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ストーリーテリングの魅力と魔力~『主戦場』|稲田豊史・ミステリーファンに贈るドキュメンタリー入門【第10回】

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文=稲田豊史


起承転結、序破急、三幕構成

 引き込まれるドキュメンタリーは、例外なくストーリーテリングに長けている。

 ストーリーテリング(storytelling)とは直訳すれば「物語ること」だが、ドキュメンタリーに当てはめるなら、物語のような展開で観客を引き込む技術のこと。言ってみれば「物語化」である。

 たとえば、本連載の第4回で取り上げた『ザ・コーヴ』(09)。和歌山県の太地町で行われているイルカ追い込み漁を批判的に描いたドキュメンタリーだが、イギリスのドキュメンタリスト、オーランド・ヴォン・アインシーデルは同作について、「本質的には環境問題を扱っていますが、制作者は、まるで宝石泥棒映画のような語り口で観客の興味を引くという見せ方を選択しました」(*1)と、ストーリーテリングの秀逸さを指摘した。

 ストーリーテリングは、昨今ではビジネスの場面でも重要視される。ビジネス上のコンセプトやアイデアを伝える際、それを想起させる具体的な体験談やエピソード、あるいは教訓話といった物語を引用することによって、相手の共感と理解を誘えるからだ。経営者が内外に企業理念を伝えたり、プランナーが企画をクライアントにプレゼンしたりといった場面ほか、売り出したい商品をスペックではなくバックストーリー(開発に至るまでの苦労話など)込みで消費者に訴求する場合には、ストーリーテリングが重宝される。
 ストーリーテリングと聞いて直感的に理解できない人でも、4コマ漫画の構成でおなじみの「起承転結」と言えばわかるだろう。あるいは能楽の構成形式である「序破急」、あるいは古代ギリシャのアリストテレスが提唱した「三幕構成」も、物語展開の基本パターンとしてよく知られている。

 なお劇映画における三幕構成の理論は、アメリカの脚本家にしてシナリオ講師でもあったシド・フィールドによって1979年に理論化されており、以降脚本メソッドの定番となった。それによると、第一幕(設定)、第二幕(対立・衝突)、第三幕(解決)の時間配分は1対2対1。映画の形式で(かつ、ストーリーテリングを重視する)作品を発表するタイプのドキュメンタリストなら、この配分は間違いなく意識しているはずだ(*2)。

「剥き出しの主張」は誰も聞かない

『ドキュメンタリー・ストーリーテリング[増補改訂版]「クリエイティブ・ノンフィクション」の作り方』という本は、500ページ以上にもわたってドキュメンタリーにおけるストーリーテリングの重要性を説く大著である。それだけの紙数を費やすに値するほど、「観客をのめりこませる(同書帯より)」ドキュメンタリーにストーリーテリングは必要不可欠だということだ。

 同書の翻訳監修を務めた今村研一いまむらけんいちはストーリーテリングについて、「取材対象に内在する物語ではなく、あくまで制作者が意図的に語ろうとする話法」と述べている(*3)。これは、本連載で今まで再三強調してきたドキュメンタリーの要件定義――「客観的なファクト(などというものは存在しないが)の羅列」ではなく「監督の主観・意図をもとに綴られたもの」――の言い換えだ。

 ストーリーテリングの良し悪しは、ドキュメンタリーの商業的成否を直接的にも握っており、同書には「物語を語らずに題材の話をしてしまうのが下手な売り込み」という記述すらある(*4)。要は、「このテーマ、このモチーフは社会的にものすごく意義があります!」と監督やプロデューサーがいくら熱弁したところで、制作費を出す出資者が気にするのは「面白い物語性があるかどうか」に尽きる、ということだ(*5)。

 しかし、なぜここまでドキュメンタリーにストーリーテリングが必要なのだろうか。それは、よく知らない人間の「剥き出しの主張」になど、誰も耳を傾けないからだ。「読んでもらう/聞いてもらう/見てもらうための工夫」が施されていない発表物ほど、鑑賞や読解に苦痛を伴うものはない。政治綱領、駅前の街頭演説、役所の通達文、自己満足的な身辺雑記やエッセイ、おじさんの長いFacebook投稿などが良い例だ。

 ここで言う工夫は、サービス精神という言葉に置き換えてもよいだろう。食卓に喩えるなら、「いくら素材が良くても、生のまま皿に置くだけでは誰も食べてくれない」。適切な調理が施されて初めて、客は皿の料理を口に運んでくれる。

『主戦場』の「起」――つかみと〝敵〟の設定

 ドキュメンタリーにおけるストーリーテリングの醍醐味、流麗な「起承転結」の妙を存分に堪能できる1本として、従軍慰安婦問題の争点を徹底的に洗い出した『主戦場』(18)を取り上げたい。

 なお、従軍慰安婦とは「慰安所と呼ばれた施設などで、日本軍将兵との性行為を強制された女性たちのこと」(*6)。慰安所は太平洋戦争中、中国をはじめアジアの各地に設置された。なお、監督のミキ・デザキは1983年生まれの日系アメリカ人2世である。

 本作は従軍慰安婦問題に通じている日米韓の識者・論者を、ざっくり「日本の強制連行などなかった」とする否定派(便宜上〝右派〟と呼ぶ)と、日本政府の責任を追求する慰安婦支援派(同〝左派〟と呼ぶ)の2グループに分け、右派vs.左派の〝バトル〟を映画内で展開させる。その際のストーリーテリングが、とにかく上手い。喩えるなら、バトルものの「ジャンプ漫画」でも読んでいるかのような疾走感がある。

 なお、本稿の目的はドキュメンタリーの観方指南なので、デザキの政治的主張の妥当性や、筆者がデザキの主張に同意できるかどうかについては論じない。あくまで「ストーリーテリングにすぐれた構造物」としての分析に留める。

 では、本編を起承転結に対応させながら追っていこう。

 まずは「起」。冒頭、従軍慰安婦問題の基本がテロップで手早く解説された後、元慰安婦の韓国人女性が韓国外交部の長官にガチギレしている衝撃的なシーンが流れる。彼女は2015年に締結された日韓合意のやり方に納得していないのだ。彼女は涙ながらに言う。「裏に隠れて両国でコソコソと!」。開始2分、早くもつかみはバッチリだ。

 次に登場するのは、通称「テキサス親父」と呼ばれるアメリカ人トニー・マラーノ。彼は慰安婦問題について日本の右翼の見解を全面支持しており、YouTubeで自説を発信している。マネージャーも日本人だ。多くの観客は彼に強く興味を惹きつけられる。「なぜアメリカの白人が日本の右派を支持するのか?」

 矢継ぎ早に、杉田水脈すぎたみお櫻井さくらいよしこ、ケント・ギルバートらキャラの立った右派論客が次々と登場し、インタビューで持論を展開する。曰く「強制連行なんてやりっこない」「被害者などどこにもいない」「慰安婦ではなく報酬をもらっていた売春婦にすぎない」等々。デザキはナレーションで彼ら右派を「歴史修正主義者」「否定論者」と呼称し、本作における〝敵〟として明確に設定する。

 ここまで10分とかかっていない。なんというセットアップの手際良さ。
 右派の主張に対立する左派の主張もざっと並べられ、主要登場人物たちの顔見世が完了する。役者は揃った。バトル開始だ。不遜な言い方をするなら、これから始まる〝物語〟にワクワクが止まらない。完璧な「起」である。

『主戦場』の「承」――物語を盛り上げる技術

 続く「承」では、韓国でのデモの模様や現地の識者の主張、慰安婦像設置に揺れるグレンデール市(アメリカ・カリフォルニア州)における右派の主張を交えながら、従軍慰安婦問題の争点が整理され、ひとつずつ丁寧にリストアップされてゆく。

「強制連行の事実はあったのか」「従軍慰安婦が20万人という数字は正しいのか」「元従軍慰安婦の発言に信憑性はあるか」「日本政府の謝罪は妥当だったのか」「彼女たちは自由を奪われた性奴隷だったのか、金目当ての売春婦だったのか」。本作を観るまで従軍慰安婦問題について疎かった観客には、この鮮やかな論点整理が心地よくてたまらない。

 両派の主張合戦は、スピード感にあふれ、淀みがない。巧みな編集により、Aという人間がしゃべった言葉とBという人間がしゃべった言葉が、まるでひと続きのなめらかな主張に聞こえる。主張→反論、主張→反論……のテンポもすこぶる良い。論戦を流れるように見せてくれる。高まるグルーヴ。
 早い段階で右派を〝敵〟に設定しているだけに、本作は「右派の主張の矛盾・虚偽を、左派が一つ一つひっくり返していく」ダイナミズムを、胸のすくエンターテイメントに仕立てている。そこには無論、「右派の主張の後に左派の反論を持ってくることで、映画の中で右派に再反論の機会を与えない。不公平だ」という批判も寄せられているが(*7)、それでもストーリーテリングの上手さについては、どうしたって認めざるをえない。『ドキュメンタリー・ストーリーテリング』の以下の記述は、まさに『主戦場』のような作品のことを指している。

「物語の技巧が良い仕事をしているときは、受け手にそれ以外はありえないと思わせる説得力を持ちます。継ぎ目も見えないほどきれいにはまっているので、技巧が使われていることすら気づかないというわけです。登場人物は無理なくその世界を生きており、そこにあるアイデアやプロットはすべて有機的に物語に溶け込んでおり、作品が提示する論点は抜かりなく、申し分のないものとして構築されているのです」(*8)

『主戦場』の「転」――〝敵〟の正体が判明する

 ある種の王道・古典的少年漫画では、物語中盤以降で「巨悪の存在」が明らかになるのが定番だ。今までに戦ってきたたくさんの敵たちの背後に、彼らを束ねる大きな悪の組織があり、その影響力はなんと政府の中枢にまで及んでいた!……の類いである。

『主戦場』は面白いほど綺麗に、そんな王道・古典的少年漫画の展開をなぞっている。

 右派と左派の主張がある程度出揃ったところで、本作は過去の歴史に目を向ける。1990年代後半に歴史修正主義的な教科書を作るための「新しい歴史教科書をつくる会」が設立された。その資金面でのバックアップのため、まだ若き自民党の議員だった――後に内閣総理大臣として歴代最長の通算在職日数を誇ることになる――故・安倍晋三あべしんぞうらが「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会(通称:教科書議連)」を設立したのだ。

 そう、〝敵〟(右派)の影響力は20年以上前から「政府の中枢にまで及んでいた」のだ。

 この段になって新しい登場人物が〝物語〟に投入される。かつてはナショナリストで歴史修正主義者、つまりゴリゴリの右派だったものの今は左派に「転向」した、日砂恵ひさえ・ケネディという人物だ。

 彼女はかつて「櫻井よしこの後継者」とも呼ばれていた。つまり、言ってみれば「敵組織を裏切った大物」である。飽きさせないとしか言いようのない、サービス精神満載の展開だ。

 日砂恵・ケネディの語る「かつての身内批判」を拠り所に、右派がいかに差別主義者であるかがこれでもかとばかりに強調される中、彼女はある告白と懺悔を行う。過去、あるアメリカ人ジャーナリストに、右派にとって都合のいい記事を書いてもらうため、「調査費として6万ドル、ビジネスクラスの飛行機代、宿泊費、交通費、食事代」を援助したというのだ。

 この件は櫻井よしこも関わっている。デザキはカメラが回っている前で櫻井に問いただすが、櫻井は一瞬たりとも動揺を見せない。彼女は眉ひとつ動かさず、菩薩のような微笑みをたたえながら、嫌味なく上品に、流暢な英語でこう言った。

「そのことは話したくありません。とても複雑なので」

 その瞬間に櫻井が漂わせた空気は、おごそかな劇映画のそれだった。大女優の風格。ザコ敵とは格が違う。ヤクザ映画で言えば若頭クラス。ギャング映画で言えば幹部クラスの佇まいを櫻井は醸していた。

 デザキはさらに安倍晋三を深掘りし、右派に大きな影響力を与える〝敵組織〟を特定する。安倍が特別顧問を務め、閣僚の多くが所属する日本最大の保守主義団体、日本会議だ。

 左派のひとりは日本会議について、戦前の日本を肯定し、人権意識が欠如しており、ジェンダー平等に反対しているとして警戒する。〝敵組織〟がいかに恐ろしいかを観客に伝えるには、対立陣営に語らせるのが一番だ。物語の基本メソッドである。

 日本会議こそが、今まで登場した右派たち――「歴史修正主義者」「否定論者」「ネオナショナリスト」――の総本山だったのだ! ……という見立てを、本作は観客に誘発する。

 素晴らしいクライマックス。理想的な「転」だ。

『主戦場』の「結」――不気味なラスボスが登場する

 総本山が明かされても、話は終わらない。

 デザキは右派たちと日本会議をつなぐ重要人物がいると指摘する。その人物を中心とした人物関係図を画面に表示させ、観客の期待を存分に煽る。容疑者全員を一箇所に集めてエモーショナルな口上を述べる、ミステリー映画の名探偵のごとし。

 ふと、今までバックで鳴り続けていたミステリー映画ライクな音楽が消え、画面にひとりの老人男性が登場する。彼の名は加瀬英明かせひであき、日本会議の代表委員で東京都本部の会長。物語上の役割で言えば、彼こそが〝黒幕〟、いわゆるラスボスというやつだ。

 加瀬の存在感は不穏で妖怪的である。インタビュアーによる「慰安婦問題に関して正しい歴史を伝えている歴史家の先生は?」との問いには、茶目っ気たっぷりに「自己紹介していいですか? 私がそのひとりだと思います」と返答。そのくせ、左派はおろか右派の専門家が慰安婦について書いた本すら、一切読んでいないという。「人の書いたものは読まない」と悪びれもなく言う。

 そもそも加瀬は、反対陣営である左派をまるで相手にしていない。従軍慰安婦問題については、「ポルノ的な関心」「どうしてこんな馬鹿げたことに興味があるの?」などと言って片付け、まともな議論をしようともしない。何を言われても痛くも痒くもないという態度。「歯牙にもかけない」とはこのことだ。

 しかも加瀬は、ソフトな敬語口調で信じられないほど不遜な発言を連発する。

「日本が戦争に勝った(筆者注:「負けた」の間違いではない)らアメリカの黒人は解放された。その恨みで日本の慰安婦問題を追及しているアメリカ人が多いのではないでしょうか」

「南京大虐殺はまったく起こっていません。中国が捏造したことです」

「韓国は可愛らしい国。育ちの悪い子供が騒いでいるようで可愛らしいと思いませんか」

 期待に違わぬラスボスしぐさ。これ以上ラスボスらしいラスボスには、なかなかお目にかかれない。何より、キャラが立ちすぎている。

 まるで『バットマン』の絶対悪、ジョーカー。巨魁と呼ぶにふさわしい。口調は乱れず、常に不敵な笑みを浮かべているようにも見える。日本語で話しているのに、根本のところで絶望的に通じない、背筋の凍る不気味さ。デザキは(おそらく彼自身が感じた)加瀬の異様さや不気味さを、映画の中で余すところなく描出した。

「物語の終着点」に鎮座する存在として、申し分ない大物感。見事な、かつ極めて漫画的な結末。〝物語〟として出来すぎていることに、思わず拍手を送ってしまう。

優れた物語は人に話さずにはいられない

『主戦場』を観て、ドキュメンタリーにここまでドラマチックなストーリーテリングを施す必要はないのでは? と思われる方もおられよう。

 しかし、人類は物語という形式に何よりも惹かれる生き物であるらしい。

 ワシントン&ジェファーソン大学研究員のジョナサン・ゴットシャルは、学生たちが1日のうちで物語世界に浸っている時間を彼ら自身に調査させたところ、「5時間以上」という推定値が出た。ここでいう物語世界とは、本、リアリティ番組、ホームドラマ、ドキュメンタリー、朗読ポッドキャスト、物語性のあるゲーム、そしてSNSでの友人の投稿(これも大きく言えば「ストーリー」だ)も含まれる。

 しかも、この「5時間以上」という数字は、勉強、スポーツ、食事、友人とのリアルな付き合い、宗教活動のどれよりも上回るものだった。ゴットシャルは「物語は彼らの人生で最も重要」と結論づけている(*9)。

 人生で最も重要。だからこそ、ストーリーテリングが巧みな物語に、人は大きな影響を受ける。まっさらな下地に特定の思想や信条を植え付ける。あるいは元々もっていた信条にグラグラと揺さぶりをかける。場合によっては考えを変えさせ、思想転向すら促す。

 太平洋戦争中の1943(昭和18)年、日本初の長編アニメ映画『桃太郎の海鷲』(と言っても総尺は37分)が公開された。内容は、真珠湾を鬼ヶ島に見立て、「鬼退治」する日本軍の活躍と逃げ惑うアメリカ兵士の姿を面白おかしく描いたもの。当時の海軍省の依頼により作られた紛れもない戦意高揚映画だが、子どもたちからは絶大な人気を博した。

 アメリカのディズニーも太平洋戦争中、財務長官ヘンリー・モーゲンソーからの依頼で、ドナルド・ダックを主役に所得税の納税を促す映画『新しい精神(The New Spirit)』を製作した。同作は1942年に公開され、アメリカ国民の意識変革に成功したという。

 よくできた物語には人を操る力がある。よくよく考えてみれば、冒頭の「ストーリーテリングがビジネスの場面で重要視される」理由も同じ。ストーリーテリングを駆使することでビジネス上有利な条件を(こちらの意のままに)相手に受け入れてもらえるからだ。これを「人を操る」と言わずして何と言おう。

 しかも、物語には強い拡散力がある、作品のメッセージが作品を観た者に刺さるだけにとどまらず、口コミによって観ていない者にも伝わるのだ。

 ゴットシャルは、ストーリーテリングには他の情報伝達手段に比べて科学的に実証された優位性が多数あるとするが、そのひとつが「優れた物語は人に話さずにはいられない」という性質だという。曰く「絶対に内緒だよと言われた噂話を広めたりネタバレをしたりしないのがどれほど難しいか考えてみればよい」(*10)。

『ドキュメンタリー・ストーリーテリング』でも、ラッシュ(未編集状態の映像)映写時の留意事項として「観客が作品を見た翌日、職場の仲間と語り合いたくなるような部分を探しましょう」と指南している。その後の編集で不要部分をカットしていく際にも、「職場の仲間と語り合いたくなるような部分」は優先的に「残す」べきだということだ。

 なお、『桃太郎の海鷲』と『新しい精神』は、一般的にはプロパガンダ映画(政治的宣伝を目的とした映画)と呼ばれているが、「人の考えを変える」「拡散力が高い」は、優れたプロパガンダ映画の要件に他ならない。

物語は技巧であり、科学ではない

「捕鯨反対」という特定の政治的主張が展開される『ザ・コーヴ』や、特定の政治的主張を行う人たちを露骨に〝敵〟認定する『主戦場』にプロパガンダ的側面があるかどうかの検証は、ここでは行わない。

 ただ、忘れてはならないことがある。『主戦場』内で行われるさまざまな歴史の検証やエビデンスの提示は、あくまでデザキの紡いだ物語をスムーズに進行させるため〝選択的に〟行われたものであるということだ。
『ドキュメンタリー・ストーリーテリング』に登場する記述「物語というのは技巧であり芸術です。科学ではありません」(*11)は、実に深みのある謂だ。裏を返せば、人はエビデンスに裏打ちされた科学よりも、「信じたい」と思えるほど快適で魅力的な物語のほうに飛びつく。これは、2010年代後半以降に世界中を覆った「ポスト・トゥルース」そのものだ。

 巧妙なストーリーテリングを施されたドキュメンタリーは、気を抜けばすぐにプロパガンダやポスト・トゥルースに〝堕ちる〟。そんな危険な場所に、絶妙のバランスで立ち続けなければならない宿命もまた、ドキュメンタリーの根源的な魅力のひとつではないだろうか。

*1 『ドキュメンタリー・ストーリーテリング[増補改訂版]「クリエイティブ・ノンフィクション」の作り方』(シーラ・カーラン・バーナード著/フィルムアート社、2020年)

*2 同じくアメリカの脚本家ブレイク・スナイダーは三幕構成だけでは不十分であるとして、著作『SAVE THE CATの法則 本当に売れる脚本術』(ブレイク・スナイダー著/フィルムアート社、2010年)で物語を15の構成要素に分解、時間配分も脚本のページ単位で細かく記した。

*3 『ドキュメンタリー・ストーリーテリング[増補改訂版]「クリエイティブ・ノンフィクション」の作り方』(シーラ・カーラン・バーナード著/フィルムアート社、2020年)

*4 同前

*5 今村の言葉もそれを裏付ける。「海外のデシジョンメーカー(制作にカネを出すかどうかを決める立場の者)はドキュメンタリー企画の良し悪しを判断するため、『ストーリーの基本的な設定は? 主人公や主題はどのような葛藤や対立を抱えているのか? それはどのような山場に向かって展開していくのか? そして最終的に葛藤や対立はどう解決されるのか?』といったことを聞いてくる」(『ドキュメンタリー・ストーリーテリング[増補改訂版]「クリエイティブ・ノンフィクション」の作り方』)

*6 アクティブ・ミュージアム 女たちの戦争と平和資料館HPより

*7 他の批判としては、以下のようなものがある。

①デザキがインタビュー取材を申し込む際に「卒業制作」だと偽った。これは騙し討ちである
②左派には歴史や法律の専門家がたくさんいる(発言の学術的説得力が高い)が、右派には専門家と呼べる者が極端に少ない
③作品全体として両派の分断を煽る内容なのは、いかがなものか

①はともかく②に関しては、ドキュメンタリーに中立性を求めること自体がナンセンスである。本作は報道ではなく、ミキ・デザキというストーリーテラーによる〝作品〟なのだ。③についても、少なくともドキュメンタリーの定義に「分断を煽らない」は含まれていないはず。ドキュメンタリストは聖人君子ではないし、なる必要もない。

*8 『ドキュメンタリー・ストーリーテリング[増補改訂版]「クリエイティブ・ノンフィクション」の作り方』(シーラ・カーラン・バーナード著/フィルムアート社、2020年)

*9 『ストーリーが世界を滅ぼす―物語があなたの脳を操作する』(ジョナサン・ゴットシャル著/東洋経済新報社、2022年)

*10 同前

*11 『ドキュメンタリー・ストーリーテリング[増補改訂版]「クリエイティブ・ノンフィクション」の作り方』(シーラ・カーラン・バーナード著/フィルムアート社、2020年)

《ジャーロ NO.89 2023 JULY 掲載》


『主戦場』
Amazon Prime Video、U-NEXTほか配信中
2018年/アメリカ 
監督・脚本・撮影・編集・ナレーション:ミキ・デザキ 
配給:東風
©NO MAN PRODUCTIONS LLC

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