新しい車を買ったのに、心が沈んでいる
いまから6年前に、生まれて初めて買った自分専用のマイカー。
その車を、明日手放すことになった。
マイカーを持つまでは、一台の車を夫と共用していたのだけど、2人目の子どもが生まれた翌月に、我が家の2台目の車をわたし用として購入した。
わたしたちはアメリカに住んでいる。ここでは、車のある・なしが、移動の自由に直結する。車がないとどこにもいけない。家から一番近いスーパーまで、歩けば40分かかる。バスは走っていない。電車もない。
なにも辺鄙なところに住んでいるわけではないのだ。車を保有していることを前提に、街がデザインされているのである。
アメリカに来た当初は、いまとは違うところに住んでいた。
いきなり外国で車の運転をするのは慣れないだろうということで、夫は、車がなくても生活が成り立つ、にぎやかなエリアに家を借りてくれた。スーパーもレストランも徒歩圏にあり、バスや地下鉄を使えば行きたいところへ行けた。
それが変わったのは、2人目の子どもが生まれてから。
生後1か月だった娘を救急病院へ連れていく事態になった。その夜、救急病院から、大きめの小児科病院へ搬送されることになり、わたしは車を運転せざるを得ない状況に、初めて直面したのである。
そこで決定的に痛感した。子どもになにかあったときに、車がない、あるいは運転できないことは命とりになる、と。
それが、マイカーを買ったきっかけである。
運転するのが怖いなんて言っている場合ではなかったのだ。アメリカに永住するのに、車に乗らないなんて選択肢はない。
あれから6年。我が家は車を買い替えることにした。
今日、新しい車を決めてきた。明日わたしの車を売り渡し、新しい車と引き換える手筈になっている。
新しい車は、走り心地もよく、サイズもいまより少し大きめで、運転席の横のスクリーンも大きくて見やすい。明日の受け渡しが楽しみである。
でも、その反面。
なんだか、心を通わせた友達と今生の別れをするかのような気持ちになっている。名残惜しくて、ちょっと心が沈んでさえいる。
この6年、雨の日も風の日も、わたしと子どもたちを連れて、いろんなところへ連れて行ってくれた相棒なのである。別れる日を目前にして、この車にこんなに愛着があったことに今更ながら気づいて、自分でも驚いている。
この6年の歩みが、この車に詰まっているのである。
この車を買ったときは、息子が1歳で娘は2か月だった。2人とも、後ろ向きにカーシートを取り付けていたので、わたしの姿が見えなくて泣いたりしていたなあ、とか。
息子が2歳になって、プリスクールに通い始めた。送り迎えは、もちろんこの車で。あのときはまだ単語しか話せなくて、あーとかうーとか言っていたなあ、とか。
コロナ禍の真っただ中によく通った動物園がある。そこには、小規模のサファリエリアがあって、この車で乗りこんで、週に2、3回の頻度でバイソンやらシマウマやらを見に行ったなあ、とか。
息子が小学校に上がり、娘はまだプリスクールだったころ、2人をそれぞれの学校へ車で送り届けるのに、朝は大忙しだったなあ、とか。
6年連れ添ったバディとの思い出は、子どもの成長アルバムのようでもあった。息子と娘の成長と、わたしの母としての務めの裏には、いつもこの車があった。
車の中の最後の掃除をしながら、一人黙って感傷に浸っていた。
すると、夫がわたしの肩をがしっと掴んで、無言でうなづいた。彼は、わたしの気持ちを察知するのが天才的にうまい。
でも、その顔やめて。君の気持ちはわかるよ、泣いてもいいんだよ、みたいな顔せんといて。この瞬間をドラマチックにしてくれなくていいから。
夫の手を優しく振りほどきながら、新しいバディとも仲良くなれたらいいなと思った。
(おしまい)
読んでくださってありがとうございます。
むかし、一人暮らしをしていた小さな部屋を出るときも、ちょっぴり泣きそうだったことを思い出します。
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