白 曰く (3)

2007.


想像力を自由に羽ばたかせる力は、ダレもが持っているんだ。
時に、ものごとにサインを見出したり、出来事が起きたりする。
それらは個別の件に見えても、結局はすべて繋がっている。
同じ曲の一部だからね。

その気になれば、何を見ても聞いても触れても、何かを感じる筈だよ。
シンボル、象徴はキミの行く手にこれでもかというくらい登場する筈なんだ。
それらをどう捉えて解釈し、体験して受け取ってゆくか。
キミらは一人ひとり受け持っているパートが違うんだからね。
ミンナが同じ体験をすることなんてありえないんだよ。

どう?
楽しくなってきた?
ボクはなにも特別な存在じゃない。
ボクらはどこにでも存在しているんだ。
キミらの中にも外にもね。
逆に言えば、ボクが存在していない場所はない。

ボクはキミらに確かめられるような存在でも崇められるような存在でもないんだ。
遠い存在でも、空の彼方にある神話の場所でもない。
たからいつでもキミを見守っているし、キミの心の声を聴いてもいる。

だからさ、わざわざキミらにとって有名な名を語って信じさせる必要なんてないだろ?
そういう意味では、キミらの『神』という概念はボクには当てはまらないね。
信仰の対象としてはつまらないだろう?
そこら中にありふれているもの。

ボクはキミの源であり、還る場所でしかない。
有り難がる必要なんてないんだよ。
キミはボクの一部なんだからね。

まことしやかに自分の一部や分身に対して説得する必要も信じてもらう必要もないさ。
キミだって自分の身体の細胞にいちいち自身の存在について説得を試みたり許しを強制したりしないだろ?

キミらはダレもが個別の経験を持ったひとつの存在なんだよ。
その、たったひとつの存在という概念を、ボクが管理している。

ボクときたら、ただ在るだけ。
宇宙の壁と時間に支配されない永遠の場所。
始まりも終わりもない壮大なエネルギーの交響曲が流れている。
安心して生きるといいよ。
どんな結果でも、それはまだ旋律の一部でしかないんだから。

ボクにはキミが電気的な信号で感じられる。
物質化し、なおかつ生命活動を行う肉体はより電気的だからね。
キミらの多くは、肉体を離れたら終わりだと思っているヒトが殆どだね。
肉体が活動を停止した後、それまでそこで活動していたエネルギーはどうなると思う?

キミの思考も感情も、全部データとして保存されている。
宇宙にだ。
地球というフォルダの中に流れる交響曲のワンフレーズだ。
地球がその生涯を終えたとしても、データは消えない。
そうやって在り続ける一方で、新たなエネルギー体となって次の形を持つかもしれない。

キミの人生が小さな社会の歯車の一部でしかないと悲しむのは自由だけどね。
キミの受け持つ旋律に代わりは居ない。

『ある』ものと『ない』もの。
このバランスがキミらの宇宙の音楽なんだ。
もっとも、『ある』とか『ない』とかは段階的な認識の問題でしかないけどね。

キミの旋律がどんな煌めきだったのか、やがてボクに還ってきた時に眺められるよ。
楽しみだろ?

またいつでも来るといいよ。
思いを巡らせ、想像の翼を信じれば、いつでもボクを感じられる筈だ。
そうでない時だって、キミらはボクから離れることはないんだけどね。

豊かな色を経験して、否定から抜け出して、たくさん、存分に感じておいで。
それがキミらのヒトという種の醍醐味だ。

ボクはいつでもここに在る。
不在という幻想のすぐ隣で、キミらを見つめている。
愛おしいボクの分身たち。






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