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人間関係でのストレスを華麗に回避する「寛容の精神」

最近の私のテーマの一つは「寛容の精神」です。
これは、生涯をかけた修行です。 

ストレス社会で、優雅に、そして華麗に生き抜くための、“ほんの少しの試み”です。

私は大学時代に、「価値観の異なる人々が、互いを理解し、関係を築くことはできるのか」をテーマの一つとして学んできました。

卒業後、社会人になった私は、再びこのテーマに向き合うことになります。

「分かり合えない」とのたたかい

私には、どう頑張っても仲良くなれない会社の同僚がいます。
入社したときから、「犬猿の仲」「相性が悪いとはこのことか」というほど。
元々、人の好き嫌い、合う合わないの激しい私でしたが、大学に入学したあたりからは、基本的に誰とでもそこそこな関係でやれるようになっていました。それなのに、どうしてもその人は受け入れられないのです。

1日の中で感情の浮き沈みが激しく、機嫌が全部顔と言動に出る人。その人の言動のほとんどが癪に障るし、許せない。私は苦手な人に対して、明らかに苦手だという態度を取るので、まぁ仲良くはなれないわけです。
それから1ヶ月半ぶりに会ったところ、その人は先輩から態度を何度か注意されたものの、相変わらずで、「人って本当に変わらないんだなぁ」と震えました。
ところがその日、その同僚と同じチームになることを知らされ、これから1年ほど密になって一緒にプロジェクトをやることに。

とんだストレスだ。

ただでさえ仕事はストレスが多いのに、「人」なんかで悩みたくない。「大人になろう。いや、向こうが変わればいいのに、何でこっちが歩み寄らなきゃいけないの?」というジレンマ。

でも、この人とどうやって関係を築いていくかは、私自身の成長、新しい自分に出会うために、逃げてはいけない課題だと感じました。

一方で、プライベートにおいては、私とは面白いほど正反対の恋人と、おだやかな関係を築いています。

私が地方オブ地方の田舎オブ田舎出身であるのに対して、彼は都心生まれ都心育ち。
世界を代表する都市と過疎化が差し迫った課題の田舎とでは、いくら情報化社会といえども、別の国くらいの差はあります。
大きな挫折経験もなく、社会の上澄みの方だけで生きてきた彼は、他人のことを疑ったり僻んだりすることもなければ、他人を貶めずとも自分の価値を認められる、真に自己肯定感の高い人です。子どもの幸せを願わない親がいることなんて想像もつきませんし、私の地元で起きていた出来事の数々なんて、どこのマンガなのかといった調子。

彼を見ていると、生きてきた人生が違えば、人はこうも違うものかと痛感します。初めて話したときから、男女の差とは別のところで、彼に「理解してほしい」は無理だろうと悟ったし、私も彼を理解できるようでできないのだろうと思いました。

その感覚はお互いの中にあるようで、「なんで分かってくれないの?」とも思わないですし、相手の心中をむやみに理解しようとすることもありません。向こうからも求められません。
「君はそうなんだね」というところから、「何でそう考えるのか教えてくれる?」と、思考の源泉の部分を理解しようとしてくれます。

側から見たら「上辺だけの関係」と感じられるかもしれませんが、私にはとても心地よいのです。

もちろん、そもそも「相手に好意を抱いている」という点でこの2つのケースは違うのですが、「分かり合えない」という点では共通しています。なぜこんなにもこちらが受けるストレスに差があるのだろうか。この両者に対する自分の向き合い方に違いがあるのかもしれないと考えました。

そんなときに、ふと思い出したのが「寛容の精神」でした。

「寛容の精神」とは

「寛容の精神」とは、イギリスの作家 E・M・フォースターが1941年に発表した評論のタイトルであり、彼が重要視していたものです。

「寛容の精神」と聞くと、多くの人は無条件に相手を受け入れ、愛することをイメージするかと思います。聖母のような姿勢でしょうか。
しかし、前述した作家フォースターは、「寛容の精神」とは、実はとても「消極的な姿勢」なのだと言います。
異なる価値観を“愛そう”とするから、無理が来て、上手くいかない。そうではなくて、「寛容の精神」とは、ひたすら「我慢する」ことなのです。そして、受け入れはせずとも、想像力を持って相手の立場に立ち、「理解しようと試みること」が重要であり、精神的な成長につながるのだと言います。

もう少し私流の解釈を入れると

違うものは違うものとして受け入れる。その上で、「なぜそのような価値観を持ち、そのような言動をするのだろう」と想像してみる。それが大切だ、ということだと捉えています。
共感しようだとか、自分もその考えに賛同できるまでになろうだとか、そういうことは必要ないということです。

私が、違いの多いパートナーとの関係を楽しめているのは、お互いに「自分たちは育ってきた環境が全く違う。だから違って当たり前」という共通認識があるからだと思います。

思えば、小学生の頃から海外に興味を持ち、国際交流の場に足繁く通っていましたが、言語も文化的背景も全く違う人々と話していて、それをストレスに思ったことは一度もありませんでした。
何度か海外にも行きましたが、ストレスに思うことは食事と衛生面くらいでした。
「違って当たり前」というのが前提にあったからでしょう。少しでも気が合えば、「国が違うのに!?国境を越えたね!?」と感動するほどです。

どうしても許せない同僚の話に戻りましょう。

私はあの人を好きになる必要はないんだ。最低限、勤務時間中に円満に活動できればそれでいいんだ。

そう気づいた私は、その人に“普通に”働いてほしいと思うことも、協調性を期待することもなくなりました。その人は相変わらず機嫌で周囲を振り回していますが、その人に対しての私の感情は

「無」

そういう態度を認めもしていないし、いちいち腹を立てたりもしません。無。
おかげで、その人の存在で精神状態が左右されることもなくなりました。

人から「優しい」と思われている人は、よくよく話を聞くとかなり“冷めている”ことがあります。その人たちは他人をコントロールすることを、とっくに諦めているようです。他人に何も期待しないから、すべての人にフラットに対応できるそう。その境地の疑似体験をした気分です。

ただ、こういう人が1番怖いので、優しいからと言って好き放題していると痛い目に遭いますよ。皆で気をつけましょう。

受け入れがたい価値観に出くわしたときの対処

他の人の話を聞くことで、自分の価値観が変わる体験もありますよね。ですから、他人の話を聞くときに、オープンマインドでいることはとても大切だと思います。しかし、「ん?」と、すぐには受け入れがたい理解不能な人に出くわすこともありますよね。

そういったときに、私が大切にしていることがあります。それは、「あなたはそうなのですね」の姿勢です。
さすがに無愛想すぎるので口にはしませんが、心の中で「そうですか」とつぶやくのです。「そうですか」以上でも以下でもない。「ふーん」のスタンスを崩さないのです。他人の発言でいちいち心に波風を立てない。

「やば……」と思うと、もうその人は自分の中で「やばいやつ認定」されてしまい、今後は交流を断つことになるでしょう。それでは、結局自分の周囲には似た価値観の人だけが残るので、意味がありません。やばいのは自分の方かもしれないことを念頭に置いています。

そうすることで、「そういう人もいる」という新たなサンプルが増えて、引き出しが増える。そうすると、次に似たタイプに出くわしたときに、「そういう人もいる」で片づけられますよね。

それから、「好きじゃないけど付き合っておいた方が得」な人もいますね。
私は自分のポリシーを曲げたくなくて、そういう人を全員排除してきた過去があります。しかし、そんな不器用な生き方は損です。嫌いなら嫌いであればこそ、言い方は悪いですが、とことん利用した方が良さそうです。そんなときに、「ふーん」のスタンスでいると、美味しいとこだけ持っていけます。強かに生きましょう。

異なる価値観に寛容になることは、自分の信条を曲げることではありません。

「真に理解する」ということ

「誰にも理解してもらえない」という悩みは、多くの人が持っている、あるいは持っていたことがあるのではないでしょうか。

「自分は真に他者を理解することはできない」と理解することは、自分を救うことでもあります。
自分が理解してもらえないのは、自分が特殊で、孤独だからではなく、人はそんなに単純にはできていないからです。
そして、自分が他者を理解する難しさを理解すれば、他者にそれを求めることの傲慢さにも気づくでしょう。

基本的に同じ階級、似たような暮らしぶりの人としか交流できなかった時代とは違い、どこの誰とでも交流できてしまう現代。加えて、“多様性”の時代でもあります。全く異なる価値観を持つ人たちと交流できる、時には“しなければならない”時代だからこそ、この「寛容の精神」は大変重要なのではないかと、私は考えています。

人の価値観は、色々な要素が複雑に絡まり合って構築されているものです。
少しでもよりよく理解しようとすると、相手の背景に想像を働かせるための引き出しが必要です。
その引き出しを増やすためには、様々なタイプの人と関わる必要があります。
私は、価値観や人格は育った環境に大きく左右されると考えているので、あえて言うならば「幅広い“階級”の人と付き合うこと」を意識しています。(これに関しては、次回以降熱弁させてください)

世の中には、自分の考えが正しいと思っている人や“他者を理解できた気になっている”人が、思った以上にいます。程度の差はあれ、自分も含めて、ほとんどの人がそうなのではないかとさえ思います。

自分が他者に歩み寄り、理解しようとしているのに、相手は「そっちが間違えている」とひたすら傷つけてくることもあるかもしれません。

しかし、自分の世界を広げ、自分をアップデートし、豊かな人生を生きるためには、そういう体験を繰り返さなければならないのでしょう。 

「寛容であること」は容易ではありません。
それでも、社会の調和のために、そして何よりも自分のために、この修行の旅を続けていきたいと思います。

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