のような理由から、ある人や物を怒りによって攻撃し遠ざけることで、自他の全能性の信仰や、未知のものに対する恐怖から逃れ、安心できる安定した状態を保とうとします。

だから逆に言うと、私たちが(あるいは他者が、ある物が)なぜその行動、運動をしたかを自分が理解できればその対象に対して怒りは湧かないのです。

どういうことか。そもそも怒りとは我々の有限性の受容のできなさと未知なものに対する不快感から生じるのであり、「なぜその対象がそのような行動を取ったか。」について理解することは、自他の有限性の受容を促すと同時に、未知なものが既知なものへと変わるので、そうすれば遠ざける必要がある受け入れ難い有限性、あるいは未知という名の不快感はもはや存在しなくなるということであります。

自他の、特に自己の有限性の受容については別の機会に詳しく論じるとして、ここでは未知なものを既知なものへと理解によって変えていくことに焦点を当てて考えてみたいと思います。

③怒らないためにはどうすればいいのか。

③の話題に移りましょう。③は怒らないためにはどうすればいいかという問題でした。

先ほども述べた通り、怒らないようにするには怒りの対象、矛先に対して「なぜそのような行動をしたか。」について理解することが必要です。

では、それを理解するためには何が必要で、それをどうする必要があるのでしょうか。

私が考えるに理解に必要なものは2つで、それは➊脳みそがそこで理解のために活動する思考空間と➋理解力です。

ここで用語の説明をします。

まず、ここでいう理解力とは目の前で起こった事象に対して、「なぜそうなったか。」についての少なくとも自分が納得できる理由、それもできるだけ普遍的で、応用が利き、例外の少ない(例外が0ならそれが真理である)、一貫した理由(人なら行動原理、物なら運動法則)を紡ぎだす力の事です。

ちなみにこのときの理解は必ずしも真なる理解である必要はありません。まあ、そうであるに越したことはないですけど。なぜならばここで理解に求められているのはある事象が起こった原因についての説明なのであって、不明で未知ゆえに恐怖を与えるものだったものを既知のものに変えられたら、少なくとも自分にとってそれが既知になったと思えていたら、ここでの理解の目的は達成しているからです。これは完全な理解にいたることのできない有限性をはらんだ人間にとってはありがたい話です。この所為で蓋然的な知識、それも例外ばかりの的を得ない行動原理、物理法則の説明が世に蔓延ってきた、現に蔓延っているのも事実ですが。

そして思考空間とは脳みそが意識、無意識問わず、知識を用いて思考を展開、検討する場の事です。長期記憶から引っ張り出した自己が持つ情報(知識)と、すでに蓄えられた短期記憶の情報とを組み合わせて物事を理解しようとする情報処理空間です。

ただし、この思考空間の情報の容量は限界があり、思考空間の情報量が最大量になると、長期記憶から知識を持ってくることもしたくなくなり、できたとしても理解に至るための思考の展開、検討による試行錯誤ができるスペースが確保されなくなる。そのため、理解しようとする気持ち自体がなくなります。これは思考空間の容量があふれ出しそうなときに起こる自己防衛的な反応です。

詳しくは僕の第3回目の投稿である『無気力から考える、人間の求めるもの。人間の息苦しさの原因。』を読んでみてください。要は動物である人間はお腹がいっぱいで食べきれなくなったとき、食べ物に対して興味を失い、食べようとする気がなくなるのと同様に、脳みそに入れる情報もいっぱいになったら情報を脳に入れたいとも思わなくなり外界に対して興味を失い(抑うつ状態)、脳の機能も低下するのではないかという話です。

そしてこのような脳の情報処理空間である思考空間に空きがなく、理解に心的エネルギーを向けることができない人が、その不満感や不安感を怒りとして発露することで自我を保っている、防衛しているのだと考えます。また理解のできない人は怒りっぽくなるのと同様に、鬱っぽくもなります。それは思考空間が満杯だと、先ほども言ったように外界に対しても、自分自身に対しても興味が無くなり、もうどうにでもなってしまえという考えになる可能性が高いからです。でもそれはただ、脳みそがお腹いっぱいなだけなので改善の余地があるのですが、そのことを考えるだけの思考空間も思考への意志もなくしている可能性があるので難しい話です。この問題についてもおいおい話していきます。

まとめると、怒らないようにするためにはその対象の有限性を認めると同時に未知のものを既知のものに変えるための、思考空間、理解力、そしてなによりも大事なのは理解しようとする意志が必要であるということです。

しかし注意されたいのはここでは怒ることが悪いことであるとは一言も言っていない点です。ただ怒ることはどのようにして抑制できるかについて述べているだけで、怒ることに対してなんにも価値判断はしていません。善いとも悪いとも。というかそもそも怒るという行為に対して、それを一概に善い行動であるとも悪い行動であるともいえないのです。その話もそのうちしたいです。



最後に。

最後に怒ることに関して考えてきた中で1つ思ったことがあります。

それは、学問とは、未知の不安からの解放を求める、動物的な感情に動機づけられた活動なのではないかという疑問です。学問というのは過去に起こった出来事を分析して理解し、世界に存在する未知を解消し、既知に塗り変えようとする営みであると言えます。さきに未知とは恐怖であり生命維持への不安であると話したことから、学問(あらゆることを理解しようとする営み)も元々はこの不安感からの脱出のために行われてきたではないかと思うのです。好奇心という感情はなにか生命にとって重大な問題が発生する前に、あらかじめ物事の未知を解消して安心したいという欲望の顕れなのではないか。だとしたらその感情は前回の記事のイカロスの翼の光を求めるイカロス少年につながるものがあるのではないかと思うのです。

世界という1つの部屋に何があるか、そこで何が起こるか暗くて見えないから分からない。それは人間の生存にとって厄介なので、部屋を明るく照らすことによってその不安感から解放されたい。このような欲望が我々を学問へと駆り立てている節もあるのではないでしょうか。そもそもそれが学問への最初の一歩だったのではないかと思うのです。ここでも光を求めて世界を、自己を啓蒙する(enlightenment:明るみに出す)行為としての学問観を提起してみたい。



最後の最後のおまけ

自己を消極的全能者ではないことを知ることができるのは積極的全能者だけであるというパラドックスがあります。

つまり、積極的全能者は全能なのにもかかわらず、むしろその全能性によって初めて、自己が消極的全能者ではないこと、つまり有限な存在であることを把握し得るというパラドックスです。

言い換えれば積極的全能者ではないわれわれ人間は自己が消極的全能者ではないことすらも完全には認識することができないのです。

これが事実であり、人生の苦しみの始点でもあります。つまり「自分には何ができて何ができないかを完全に把握理解することはできない。」という無力感です。

この事実にどう向き合うか、どう向き合わないかが最大の私の関心事です。


長いうえに拙い文章を最後まで読んでいただいた方ありがとうございました。





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