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『翠子さんの日常は何かおかしい』第20話 激突の予感

 金曜日の午後六時。時田翠子は会社を出ると、どこにも立ち寄らないでワンルームマンションの自宅に帰ってきた。
 仕事終わりの一杯とはならず、真っ先にシャワーを浴びた。パンツスーツからラフな部屋着となり、ベッドに仰向けになった。
 その姿のまま、手にしたスマートフォンで電話を掛ける。数回の呼び出し音で相手が出た。
「好乃ちゃん、翠子だけど今、大丈夫? そうなんだ、部屋にいるのね。お願いがあるんだけど……難しいことじゃないよ。
 部屋の中で『姉御の呼び出し』って大きな独り言をして貰いたいんだけど。え、意味は、魔除けだよ……うん、お願いね」
 役目を終えたスマートフォンは枕元に転がす。翠子は緩やかに息を吐いた。全身の力を抜くと自然に瞼が閉じられた。

 白い特攻服を着た仙石竜司が半透明の姿でドアの前に立つ。腕を組んで呼び鈴とドアノブを交互に睨む。
「気合があれば」
 組んでいた腕を解き、踏ん張るように脚を広げて腰を落とす。右手は眼前に持ってきて人差し指を立てる。
 瞬間、短く息を吸った。
「総長の名は伊達じゃねぇぞ! 俺の本気の力を見せてやるぜっ!」
 指の先端を睨み据えた。震える右手の人差し指を呼び鈴に持っていく。指の腹が僅かに触れた状態で、オラッ、と掛け声と共に突き入れた。
 軽やかなチャイムが鳴った。竜司は握り拳を作って、よっしゃー、と笑顔で叫んだ。
 激しい足音の直後、ドアが勢いよく開いた。巨大な赤銅色の右腕が伸びてきて竜司の胴体を無造作に掴む。眠そうな目をした翠子は握った状態で部屋に引っ張り込んだ。
肋骨ろっこつがぁぁ、き、軋むぅぅぅ! も、もっと優しく!」
「あんた、うるさいのよ。人が気持ちよく寝てたのに。呼び鈴まで押して、本当に迷惑」
「姉御が呼び出したのにぃぃ、り、理不尽すぎるぅぅぅ!」
「あんたは亡霊なんだから壁を擦り抜けて勝手に入ればいいじゃない」
 言いながら生欠伸を噛み殺す。翠子はベッドの縁に座ると赤銅色の手を開いた。解放された竜司は締め付けられた箇所を摩りながら非難めいた目を向けてきた。
「そんなこと言って……姉御が着替え中の時だったらどうします? 絶対、怒りますよね」
「怒る前にぶん殴るんじゃないかな」
 翠子は赤銅色の右腕を掲げ、拳を固める。竜司は首をすくめて歪な愛想笑いを浮かべた。
「そんなことはどうでもよくて」
 凶悪な右腕を肉体に戻し、自身の右腕を枕元に伸ばす。スマートフォンは手に取らず、白くて平たい長方形の物体を掴んだ。掌に収まるくらいの大きさで片方の先端には丸いレンズが付いていた。
 竜司は用心深い目となった。
「……デジカメにしては薄すぎるし。何ですか、それは?」
「天才児の発明品なんだけど、正常に動いているのかわからなくて」
 翠子はレンズを竜司に向けて上部のなだらかな突起を押し込んだ。音や光は一切ない。一面の大半を占める画面に視線を落とす。
「名無しで、また1300円か」
 嫌気が差したのか。翠子は仰向けに倒れた。遠慮がちに覗き込む竜司に画面を突き付ける。
「あんたの懸賞金の額は1300円ってことらしいよ」
「マジで!? 俺、生前は族の総長っすよ! 死んだあとはチーム百鬼夜行にもいたのに」
 目を剥いた状態で竜司が戦慄わななく。翠子は上体を起こして頭を掻いた。
「ようは未登録の亡霊は全て1300円みたいね。良かったじゃない、賞金稼ぎに狙われなくてさ」
「まあ、それはそうなんですが、やっぱり男としては悔しいというか」
「気にしなくていいよ。今のところ、あんたも含めて全てが1300円だから」
 翠子は立ち上がった。肩や手首を回しながらクローゼットに向かう。途中で立ち止まると顔だけを竜司に向けた。
「今から着替えるんだけど」
 酷薄な笑みで拳を作る。
「はいぃぃ、失礼します!」
 声が裏返る。竜司は猛然と駆け出し、壁を擦り抜けていった。

 黒いジャージ姿の翠子は竜司と並んで歩いた。人気のない薄暗い路地をゆく。
「……姉御、あれって地縛霊ってヤツですよね」
 竜司は電信柱の上の方を指差した。半透明の若い女性がブラブラと揺れている。首に荒縄のような物を巻き、眼球は半ばまで迫り出していた。
「あれも1300円」
 翠子はちらりと目を遣って通り過ぎる。竜司は嫌悪を露わにした顔で何度も後ろを振り返る。最後に、あれと同じ、と落胆した声で呟いた。
 その後も二人は夜道を歩き続けた。意味も無く頭を振り続ける亡霊がいた。道路の中央に立った半透明の男性は大きな声で笑っていた。
 出会う霊の全てが同じ懸賞金であった。
「この発明品、本当に信用できるのかな」
 翠子は握っていた物を軽く振ってみた。
「あ、姉御、あれです」
「あれってなによ」
 不機嫌な声で横手を見る。竜司は路地の一方に顔を向けていた。
「前に話したでしょ。俺達が道を譲った格上の百鬼夜行ですよ。あの旗が証拠です」
「あの赤い三角のヒラヒラ? 読めない文字ね」
 嬉々とした様子で翠子は真っ先に飛び出した。路地に入ると最後尾にいた者にレンズを向ける。尾が九つの人物は歩きながらこちらを見た。金色の眼を細めて艶然えんぜんと微笑む。端正な顔立ちは美姫びきと言える。
 またね、と口だけを動かし、異空間の入口を思わせる鈍色の穴に半身を埋めた。すぐに身体が呑まれる。最後に残った尾の先端は手を振るような動きとなり、間もなく全てが消失した。
「姉御、先走り過ぎですよ」
「またね、だってさ」
 翠子は挑戦的な笑みで薄い下唇を舐めた。遅れてきた竜司に画面を見せ付ける。
「こ、これって、さっきの女の懸賞金!?」
「そう、名は玉藻前たまものまえ。懸賞金は2600万よ」
 喜びがぶり返しているのか。翠子の口端が急激に吊り上がる。
 左右の犬歯が剥き出しとなった姿に竜司は身を震わせた。


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