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近況+イカロスの翼の考察

前回投稿から大分間が空いてしまいました。

理由はいろいろあって、書きたいことはたくさんあるのだけど、それを書くためにいろいろ本を読んで勉強したいなあと思って居たら、考えが進むたびに考えたい事、そのために知っておきたい事読んでおきたい本が山のように増えてしまって全然筆が進まなかったという理由が1つ。


もう1つは単純に学校の課題が多くて、課題優先でやろうとしていたら課題もやらず、noteも書かずというなんにもやってないじゃん状態に陥ってしまっていたという理由。


でも最近頭の中がまとまってきたり、文字を書いて考えをさらに整理してみたいという考えが優勢になってきたのでぼちぼち投稿するという次第です。


今後は日記みたいに文字数少な目で軽い雑談も交えた投稿を増やして投稿頻度を保っていきたい感もあります。いままでが書くの大変なことばっか書いていたからnote書くハードルが上がりすぎてなかなか書くきにならないという心理的理由もありまして。それを打破して文字を書くのを習慣にしていきたいのでこのように考えました。


近況報告を自己の頭の整理を兼ねてしておきます。

最近はこんなことを考えたり勉強したりしています。

読書は専らニーチェとフロイトを読んでいて、昨日『ニーチェ入門』(清水真木、ちくま学芸文庫)を読み終わって内容がすごくわかりやすくて面白かったです。書評もしたいかも。フロイトは『フロイト思想のキーワード』(小此木啓吾、講談社現代新書)を読んでいます。フロイトの人生と思想についてキーワードごとにまとめてあって本人たちの著作を読んでいく際の大きな基礎づけになりそうで楽しく読んでいます。


いまはこのように解説本ばっかりを読んでわかりやすい解説を享受していますがそろそろ原典に再戦を挑もうと考えています。というのもいまこの解説書を読んでいるのは、もともとニーチェの『善悪の彼岸』を読んでいたのですが、あまりにも原典が何を言いたいのか見通しがつかなくて仕方がないから解説書を読むかぁという経緯があってのことでした。なのでこれからはそれらで得た見通しを参考にしつつ、自分でも再度読んで考えたいと思うようになりました。

いまはnoteの下書きを何個か書いている途中でそのうち納得がいく内容が完成したら投稿します。神様に対する人間の無力さ、有限性とその自覚と受容、なにかに対してつらいと思う人間の心理とかを最近は考えています。

私は何の上に立っているのか、何をよりどころにしているのか。
その自分の土台は何の上に立っているのか。はたまたその土台は宙に浮いているのか。


追記、今日のバイト中に考えたことを少々書き残しておきます。

でも真剣に書きすぎるとまた投稿頻度が落ちてしまうので概観程度に抑えるように努力します。



今日考えていたことは、人間はみんなイカロスなのであるということ。


イカロスの翼という話をご存知でしょうか。

イカロス、イカロスの翼とはギリシャ神話に登場するイカロスという名の少年にまつわる話です。

コトバンクからストーリー拝借をば

迷宮に閉じ込められた人間、イカロスは父が作った人工の翼を付けて飛び立ち、迷宮を脱出します。ところが、夢中になって舞い上がっているうちに、あまり高く飛んではいけないという父の戒めを忘れてしまいました。その結果、太陽の熱によって糊が解けて翼が壊れてしまい、そのまま海に墜落して死んでしまったということです。

故事成語を知る辞典

この話は主に現代では人間の傲慢さや、テクノロジーの過剰な発展を非難する話として有名となっているらしいです。

この話の図式をさらに説明すると以下のようになります。


人は本来空を飛ぶことはできないが人の技術によってそれが可能になり、そらを飛べるようになった。その結果太陽(太陽神ヘリオス)に向かって飛翔し、いままでよりも太陽に接近することが可能になる。しかしながらせっかく作り出した翼は完ぺきではなかったから太陽の熱によって溶けてしまいついには太陽に到達することはできず海に落ちて溺死してしまうという話です。


この話からどんなことが読み取れるでしょうか。

私は次のように解釈しました。

まず大前提として神は無限なる存在、無規定な者であり、すべての望みを望むというそのことによって現実にしている存在である。それに対して人間はとことんまで有限で規定された存在であるということ。何かがしたい、欲しいと望むだけでは実現されず、実現するためには何らかの手段を用意し、実行しないといけないし、その望みは完全には達成されず、蓋然的な達成すら永久に保ち続けることもできない存在です。

それを前提として考えます。そしてイカロス君は人間であり、のちの行動からわかるように彼は太陽に対して強いあこがれ、羨望を抱いています。それは彼が翼を手に入れた後、父の言いつけの通り低すぎず高すぎないところを飛んでいればいいものを高いところを敢えて飛ぶ行為によって明らかにされます。父の言いつけに対して逆張りをして高いところを飛んでいるとも解釈できないこともなさそうですが、彼が目指したのはただ高いところというわけではなく、太陽、太陽神であるヘリオスを目指して飛んだのです。

この点からイカロス君をはじめとする人間は太陽を、神の領域へと近づくことを求める性質があると拡大して解釈してみます。この太陽とは神のモチーフであることと関連して、明るいもの、照らすもの、光そのものというイメージをわれわれに与えます。このイメージからさらに空間的物理的に神の領域に近づきたいという以外にも、私たちはできることなら、分からない、暗い、曖昧な認識よりもはっきりとした、明確で確固とした認識を得たいとも思っていると考えを進めることができます。

そしてその手段として採用されたのが理性によって世界を明るく照らし出す作業である哲学です。哲学は私たちが普段生活していく上で生命の維持には直接的には不必要なものです。なのに私たちがなぜ哲学をしたがるか、ものを考えることによって明瞭な認識を得たいと思うかということの答えがここに表れていると考えます。私たち人間は有限で規定された存在、すなわち暗くて曖昧で不気味である、予知ができない、不明確な存在であることよりも、明るくて明確で行き届いていて確固として変わらない存在であることを求めます。その精神こそが私たちが神へと近づきたいと思う精神そのもの、私たちを哲学へと駆り立てている動機なのではないでしょうか。

そして翼が太陽の光によって溶かされたように(まさに近づきたかった当のものである太陽によって!!太陽は不完全なものを寄せ付けないのです。)、人間の理性を用いた神への接近も道を半ばにして挫折します。人間の技術は不完全だからです。常にどこか暗いところがあり、弱点があり、規定されているという点で不自由であるのです。そのような不自由さを備えた人間の認識、哲学という技術では太陽に、神に到達することが絶対にできません。そして哲学を、認識の技術をもってすれば神に到達できると考えることそのものが人間の傲慢さであり、その傲慢さのために、神に到達できないという事実に愕然とし、翼が溶けてしまったイカロスのように深い海の底に沈んでしまうのです。

これが僕から見えたイカロスの翼です。

 われわれは神に到達できないという事実を知り、それをどのように受け止めるべきでしょうか。それでもなお、自身の神性である合理的精神を信じて太陽を、真なる認識を目指し、本来目指していた太陽とは正反対の深い暗闇に、冷たい海の底に落ちていく事を選びますか。私たちがするべきは完全性の獲得のための無謀な挑戦ではなく、自身の有限性を自覚し、受け入れることなのではないでしょうか。至高の領域を目指して深い海に沈む代わりに海辺で水遊びをしてる方が健全な生を送れるでしょう。神にはなれない私たち自身を、有限で、ときに誤る私たち自身をどのように受け入れるか。それこそが私たちが生きていくために必要不可欠な課題なのだ、と今の自分は強くそう考えています。



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