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無気力から考える、人間の求めるもの。人間の息苦しさの原因。

こんばんは、ゆうゆうです。

今回は無気力から話を始めていきます。
あなたはなったことがありますか、「無気力」状態。
自分はというと、人生の半分くらいずっと悩まされてきて自分の中で最大の問題の1つといっても過言ではないくらい大きな問題です。

簡単に自分なりに「無気力」状態がどのようなことか説明するとこんな感じになります。無気力状態とは、ある時急に世の中のすべての価値が無に帰す心理的状態のことです。無気力になって放り出してしまった例としては、大学の必修の授業の期末試験(1敗)高校生、浪人生の時の模試(2,3敗)普通の学校の授業(n敗)等々。これは自分の場合は朝起きた時に「あ、今日ダメな日だ」となることが多いです。でもこうやって投げ出したことを見てみると、本来自分のためにしていることを投げ出しがちなのかな、と思いました。学校の授業もテストも受けるのは第一には自分のため、だけど自分のことがどうでもよくなってしまうと、もうどうにでもなってしまえと現実のやらなければならないことを放棄してしまう。でもどんなにつらくてもバイトを飛んだことはないのはわれながら偉いと思います。自分より他人に迷惑掛かると考えているからなのかな。突発的な無気力は嫌なことが終わったり、お昼過ぎくらいになったら自然と直っているのがほとんどです。

突発的な無気力もあるし、継続的な無気力もあります。毎日生活している中でじわじわ気持ちがいっぱいいっぱいになってきて、なんかちょっとしたきっかけで、「あー、もう全部やーめた」って吹っ切れる場合です。
この無気力はなかなかしぶとくて、(小、中、高、大)学校もいけないし生命維持に必要最低限の食事、トイレ以外の時間はずっとベッドで寝っ転がるのを3日からひどいと10日くらい継続しないと直りません。でもこういう無気力に入る前ってたいていやる気が満ち溢れてて何でもできるし何時間でも集中力が続くし起きている時間すべてをやるべき事、やりたい事に費やしているんです。そのマリオでいうスーパースター状態ってめっちゃ楽しいんですよね。この状態こそ本当の自分である、と思いたくなってしまうほど。というかスーパースター状態にある自分はそう思っています。でもそのスーパーマリオが続くのもせいぜい1か月くらい。だから小中高では1、2か月おきに3日~5日休む謎の人間になってました。大学ではちょっとはましになったかな。午前はだめでも午後からはなんとか学校行ける日が増えたかも。でもそれは学校のシステム的な問題だよね。大学では単位制だから1,2限いけなくても4限行けば少なくとも4限は授業出たことになるし。

そんな感じで日常生活に支障きたしまくっている無気力ですが、なんで無気力になるのかな~ってそのたびに考えていたらなんとなくいろんなことがわかってきた気がします。先にもちらっと書いたのですが無気力になる直前って頭の中に情報をぶち込みまくっているのです。たとえば空いている時間にYouTubeずっと流していたり、移動時間は音楽を聴き続けていたり。

だから最近は自分の中の容量がオーバーヒートしないように音楽をあえて聴かない時間を作ったり、やりたいことがあってもあえてぼーっとしたりして、頭の中が情報で溢れ返らないように調整することを心掛けて生活しているのでなんか前よりも調子がいいかもです。

ここで無気力の原因から出発して人間の求めるものは何か、という問題について考えたいと思います。

それは、「人間とはそれぞれ自分に合った割合でインプットとアウトプットを求める生き物なのではないか。」ということです。

どういうことか。まずアウトプットとインプットの説明から始めます。

アウトプットは自己表現とも言いその定義は、自分の思っていること、考えていること、つまり自分の中から沸き起こる一切を、何らかの目に見えるものだったり、聞くことのできる言葉だったりにして自己の内面を対象化し自分、あるいは他者が認識できるようにすること。です。
対してインプットとは感覚器官を通じた自己への情報の入力であるとします。

そして人間とはある意味で飽和への傾向をもっていると考えています。ここが無気力の原因についての思考から導き出された部分です。

飽和への傾向というのは形而下の状態としての体(胃)と食べ物の関係と形而上の状態としての心と外界の情報という対比が可能であると考えています。

食べ物でいうと、まず空腹状態のときを仮定してそのとき人はおなかを満たすために食べ物を求め、食べ始めます。しかし、お腹の満腹感的にもうこれ以上食べなくてもしばらくは大丈夫そうな量を超えてもまだ食べ物を求めてしまう。そして結局お腹に入りきる限界まで食べ物を詰め込んでしまう。そうするとどうなるか。苦しいですよね。当然。そしてきっとこうも思うはずです。食べ物なんてもういらない、飽きた、もう体も重いしやる気も出ないし、動きたくない、と。この時、食べ物の価値はゼロに等しいと思います。
これが心でも同じことが起きるのです。まず心が外界に対して何か求めている状態を仮定します。いわゆる暇ってやつです。この時心は自分の中身を埋めることのできる情報を求めています。だから暇は心の空腹であるということもできるはずです。そしてある情報にありつきます。例は何でもよいですが、ここではYouTubeにしておきましょうか。YouTubeの動画は食べ物でいうところのバイキングといったところでしょうか。いろいろなYouTubeの動画を見漁って次第に心の中身が潤ってきます。次から次へと流れてくるおすすめ動画を見ているうちに心のお腹が膨れてきたことに気が付きます。しかし、YouTubeを見続けたいという欲望はここで収まることを知らず、さらにいろんな動画を見続けます。そして気が付いた頃には時すでに遅し。脳みそが情報でいっぱいになってなんにも新しい情報を求めなくなる。つまり意識の外側への関心(自己の内面への関心を含む)を失ってしまうのです。このときその人はきっとこう思うでしょう。もう情報なんていらない、飽きた、もう心も重いしやる気も出ないし、動きたくない、と。この時に意識の外側の情報、つまり世の中のあらゆるものの価値がゼロになるのです。

ここでは体(胃)と心のインプットについて対比してみました。でも食べ物って食べたらそこで終わりではないですよね。消化しますよね。消化酵素を使って消化して体に必要な栄養素を取り出して、蓄え、体を動かすエネルギーとして活用し、いらないものは排泄する。その消化の能力はその人の消化器官の性能にもよりますし、何を食べたか、さらにはどれくらい食べたかにもよることを頭の片隅に置いておいてください。そして次に、食べ物にとっての消化は心ではどのようにして行われるでしょうか。
心の中に入ってきた情報の処理が問題になります。それを担当する器官は脳みそです。では消化酵素は何でしょうか。自分はこれは意識であると考えています。意識といってもさまざまな階層があり、表層意識が主に担当する場合もあれば深層意識(すなわち無意識)が担当する場合もあります。これはどちらか片方のみが担当しているわけではなくて、無意識による情報の消化は通奏低音のように常に進行しており、いわゆる考え事をしているときが表層意識もお手伝いしているとき、表層意識がお休みしているのは睡眠中ということになります。ちなみに食べ物の時に消化を左右する要因が3つありました。頭の片隅からとってきてくださいね。出番ですよ。それは消化器官の性能と何を食べたか、さらにどれくらい食べたか、でした。これを心における情報に置き換えると、脳の情報処理能力と見聞きした情報の質と量であるといえます。私たちは日々の生活の中で様々な情報を頭の中に吸収してそれを常に消化し続けています。そしてそれらの情報はその人の個人の消化能力とある対象からどれだけの情報量と質をその人が引き出したかによって消化の仕方や速度が変わります。私たちの体でも同じ食べ物を食べて胃の中に入れたとき、そこからどの程度(量)栄養を取り出すことが出来るか(擬人的に言えばどれだけその食べ物に取り込むべき栄養を見出し、実際取り込むか)、またどの種類(質)の栄養を見出すか(だが食べ物の場合は人間大体一緒だと思われる)は人によって異なるように、心の問題でも、ある対象を見たり聞いたりして感覚で受容したときに、どの程度その対象から取り出すべき情報を見出すか、どの種類の情報を取り出すかは人によって異なると思うのです。だからたとえば自分がある人と隣で同じ映画を見たとして、そこから何を思うかは当然異なるし、その内容をどの程度の情報量であると捉えるかも人によって異なるのです。すなわち、その映画をみてすぐに忘れてしまう人もいれば、何年間もずっと頭の中に残り続ける(記憶としても、処理すべき情報としても)人もいる。そして脳の情報処理性能に関してはよく頭の回転がどうのこうのといわれるような認識でオッケーかと思います。これも当然個人差があるし、1人の人間でもその時のパフォーマンスによって性能にばらつきがありますね。そのような消化のプロセスを経て取り込まれた情報は記憶として貯蔵されたり心を活発にするためのエネルギーとして利用されたり、(無)意識に不要と判断された情報は忘却され心の片隅奥深くに追いやられたりするわけです。

そしてためられた栄養は使われないとどんどんたまっていって肥満になってしまうのでエネルギーを発散しなければなりません。ここでも体と心の対比が成立するように思われます。体にためたエネルギーは使わないとどんどん蓄積されていき、ついには自分の機敏さを奪うほどにその体積を拡大させていきます。愚鈍になります。心も同じで、自分なりに消化しため込んだ情報は発散される必要があります。発散されないとどんどんたまっていき心の中でその形而上的体積を増していき、ついに心が息が出来なくなってしまいます。窒息しちゃいます。心はその性質上目に見えないのでその内側にため込んだエネルギーも周りの人からは見えない。だからぽっちゃり系の人にダイエットしなよというみたいには良くも悪くもならないのです。しかし、心の中には依然としてエネルギーは存在しているのでそれは適切に発散される必要があるわけです。その発散こそがアウトプットなわけです。やっと登場しました。アウトプット。

アウトプットとはなんだったかもう一度書きますね。

アウトプットとは自己表現とも言いその定義は、自分の思っていること、考えていること、つまり自分の中から沸き起こる一切を、何らかの目に見えるものだったり、聞くことのできる言葉だったりにして自己の内面を対象化し自分、あるいは他者が認識できるようにすること、またその行為。です。

ちなみにアウトプットは言語化や芸術化だけでなく、あらゆる行動をも含みます。自分の中のものを自分の外の世界に対して発現するすべてのことがアウトプットなのです。たとえば筋トレとか、スポーツとか、突然変なダンスを踊りだしたりとか涙を流すとかも全部です。

このアウトプットが現代人足りなさ過ぎて息苦しくなってはいませんかという問題提起が今回の主題です。

僕の場合はこのようにブログを書いたり、筋トレしたり、お散歩したりTwitterで迷惑極まりない長文ツイをしまくったりしてかろうじて発散しています。この発散には必ずしも相手は必要ないのですが、聞いてくれる相手、見てくれる相手がいることは別の要因から心の癒しになりえます。人は1人では生きられないとするのもこのためです。人は誰かに受け止めてもらいたい。なんかしらの存在価値からではなく、私が私であるというそれだけの理由で。それを満たしてくれるのは聞いてくれる相手の存在です。この話はまたどこかで詳しく話したいですね。

こうしてある程度詳細に食べ物の消化と情報の消化について対比してみました。まだまだ語りたいことは山ほどあるのですが、文章量も多いし、きりもいいのでいったんここまでにしたいと思います。個人的にこれを今までずっと誰かに聞いてもらいたかったんですよね。今日ここでいえてすっきりしました。


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