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それでも、誰かと生きてみたかった

 複雑性PTSDとは、一人暮らしの安全なベッドの中で穏やかに目を閉じながら、次の瞬間には誰かに刃物で滅多刺しにされる恐怖を抱えて生きている、ということだと思う。

 少なくとも私はそうだ。

 誰と居ても、否、誰とも居なくても、いつ他者から侵襲されるかも知れないという緊張感を捨て去ることができない。眠っている時以外は常に、人間不信の野良猫のように周囲の様子に過敏になっている。

 例えば、繁華街を歩いている時、混雑した電車に乗っている時、360度を敵に囲まれた戦場に放り出されているような感覚に陥る。どこかから荷物を奪い取る手が伸びてくるかもしれない。あるいは、刃物を持った手がその鋒を私の背に突き立てるかもしれない。

 思うだけで、それが現実には起こらないことは学習しているし、湧き上がる感情を理性でコントロールする術はトレーニングによって身に付けた。だから、不安やパニックに突き動かされて社会生活に支障をきたすことはない。ただ、いつも酸欠の金魚のように息が苦しい。

 例えば、仲の良い友人や恋人といる時、築き上げた信頼関係があれば私の緊張感は幾分か和らぐ。しかし代わりに、何とかして自分の元に留めておかなければならない、少しでも自分を良いものだと思わせて好きで居てもらわなければならない、という焦燥感にかられる。

 だって人が去っていく度に、身を引き裂かれるような強烈な痛みを心が感じる。それみたことか、お前なんか誰にも愛される訳がないのだと、トラウマが溢れ出してきて私の足首を掴み、過去の記憶に引き摺り込もうとするのだ。大切な人が存在するという事実が、いつ捨てられてしまうのだろうという恐怖となって私を苦しめる。

 だから私の人間関係は上手くいかない。

 そもそも愛されず大切にされないことが前提のコミュニケーションモデルしか知らないのだから、愛して大切にしようとしてくれる全ての人に違和感を覚え、知らず知らずのうちに攻撃してしまうのは無理もないことなのだろう。

 どうしてあなたは私に優しくするの?
 本当は私のことを傷付けたいんでしょう?
 どうせいつか離れていくんだったら
 今すぐグチャグチャに壊してくれよ!

 そういう恐れを、苛立ちを、コミュニケーションの端々にほんのりと香らせて、無意識に破滅へと導いてしまうのだから、どんなに優しい人にだって愛想を尽かされるに決まっている。結局は自分がそれを求めているのだ。それしか知らないから、その中でしか生きられない。

 そんなことを何百回と繰り返してきた。

 いつかは、こんな不完全な私さえも受け入れて、寄り添ってくれる運命の人と巡り合うことを期待していた。世界を信頼しきって腹を出して眠る子犬のように、穏やかな気持ちで、誰かと生きてみたかった。

 しかし、私の願いはどうやら叶いそうにない。前世で徳を積むのを余程疎かにしたらしいが、これ以上、無駄に私に傷付けられる人を増やさなくて済むのなら、確かに誰にも出逢わない方が良いのかもしれない。

 私は、私の価値を知っている。呼吸をし瞬きをしているだけで、尊く美しい命として私はここに存在している。人と上手くやれなくても、結婚して子どもを産んでいなくても、誰からも愛されていないとしても、誰にも私の人生を否定する権利はない。

 あるがままでひとり、胸を張って生きていこう。

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