安部公房の『壁』を読んでみた。

みなさんこんにちは、りょうです。読みました、安部公房の『壁』。

今回は、『壁』の考察を

・あらすじ
・名前の喪失=関係の喪失
・現代人の抱える孤独 ── 壁が表すものとは?

の3つにしぼってしていきたいと思います。

あくまでわたし個人による解釈ですので、その点ご容赦ください。では早速見ていきましょう。

あらすじ

 主人公のぼくは、朝起きると胸に異様な空虚感を感じ、名前を喪失してしまったことに気づく。いつもどおり仕事へ行くと、自席に座っていたのは、なんと自分の「名刺」だった。そんな名刺と一緒に、タイピストのY子(同僚かつ恋人?)はいつも通り仕事をしている。
 胸の違和感をぬぐえないぼくは、病院へ診察に行く。そこでカルテを作成すると看護師が言うのだが、自分の名前を答えることが出来ない。そして、待合室で雑誌を眺めていると、あるページの曠野の写真に既視感を覚え、ひどい胸の陰圧から、その風景を胸のなかに吸い取ってしまう。
 ぼくは病院から追い出され、「同じく名前を持たない動物たちを見て安心したい」という理由から動物園へ行った。動物園では砂漠に住む動物たちが、ぼくに関心を示してくれた。そのうちのラクダを、ぼくは胸の内に吸い込んでしまう。
 雑誌、そしてラクダを胸の内に吸い込んでしまった(=窃盗)ぼくは、突然大男2人に取り押さえられ、どこかよく知らない場所へ連行され、裁判にかけられることに。裁判には、自分のよく知っている人たちが証言者として参加していた。名前を持たない以上は、他のどの犯罪にも関与しているのだという暴論、そして数学者の設定する公理「彼が存在する空間に、裁判も同じ時間にその空間に存在する」が適用され、彼は永久に裁判にかけられることになってしまった。そこに証人として登場したY子のおかげで、ぼくはそこから脱出する。
 気づくとまた動物園に戻ってきていた。Y子と別れ家に帰ると、家のモノたちが、ぼくに対する革命を企てる。ぼくはただ、物たちが革命家を歌ったりしているのを眺めているのだが、翌日本当にそれらは自分の思い通りにならなくなってしまい、Y子とのデートの約束時間に動物園にいけなくなってしまった。帰りに遭遇したマネキンに、「世界の果と映画の夕べ」という名の講演チケットをもらい、半身がマネキンになったY子に案内されて、その講演と映画の席にいく。
 その後、ドクトルとユルバン教授による「成長する壁調査団」がぼくの調査に訪れ、ユルバン教授がラクダにのって僕の目の中に入り込んで壁を調査しようとし、涙の洪水に押し流され鼻汁とともに排出される。
 そして、ぼくは身体の内側に壁がどんどん成長してきていることを感じ、身体がこわばっていく。ぼくはとうとう、成長しつづける壁になってしまった。

…とても、理性では理解できないような内容ですよね。というのも安部公房は、「シュールレアリスム」という、理性に制御されない純粋な真の思考の動きを表現しようとしたといいます。Wikipediaなどで、ざっくりと調べてみるといいです(私自身、けっこう頼りました)。

 考えてみれば、「名前を失った現代人はどうなるのか?」という設定も、一種の思考実験で、そこには名前を失った原因なども想定していないわけです。因果による説明ではなく、純粋な思考の動きを抽出しようとした、と考えるべきでしょう。現実に起こりうるか?ではなく、「もしそうなったら、私たちはどうなるのか?」という、理性的な設定ではないので無理もありません。さて、では安部公房が「壁」という題に込めたのは、どういった意味なのでしょうか。

名前の喪失=関係の喪失

 名前を喪失した人間はどのような運命をたどるのか?を描くことで、現代人の孤独を描いたとされる本作品。いったい、現代人はどのような孤独を抱えているのでしょうか?キーワードは、「関係」と「涙」です。

 まずシミュレーション的に、実際にわたしたちが「名前を失った」現実を想定してみましょう。

 すると、途端にわたしたちを取り巻く関係が瓦解していくことに気づきます。会社に行っても、自席は物理的に存在するかもしれないけれど、そこに座るべきなのは本当に自分かどうか確信が持てない。同僚も自分のことを物体としては認識するかもしれないけれど、「存在」としては認識されないような気がしてくる。「他でもないあなた」という感覚はなくなってしまう。
 病院にいっても診察券がないし、健康保険証もない(というか、券自体は存在するのだろうけど、名前の部分が消えている)ため、診察をうけることが出来ない。つねに、券に記載してある名前と目の前の人間が、同一人物を指していなくては、診察してもらえない。

 家に帰っても、両親や兄弟などの関係性が曖昧でよく分からなくなってくる。自分の所有物に対する「支配―被支配」の関係もあやふやになってくる。これは誰のもの…?に答えることが出来ないのだから。

 では、恋人に対してはどうか?自分が誰だか分からないのだから、目の前の恋人も、誰の恋人なのか答えることは出来ない。たとえ、この人は私の恋人だという確信があったとしても。

…このように考えると、(少なくとも)現代に生きる我々は、記号としての名前に諸々の社会的な関係が紐づいていることを発見します。すると、わたしという存在は、その名前に紐づいていて、名前がある限りにおいて存在権が保証される。だから、名前に紐づく人権というのも存在しないし、法律の保護も受けることが出来ない。

現代人の抱える孤独 ── 壁が表すものとは?

 名前の喪失は社会的な関係の崩壊につながるのではないか、ということはすでに述べました。そこで、この考えをさらに展開してみます。

 わたしたちが他人と関係を結ぶとき、それはすべて名前に紐づいているといえます。ぼくが「ぼく」であると認識できる限りにおいて、パパは「ぼくのパパ」だと分かるし、Y子が「ぼくの恋人」だということも分かります。同時に、他者との関わりにおいて、ぼくは「ぼく」の形を与えられるとも言えます。自分と他人との境界線は非常にあいまいなのですね。

 ではこの、パパやY子と関係を結んでいる「ぼく」の正体とは?ここで、作中の「名刺」に込められた意味が明らかになってきます。名刺は、社会におけるぼくの証明。「社会的なぼく」「公的なぼく」と言い換えることもできます。この名刺と、名前を失ったぼくはまったく別の存在ではなく、同じ人物であるといえます。

「もし個人的に君に関心をもっている俗物どもに見られたりしたら、ぼくらの関係が見破られてしまうだろう。…ありていに言って、ぼくは君のような人間と関係しているということが恥ずかしくてならないんだ。」

『壁』p.22

 つまり、ぼくと関係を結んでいるパパやY子は、社会における名刺的なぼくとしての「ぼく」であり、ぼくが「ぼく」と認識している「ぼく」の正体ではないのです。すなわち、社会におけるあらゆる関係は、本当のぼくとは別のところで結ばれていて、ぼくの存在は、社会的に認識されている「ぼく」の姿を損なってはなりません。その限りにおいて、本当の「ぼく」は、社会的な「ぼく」に規定され、縛られることになります。そして悲しいことに、社会と関係を結んでいる、すなわち社会にとっての本当の「ぼく」は、社会的に規定される名刺的な「ぼく」なのです。

 本当のぼくはどれなのか。名前を失ってもなお、ぼくを「ぼく」と認識してくれる存在が欲しい。だから、名前を失ってもなお、ぼくを「カルマさん」と認識してくれたY子の発言に何かを感じたのだと思います。

『では第五の証人。』『はい。』という声がしました。『誰か?』『タイピストのY子です。』『何を証言するのだ?』『あのかたはカルマさんです。』Y子がせきこんで答え、ざわめきがおこりました。しかし、誰よりも激しい動揺を感じたのはぼくだったでしょう。いよいよ問題が核心に近づいたと、ぼくは直感的に感じました。」

『壁』p.53

 社会に認識される社会的な「ぼく」と、ぼくが認識している自己認識としての「ぼく」との間のギャップ。社会にとっての本当のぼくは前者で、わたしにとっての本当のぼくは後者という、皮肉で悲しい構図は、わたしたちに疎外感を植えつけている感じがしてなりません。社会的なぼくに、本当のぼくが疎外される。しかし、その疎外がないと、わたしたちは社会で人と関係を結ぶことができず、したがって存在することさえできない。…なんという悲劇的なことでしょう。

 これが現代特有という点を、最後に考えてみます。現代は、過去の時代と比べて個人主義的になってきています。つまり、自分の帰属する場所をもたない、つねに漂流している存在だと言えます。つねに漂流しているとすると、他者との関係も希薄化してきます。昔と比べて、ある人と人間関係を結ぶかどうかを選択できるようになってきていますよね。

 他者との関係の希薄化は、同時に、自分という存在の希薄化をも意味します。「ぼく」という存在は、他者との関係において形を与えられ、存在することができるからです。つまり、他者との関係が希薄化してきている現代においては、わたしという存在もどんどん希薄化してきているのです。

 現代人は、この意味で根源的な「孤独」を抱えているのではないでしょうか。本当の「ぼく」であり続けたい、ありのままのわたしを失いたくない。そう思う一方で、自分とは異なる「他者」との関係がなければ、わたしは「わたし」であることができない。他者と関係を結ぶということは、その関係に今度は規定され、縛られるようになる気がするけれども、そうしなければわたしたちは本質的に存在することが出来ない。個人主義の現代においては、その勢いには拍車がかかっているように感じます。縛られることを厭っていたのでは、じつは我々は存在することができないのです。

「他者との関係の希薄化=自己の存在の希薄化=…?」

 その先には、我々の存在自体の消失があります。「名前」というのは、社会に認識される「わたし」のモチーフであり、その名前を喪失するとは、すなわち他者との関係の希薄化を意味します。そして、他者との関係が希薄化するとき、わたしたちは自分の形をも見失います。他者との関係のなかで、わたしたちは「わたし」としての形を与えられるからです。それはすなわち、わたしという存在の消失、ではないでしょうか…?

 だから、わたしが存在するのは、実は「関係」の中においてのみなのです。「壁」とはまさに、わたしと他者を隔てる境界線であり、関係そのもの。本編の最後でぼくが壁になってしまうというのは、ぼくが関係そのものになったことの象徴なのです。

おわりに

 現代における他者との関係の希薄化とは、作中で描かれる「名前の喪失」と同じことだと言えないでしょうか?ということは、現代における他者との関係の希薄化とは、すなわち名前の喪失と同じこと...。

 ファンタジーっぽくて理性では理解できないから、超他人事で眺めていた作中の物語が、じつは私たちがいま置かれている状況なのかもしれない…。そこまで思い至って、めちゃくちゃ背筋ゾクゾクしました(よくもわるくも)。

「わたし」って、他者との関係そのものの中にしか存在しないのですね。本作でいう「壁」とは、この「関係」そのもののモチーフなのではないでしょうか。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?