子どもの急患に必死で対応したら、車を運転しないと生きていけないと悟った話
まだアメリカに移り住んで1年くらいだった頃、文字どおり、わたしの生活を一変させる出来事が起こりました。
当時生後1か月の娘が、血便をしたのです。
おむつを替えていた手が止まりました。これ、すぐ病院に連れて行かないといけないやつじゃないか。
母子手帳に載っていた赤ちゃんのうんちの色のグラデーションが頭に浮かびました。でも、そんなもの引っ張り出してこなくても、この赤はどう見ても血だ。胸がざわめきました。
でも、ちょっと待って。
夫は、その日から出張に出て不在でした。出張なんて年に数日しかないのに、よりによってこんなときに。視界の隅には、1歳半の息子がいます。この家に引っ越してきてまだ2週間。周囲に頼れる友人はいない。
わたし一人で、新生児とよちよち幼児を連れて、病院へ行くのか。
このとき夕方6時過ぎで、かかりつけの小児科クリニックはもう診察時間が終了していました。ということは、向かう先は救急病院です。幸い、歩いて行ける距離にある。
でも、この緊急事態にわたしの英語力で乗り切れるだろうか。
愚問です。できる・できないの問題ではない。娘の命がかかっています。やるしかない。それも、いますぐ。
……という思考が頭の中を高速で駆け巡っていたとき、飛行機に乗っているはずの夫から、テキストメッセージが届きました。嘘みたいに絶妙なタイミング。夫は、機内のWi-Fiを使って送信してきていました。普段そんなの使わないのに。
わたしは、今の状況を簡潔に伝えました。
夫は、急に表情を変えて(見えなくてもわかった)、いまわたしがやるべきことをテキパキと書いてよこしました。すぐに準備して救急にいくこと、相当の待ち時間を覚悟すること、お腹が空いたら食べられるものを用意しておくこと、保険のカードを忘れずに持っていくこと―。
娘になにか重大な疾患があったらどうしよう。
いったんこの不安に身を委ねてしまったら、そのまま洪水のように押し流されてしまいそうでした。わたしは余計な思考を頭から振るい落として、目の前のことに集中しました。
救急の待合スペースは、調子の悪そうな人たちで混みあっていました。どれくらい待ったか、もう記憶にありません。こうしている間にも、赤子の小さな体の中で、取り返しのつかない事態が起こっていたらどうしよう。不安と焦りで落ち着かない気持ちのまま、なにも知らない1歳児の相手をして、ただ待ち続ける時間。気が狂いそう。
やっと呼ばれて診療室に案内されました。そこから、医師が来てくれるまでにもまたしばらく待ちました。遅い。すべてのプロセスが遅い。
医師が入ってきて、わたしはすがりつくように症状を説明しました。それを聞いて、医師はいくつか検査をしました。血を採ったり、レントゲンを撮ったりしました。
またしばらく待ってから、医師が検査結果を携えてやってきました。そして、首を傾げながらこう言いました。
「なにが原因かわかりません」
はい?予期せぬ回答にわたしは固まりました。
医師が言うには、腸閉そくなど、原因としていくつか考えられるものを想定して検査をしてみたけれど、結果には何一つそれらを裏付けるものがないというのです。
「なにか見落としがあってはいけないので、大きい病院へ搬送しましょう」
医師がきっぱりと言いました。
え?いまから?このとき、もう夜の11時。
わたしは、これがどれくらいの緊急事態なのかを把握しようと医師に質問しました。そんなやばい状況なのか、一晩待って明朝いつものクリニックで診てもらうなんて悠長なことは言っていられない事態なのか。
医師は、なにぶん新生児だから、慎重を期して、すぐに大きい病院で診てもらった方いいと言いました。わかりました。わたしは覚悟しました。
ただ、娘は救急車で搬送されますが、息子は乗せられないというのです。救急車には、1歳の息子が使えるカーシートがないのだとか。
「なのでお母さん、自分の車でお子さんを連れて運転してきてください」
救急隊員に突如運転しろと宣告されたわたし。凍りつきました。
日本でもペーパードライバーだったんです。もちろん、アメリカでもペーパードライバー。夫に説得されて、娘を産む直前に、アメリカの運転免許証を滑りこみでとりましたが、運転歴はほぼゼロです。
でも、できないなんて言えません。やるしかない。幸い、真夜中で車は少ないだろう。不安そうなわたしを見て、救急隊員のみなさんが、後ろをついてきたら大丈夫だから、と言ってくれました。優しさが胸にしみる。
わたしは、救急車の後をピタリとくっついてなんとか目的地まで無事たどり着きました。途中、信号に引っかかってはぐれそうになりましたが、少し先で、救急車が待ってくれていました。
すぐに当直の医師が診てくれました。ここでも、また検査をやり直して、しばらく待ちました。看護師さんたちが息子をあやしてくれたのが助かりました。息子は、小さなおもちゃをもらったり、走り回ったりして、夜通し元気でした。
検査結果を踏まえて診断されたのは、「牛乳タンパク質不耐症」でした。
牛乳アレルギーとは違います。牛乳に含まれるたんぱく質に対して、免疫系が異常に反応し、胃や腸に損傷を引き起こします。小さな子どもによくある疾患とのことでした。
なにより、原因がわかって安心しました。しかも命にかかわるものでないことを知り、わたしはここでやっと、肩の力を抜いて大きな息を吐きだすことができました。良かった。本当に良かった。
わたしが放心している横で、医師がこんなことを言いました。
「ところで、なんでこんなよくある疾患でわざわざ救急車で運ばれてきたの?」
いや、それ、わたしが聞きたい。
でも、救急病院に行って検査してもわからず、ここへ搬送された経緯を伝えると、医師は合点がいったようでした。小児科医ならすぐに思いつくこの疾患ですが、救急病院の医師には思い当たらなかったんだろう、ということでした。
でも、これでめでたし、めでたしとは終わらないです。ここから、自宅まで帰らないといけません。自分で車を運転して。今度は先導車なしです。
もう夜が明けて、朝の通勤ラッシュが始まっていました。わたしは一睡もしていません。道もグーグルマップ頼みです。こんな頼りないペーパードライバーが、子ども2人分の命を背負って走るのか。
肩の荷が重すぎる。
でも、やるしかない。わたしは、運転しました。
何回クラクションを鳴らされただろう。当時は、車線変更が恐ろしく下手くそでした。自分で気づいただけでも、危ない瞬間が2回ありました。曲がるところを間違えたり、高速の出口を行き過ぎたりして、40分で着くはずが1時間半もかかりました。
血便よりも、わたしの運転する車に乗ることの方が、よっぽど死に近かったと思います。
でも、なんとか無事家にたどりつくことができました。もう、それだけで十分です。もう早朝なんかではなく、完全に朝でした。
この一件をうけてわかったことは、アメリカでは、車を運転できないと、いざというときに命とりになりかねないということです。
ウーバーやタクシーを使うこともできるけれど、赤ちゃん用のカーシートのある車は限られます。夜中ですぐ捕まらないときだってあります。今回のように、いつも救急病院が歩ける距離にあるとは限らない。すぐに動かなければならない緊急事態に、動く手段がないのはリスクでしかない。
そのことを痛いほど理解したわたしは、その日を境に、車に乗るようになりました。運転が怖いなどと言っている場合ではなかったのです。2週間後には、生まれて初めて自分の車を買いました。
だから、わたしのアメリカでの運転歴は、娘の年齢と同じなんです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
《ほかにもこんな記事を書いています》
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?