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ごめんね


後悔をしている。



過去

中学3年の時、父方の祖父母が立て続けに亡くなった。私は彼らに、何もしてあげられなかった。

祖母は、その年の春から肺癌で入院していた。
3月にあった、吹奏楽部の定期演奏会。その後に、「来年も絶対見にきてね」と、祖母と約束をした。
約束は果たされることなく、3ヶ月後に祖母は逝ってしまった。


火葬が終わり、遺骨を祖父母の自宅に連れて帰って、みんなで食事をした。
寡黙な祖父が、その時はやけに明るく、よく喋り、笑っていたことをハッキリと覚えている。


それから、転がり落ちるように祖父は弱っていった。

彼は、毎日食べていた祖母の手料理ではなく、歩いて5分ほどのコンビニの弁当を買って食べるようになった。
しかし、すぐに歩くことが難しくなった。
無理をしてコンビニへ向かって転倒し、動けないでいるところを、通りすがりの方に助けてもらったこともあったようだ。

本格的に夏が始まると、部屋の電気も点けず、カーテンも閉め切り、室内の暑さに関わらず、祖父は「寒い」と言って、一日中羽毛布団の中で過ごすようになった。


私は、そんな状態の祖父に、一度だけ会いに行ったことがある。
久しぶりに、祖父を誘って回転寿司に行こうという話になったのだ。

当時の私は、その時の祖父の状態をほとんど知らなかった。
お寿司を食べて、明るい気持ちになってくれたら良いな、なんて、呆れるほど呑気なことを考えていた。
祖父を誘う役目を、私が請け負った。


インターホンを押しても、なかなか開かない扉。両親から渡されていた鍵を使って玄関を開けると、ずりずりとお尻を引きずって、体育座りのような姿勢のままこちらへ来る祖父を見た。

努めて明るい声で、お寿司を食べにいかないかと聞いた。
祖父は、急に言われても困ると言った。
そうだよね、急に訪ねてこんな話しちゃってごめんね。
そう言って、私は扉を閉めた。

しばらく扉の前に立ち、中の様子を伺う。
祖父がちゃんと自宅の鍵を閉めるところを確認したかったからだ。
長い長い静寂の後、カチャリという音を聞いて、私は家へと帰った。


まもなく、祖父は入院することとなった。
自宅のトイレで動けなくなっているところを、様子を見にきた母に見つかり、救急車で運ばれた。
祖父は、祖母と暮らした痕の残るその家に、二度と帰ることはなかった。


祖父が入院してから、両親は何度も面会に行っていた。
私も祖父に会いたいと思っていたが、なぜか私たち兄妹に、祖父との面会の話が持ちかけられることはなかった。
なんとなくその理由を聞けず、祖父に会うことの叶わぬまま、9月の早朝に祖父は亡くなった。


あの時。最後に祖父と会った時。
帰り際に、彼の肩を支えて布団まで連れていき、預かっていた鍵を使って、私が玄関を施錠すれば良かったのだ。

病院の雰囲気が良くない(この場合の『良くない』は、宗教的意味合いを持つ) からと、祖父との面会をさせてもらえなかったことを、うつ病になってから知った。
そんなくだらないことより、一方通行の舟を待つばかりの祖父のそばにいてあげたかった。


覆水盆に返らず。
大きなしこりが、私の胸の中から消えることはない。



大阪訪問

準備

4月某日、私は母と2人、大阪へ行った。

行きたいと言い出したのは私だった。母方の祖母の暮らす施設のお便りから、彼女の寂しさを垣間見てしまったからだ。


祖母と最後に会ったのは、10年以上前になる。母方の祖父のお葬式以来だ。
その後、何度か電話でやり取りをしたけど、私が中学に入る頃にはそれも無くなった。


もう、誰かの死を前に、後悔をしたくないと思った。
家族と離れ、施設で何年も過ごす祖母に、何かしてあげたいと思った。彼女が生きているうちに。私が生きているうちに。


両親に頼み込み、半ば無理やりではあるが、私たちの大阪訪問が決まった。

もちろん、私の希死念慮への懸念はあった。
泊めてくれる叔父の家の玄関に、我が家のように内側から鍵をかけることも、包丁を隠してもらうことも、叔父に私がうつ病を患っていると伝えることもできない。

自分の意思で死なない選択をしなければいけなかった。
しかし、私は5月にある両親の鳥取旅行までは生きると決めていた。

加えて、京都に住む本当に親切な仲間が、大阪市内まで来て、そこで一晩過ごすと申し出てくれた。
包丁を握ってしまったとき、叔父の家から出てしまったとき、母に助けを求めることができなかったとき。私に連絡をして。すぐに車でしろくまちゃんに会いにいくから。それまでは生きていてね。
そう言ってくれる人がいた。
その人は、その言葉通りに、一晩の私の命の防波堤になってくれた。本当にありがたいことだった。


精神科の主治医とも相談し、叔父の家で一泊して、次の日に祖母と面会し、そのまま新幹線で帰ることとなった。
二日目に面会の予定を入れれば、一日目の晩に死ねないでしょう、とのことだった。

せっかく大阪に行くのだからと、一日目に楽しめる予定をたくさん組んだ。「死にたい」と考える時間が少しでも減るように、という考えもあった。


一日目

大阪訪問、一日目。
前の晩は興奮して眠れず徹夜。朝から満員電車に揺られ、午後は何時間も歩きっぱなし。
夜ごはんは叔父さんと、地元のお好み焼き屋へ行き、近所の銭湯でお湯に浸かった。

一言で表すと、疲労困憊。
もう一歩も歩けない。
そんな状態もあり、その日はバターンと寝てしまった。希死念慮が襲ってくるより先に、疲れと眠気がきた。
そのまま次の日の昼まで、ぐっすりだった。

私たちの一番の不安が呆気なく取り除かれたことは、僥倖と言う他ない。


二日目


そして、二日目。
祖母のいる施設に、面会のために出向いた。

壁に隙間無く貼られた透明なビニール越しの祖母は、車椅子に座り、ショボショボとした目で、こちらを見ていた。




たった30分の面会。伝えたいことはたくさんあった。

おばあちゃん、なかなか来られなくてごめんね。でも、今日おばあちゃんに会えてすごく嬉しいよ。
これ見て!家族でお花見をした時の写真だよ。
数日前には、兄が帰省して、お寿司に連れて行ってくれたんだ。これはその時の兄と私の写真。あとで渡すから、またじっくり見てね。
おばあちゃんが今着ている黄緑のカーディガン、かわいいね。
昨日の夜、叔父さんとお好み焼きを食べたんだよ。お腹いっぱいになった!おいしかったよ。
おばあちゃんは、最近あんまり食べられてないって聞いたよ。ちょっと心配だな。
えっ、もう時間ですか?早いなあ。


規定の面会時間が終わったあと、施設の方の気遣いにより、直接祖母と会話をすることができた。
実は、ビニール越しだと、祖母の声があまり聞き取れなかったのだ。

持参した写真を手渡す。
会えて嬉しかったよ。祖母の手を取って伝える。


そして思わず、「また秋に来るからね!」と、言ってしまった。


すると祖母は、パッと顔を上げ、ハッキリと「 秋?」と言ったあと、「それまで生きてるか分からん…」と、顔をしわくちゃにして呟いた。
大丈夫だよ、生きてるよ、と母が助け舟を出してくれる。

次に会うまで元気でいてね。また手紙出すからね。
そう言って、祖母に玄関まで見送られ、施設を後にした。


なんてことを言ってしまったのだろう、と歩きながら考える。
秋にまた来るだなんて。6月に死のうと決めているのに。

しかし、私たちの話を聞きながら、時折りモニョモニョと口を動かし、なにか言葉を発して、静かに涙を流した祖母を見たら、何もせずにはいられなかった。
何を言っているのか聞き取れなかったけれど、家に帰りたい、家族と過ごしたいという祖母の気持ちが、寂しさが、悲しさが、ありありと伝わってきたから。

残された時間が少ないことを、祖母自身が、一番よくわかっていた。


私はまず、お金が無いことを悔やんだ。
お金があれば、祖母を施設で1人にせずに済むかもしれない。

次に、介護問題は、お金だけで解決できるような簡単なものではないことを理解していたので、成す術の無い状況に、やるせないなと強く思った。


祖母にこれ以上寂しい思いをしてほしくない。彼女のことを想うのなら、生きて再会することが一番だろう。
できるなら私だってそうしたい。
しかし、私は死にたい。秋まで生きていられない。生きていたくない。なんなら、今すぐにでも死にたい。

私はなんて不誠実なやつなんだろう。
果たせるかも分からない約束をして、期待をさせて。



そうして、いくつかの成功と、大きな自己嫌悪をスーツケースに詰めて、私は自宅へと帰ってきた。


大阪へ行き、祖母に会ったことに後悔はない。
私は、自分で自分の首を絞めた。いや、自分の首を絞める手を緩めた。

覆水盆に返らず。
私と祖母の約束が果たされるかどうかは、未だ分からないままだ。

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