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小さい母

高校3年生、これからの受験の日々を思い、僕はいつも不機嫌だった。

母の「行ってらっしゃい」の声を無視して学校に向かった。

母は、そんな僕でも向き合ってくれた。
母1人子1人だったことも大きいのかもしれない。

質問されたこと以外無視を決め込む僕に、

ある日母は、
「今日は一緒にいちご狩りに行きますっ」
と、高らかに宣言した。

いちご狩り?
なんでまた、いちご?

そんな思いもあったが、受験勉強をしなくていいならと僕は行くことにした。


車の中で、母はずっと話し続けていた。

「ねえ、楽しいねえ。
ママ、いちご狩りなんてひっさしぶり!
あ、でも亮ちゃん(亮介が僕の名前だ。その呼び方はやめてほしいと頼んだが、やめてくれなかった)が赤ちゃんの時、パパとママと3人で行ったことがあるんだよ?
もうあんまり覚えてないんだけどね~」

母は雰囲気が若い。というか幼い。
年々幼さが増している気がする。
離婚した父は、よくこんな人に赤ん坊の僕を任せたと思う。

ここ最近は、幼さからくる無邪気さがより目につくようになった。

「着いた! 運転、疲れたよ~。
亮ちゃん、いっぱいいちご食べてね!」

ビニールハウスの入口をくぐった母に、農家のおじさんが練乳の入ったカップを渡す。

「彼女さん、たっぷり食べて元とってきな」

「あ、いや母親で」
「はーい♡ 亮ちゃん、行こ?」

誰が彼女だ。まんざらでもなさそうに。

「母さん!」
「ほいほい?」

振り返った母があんまり幸せそうで、僕は続きが言えなくなった。
そのかわりに咄嗟に出た言葉は、朝から謎に思っていたことだった。

「母さんさ、いちご、嫌いだよね?」

「ありゃ」

「ありゃ、じゃなくて」

「味は好きなんだよ。いちごにイヤ~な思い出があったの。でも、忘れてきちゃった。だからもう食べられるよ」

母は「ひひ」と、絞り出したように笑うとひょいひょいいちごを食べ始めた。

そんなトラウマを忘れるなんて。
あまりの無邪気さに驚きながらも、気になっていたことが解消されて僕もいちごを食べ始めた。

なるほど、これはうまい。


結局、僕はお腹がはちきれるまでいちごを食べ尽くした。あんなに食べたのは、後にも先にもこの
時だけだ。


帰り道、夕焼けが僕ら親子2人を包んでいた。
満腹と車内に漂ういちごの香りに僕は夢心地だった。

「亮ちゃん、これがママとお出かけする最後になるねえ」

「え、まあ勉強はあるけど、まだ受験はあるけど、まだ受験は先だし。近場なら出かけられるよ」

「亮ちゃんは、お出かけしたらいいよ」

「どうゆうこと?」

言っている意味がわからなかった。

「ねえ、夕日が真っ赤。いちごみたいだよ」

「母さんとは、出かけないってこと?」

「うん」

「うんって、どうして?」

「ママね、色々忘れちゃうの。赤ちゃんみたいになっちゃう」

「それは、どういう……。そんなのずっとそうだろ?」

笑い飛ばそうとした自分の声が、乾いていて、それにも動揺してしまった。


「ママはそういう病気なの。どんどん幼くなっちゃう。これでも昔はしっかり者だったんだよ~。
だから、亮ちゃんはママが育てることになったんだから。亮ちゃんはこれから、パパと暮らすの」

父との記憶はない。
そんな他人みたいな人と暮らすなんて。
いや、そんなことはどうだっていい。
母がそんな病気になっていたなんて。

「家族3人で最後に行ったのがいちご狩りだった。結果ギスギスして寂しくて、いちごが嫌いになったの。
亮ちゃんと別れる前に、いちごの楽しい思い出を
作りたかったんだ」

そういうと母は、「ひひ」と絞り出して笑った。

後部座席で、お土産のいちごが艶々としていた。


1年が経ち、僕は大学生になった。

助手席に人を乗せて運転する機会はあまりなかったので、ハンドルを握る手に自然と力が入った。

1年ぶりに会うその人は、目をキラキラさせている。

「いちご狩りなんてひっさしぶり!前に1度来たことがあるんだけど」

「そうなんだ」

「夕方のお日様みてね、泣いちゃいそうになったの」

「……そうなんだ」

「ねえ、これからどこに行くの?」

「いちご狩りだよ」

「ええー!いちご狩りなんてひっさしぶり!
いちごだいっすき!」

「そうなんだ」

「ねぇ、これからどこに行くの?」

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