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イタリアの都市の魅力・生命力

「ゴンドラに乗った・・・」という絵葉書が,孫娘から届きました。
楽しそうだな・・・・。元気が出るね・・・

「ヴェネツィア」は、美しい風景と伝統を誇る街です。
 「フィレンツェ」はルネッサンスの基点となった。美術館のような街です。
「ローマ」は、豪華な街。豊富な遺跡は、知識があるほど楽しいでしょう。
「ミラノ」は、ドウオーモ(大聖堂)と「最後の晩餐」は必見です。
「ナポリ」は、雑然とした街中がいいですね。真っ蒼な海が魅力です。
「ポンペイ」は、ナポリの遠景が見えるヴェスヴィオス火山の麓です。

(1)ヴェネツィア共和国の10人委員会

ヴェネツィアは「アドリア界の女王」とよばれるほど美しい街ですが、
7世紀末から1789年まで1000年以上続いた「共和国」だったのです。
この国では「信教の自由」・「法の支配」が実現され、国王ではなく「10人委員会」という中枢機関が機能する海洋国家だったのです。

水没が恐ろしいヴェネツィアの風景  

共和国は「ペスト対策」で、1377年に「海上検疫」の法律をつくり、感染者を隔離しました。先進的で、強力な国家だったのです。

 <チョット寄り道> シェークスピアの『ベニスの商人』

これは、地中海貿易で活躍する商人たちを描いた戯曲です。
ヤマ場は、ユダヤ人金融業者シャーロックを「法で裁く」場面ですが、
これは1594~97年ごろの作品です。

ヴェネツィア共和国は「法による支配」をイギリスの「権利の請願」(1628)より、はるか以前に実現していたのです。
シェークスピアはイギリス人ですが、ヴェネツィアの国家組織に精通して戯曲を書いているのです。
将来、国際弁護士になろうとしている人は、こうした歴史的経過・知識が必要です。

(2)メジチ家とフィレンツェの魅力

古都フィレンツェの市名の由来は、ローマ時代につけられた「フロンティア(花の化身)」であるといわれます。
イタリア・ルネッサンス(再生・復活)は、この都市から始まり、経済・文化・芸術活動に大きな影響を与えました。

ここで、パトロンとして大きな実力を発揮したのが「メジチ家」でした。
コジモ・ピエロ・ロレンツオというメジチ家の指導者なくして、ルネサンスの華やかな文化は展開しなかったでしょう。

フィレンテェの風景

メジチ家は、金融業でしたから、豊富な資金力を背景にしてフィレンツェの政治・経済・文化に影響をしたばかりでなく、教皇レオ10世を輩出しました。
特に芸術活動の支援に熱心で、画家のボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロらを擁護しました。
ウフィツイ美術館やヴァザーリの回廊を歩くと、どんなに「大きな力」を及ぼしたかを実感します。 

<チョット寄り道> マキャヴェリの『君主論』
これは、1532年に刊行されたものですが、今日にも通じる「リーダーが学び、行動に生かすべきこと」を論じています。
「目的のためには手段を択ばない」(権謀術数)という言葉などで有名ですが、これはイタリア諸都市の争い・混乱を前にして、メジチ家が強いリーダーシップをとることを期待して献上されたものです。

過激な、強権による統治を論じた部分だけを切り取って解釈するのは危険です。歴史的背景を理解することが大切です。

(3)古代ローマの遺跡からイメージするもの

古代遺跡のフォロ・ロマーノを歩いて「ここで、帝政を目指していたカイサルが、共和派のブルータスらに暗殺された・・・」とか。
「元老院とは、こんなところだったのか・・・」などと、歴史の追体験をしてみましょう。
いろいろなイメージを広げることが楽しいです。

フォロ・ロマーノ

旅はきれいな面ばかりではありません。
ある時、私はのんびりと「コンスタンティヌスの凱旋門」の前を歩いていたら、ジプシー(ロマ人)の母・子に襲われました。怖かったです。

こうした体験も旅の貴重な一面です。私は、世界旅行を推奨していますが、世界中の都市・観光地が、「安全ではないこと」も知っていてください。
経験が人間を強くしますけれど・・・。その時はビックリ・恐怖です。

ちなみに、私は5回襲われました。古くは、ノートルダム寺院の中です。
モスクワの赤の広場・東欧ブカレストのトイレ・・・スキありで歩いているからです。(苦笑)
いい人も沢山いますけど・・・ひったくりも、置き引きも‥(苦笑)
 
<チョット寄り道> キリスト教の「公認」
紀元313年。これまで迫害して来たキリスト教を、コンスタンティヌス帝は「公認」しました。
325年。ニケーアで初めて「公会議」が開かれました。
392年。ローマ帝国の「国教」とされました。

「政治と宗教」が一体になったのです。この過程で「アタナシウス派」の「三位一体説」が正統派とされ、父と子のイエスは別だという「アリウス派」は異端とされ、ゲルマンの地域に追放されました。

最近話題になった『ダ・ヴィンチ・コード』という小説(ダン・ブラウン著)は、ゲルマン社会に追放されたアリウス派の「人間イエスキリストに子孫がいる」ということを仮定にして展開する物語です。
映画も小説もフィクションですが、面白いです。
ローマ教会は「拒否」しましたね。イエスに子孫がいたら・・・「三位一体」が否定されますからね。

(4)ナポリを見て死ね

ナポリの街は、整備された「美しい市街地」と、ゴタゴタした「庶民が住む地域」に分かれます。
私は、人間臭く、「人なつこい下町」が好きです。洗濯ものが、乱雑に干してあります。魚市場は元気な声が飛び交い、人々の笑顔が素敵です。

ナポリ

美しいナポリを知らずして旅を語るなと言われますが、風景も笑顔もひっくるめて、「ナポリを見て死ね」なのです。

ナポリの庶民の軒下

イタリア人は「愛すること・唄うこと・食べること」を大切にしています。ナポリの人は、その典型ですね。君は「ナポリ民謡」が好きですか?
現地の人が唄う“サンタルチア”・“帰れ!ソレントへ”・“フニクリフニクラ”・“オーソレミオ”など・・・素敵です。  

海岸に出ると真っ蒼な海です。遠景にヴェスビオス火山が見えます。
カプリ島の「青の洞窟」までの、紺碧の透き通った海を忘れることができません。小船に乗っていくのですが、なかなかのスリルです。

青の洞窟

(5)近くに「ポンペイの遺跡」があります。

私は、約50年前に初めてポンペイへ行きました。
まだ、発掘が不十分でゴタゴタしていました。
その後、何回か行きましたが、次第に整備され、展示物も明快になっていきました。観光的に整備されたのですが、次第に「つまらなくなりました」。
「驚き」も発見もなく、ひたすら「解説」の押し付けが目立つようになったからです。 

市民生活が、火山の爆発で一挙に埋没したのですから、逃げ惑う人々の様子が生々しく浮き上がってきます。娼婦の館も、卑猥な壁画も「そのまま」です。
まだ、行ったことがない人には「お勧め」です。                 

ポンペイ遺跡 

(6)やっぱり、ミラノは「ドゥオーモ」から

ミラノと言えば、ドゥオーモ(大聖堂)ですね。
このゴシック建築に礎石を置かれてから500年後の1813年に、征服者ナポレオン・ボナパルトにより完成しました。

また、1943年の第2次世界大戦の「ミラノの爆撃」では、連合国側の判断で破壊を逃れることができました。
こうした見識が、もっと日本人に欲しいですね。

ミラノ大聖堂

ゴシック建築は、天上の神様に近づく願いを「尖塔」で表現しているといわれます。
この大聖堂には135の尖塔があり、それぞれに聖者が置かれています。
ミラノの大聖堂は華麗な見事な建築物です。  

ミラノのあるロンバルディア州は、スイスとの国境に位置しますから、昔から、オーストリアやフランスとの戦争が絶えませんでした。この厳しさの中で経済の発展がありました。  
 
北イタリアの人は「良く働く」けれど、南イタリアの人は「人生を楽しんでいる」と言われます。「風土」が全く異なるのです。
北の地域は繊維産業・化学工業などが盛んで、豊かです。しかし最近は、「中国からの移民」が激増し、新型コロナウイルスでも注目されましたね。

(7)最後の晩餐は修道院の食堂に描かれていた 

ミラノの郊外にあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁に描かれたのがダ・ビンチの『最後の晩餐』です。
世界大戦で爆撃を受けたので建物が崩壊し、この名画の損傷がひどい時期がありました。

最後の晩餐

私は「劣化が激しい頃」と「修復された後」の2回鑑賞しましたが、強烈に印象に残っているのは、かろうじて「薄く残った名画の悲惨な姿」です。
 
<チョット寄り道> ミラノファッション
あなたは、オシャレが大好きでしょうから「ミラノ・ファッション」に興味があるでしょうね。
この地域は繊維工業で栄えたので、デザイン・アクセサリー・服飾などファッションに対する関心が高いですね。この街のファッションは、1970年代に「ミラノ・コレクション」が開催されるようになってから、特に盛んになったのです。

ミラノファッション

世界的な「ファッションの発信地」として、有名ブランドのプラダ・アルマーニ・ヴェルサーチなどの本店があります。
いつも「カッコよく」生きることをここがリードしていますね。
私はセレブではないので、よく見えない部分が多いですが、デザイン・ファッション面からの切り口も大切にしたいと思っています。

(8)イタリアは「生きる力」を与えてくれる

ストックホルムに住んでいた妹が
「バカンスでイタリアに行くことは、贅沢ではないわ」といっていました。
「北欧の厳寒を凌ぐためには、夏の間に、太陽の光を、身体じゅうで吸収しておく必要がある」ともいいます。
「脳みそまで凍てつく真冬を無事に乗り越えるには、毛皮の帽子と真夏のイタリアの太陽が必要だ」とも言います。

rローマ:遺跡

文豪ゲーテの『イタリア紀行』が、失恋で傷ついた心を癒すためだったように、多くの文人墨客がイタリアに向かい「生きる力」の再生・復活を計ったことも、あながちオーバーなことではないと思います。

今年の猛暑の中で、イタリヤの人・風物・歴史が、「癒し」ではなく「生きる力」を蘇生させてくれると信じます。

もう一度、あの蒼い海で泳ごうかな!!さあ!行動しよう!!!
 
 
 
 
 
 
 

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