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序言

 もし私が何かのきっかけで持てる全てを失い、半永久的に独房に幽閉されたとしても、それでもなお生きるに値する人生でないならば、生きるに値しない。失われうるものは既に失われているも同然、全く同然であり、死によって終わるものうちに生の意味や価値を規定するようなものは何一つとしてない。  かく宣う私であるが、無論いまだかつてそのような極限的な状況に直面したことはないし、そういう状況とほとんど変わりがないような絶望的な破局を経験したこともなく、そのような分際でこのような勇ましいだけの言

    • 先日の旅行の10枚

      • 河原

         ある年、ある月の授業参観のさなか、担任の賽河原先生が教室に満員の生徒・父兄の前で失禁、ついで嘔吐した日の帰り、私は石蹴りの石に導かれて、来たことのない河川敷に辿りついた。川縁では、具合の悪そうな子供たちが物悲しげに石を積み上げている。私はこれらの、少年の陰茎のように情けない石塔、および少年たちを、力の限り蹴散らして回った。額をシャツの袖に擦り付けて汗を拭っていると、50mほど川上にある橋梁の上で、両手を後ろ手に縛った賽河原先生が欄干に足をかけているのが見えた。私が驚きの声を

        • 面接

          「シカゴにピアノ調律師は何人いますか?」 「あっ、私の従兄弟がシカゴでピアノ調律師をしています」  私の従兄弟はシカゴでピアノ調律師をしている。彼は昨年度末に京都府立極東ワイマール音楽大学(通称「不協和音大」)の工学部を中退し、すぐに働き口を求めてアメリカへ旅立った。彼は在学中、第二日本語(関西方言)の単位がどうしても取得できず、度重なる再履修の末についに教員にB(ぶぶ漬け)評定を下され、卒業が不可能になったのだ。  私が言い終わると、私をくの字に囲っている長机の右手側

          一昨日、10000円分も本を買ってしまった。バカだ! 私が受けた年の名大入試の漢文が、たしか「本は買うと読まなくなるから借りろ」みたいな内容だった。まあ一理あるのだが… いわゆる積ん読を嘆く人は多いが、彼らは所有ということをちょっと侮っているのではないかと思う。本を買うということが、ただそれを読むことの前段階というだけだとは、つまり文字情報へのアクセシビリティを買うというだけのことだとは、私には到底思われない。 あらゆるもの、グッズは、何らかの機能を果たすものであると同

          タバコ

          「良薬は口に苦し」と言うが、そこから安易に推理すると、良毒および悪薬は口に甘いのだろうか? 自分の中を一旦ガスで満たし、それを吐き出すと、少しだけ自分の存在を無化できる。無化というか、特定の場所に縛り付けられていた、偏っていた意識を拡散させるというか、外なるものを内に導入して自分の内部を外部化するというか…やはり大袈裟に言えば「聖化」なのだが… いつも自分がいる場の空気に呑まれている。そしてこの空気というのが、しばしば本当に空気だったりする。いよいよ夏らしくなってきた近頃

          電車

          すべての道はローマに通ずるそうだが、ということはつまり、ローマを介してすべての道はすべてに通じているわけで… 駅の、臨場感とも言うべき緊張感が好きだ。駅はターミナルであり、限界である。ここを少しでも過ぎたらもう別の土地であるような。 毎日同じ通り、ダイヤ通りに、そして我々には無関心に駅を往来する電車の、特定の一本に乗ったり、その発着を目撃したりすることには、ある種の感動がある。 駅は全国各地に存在するが、別にどれも同じく駅であり、そう大差あるものではない。しかしそのゆえ

          エナジードリンク

          もし「エナジードリンクなんて眉唾」「栄養ドリンクの方が効く」などと抜かす輩がいたら、直ちに脳を摘出して水槽に浮かべ、電気信号で石油王にでも何でもしてやろう。それが一番“効く”のだから。これは正確さを欠く表現だが、エナジードリンクは効かないから効く。何に効くのか分からないから、何が効くのか分からないものに効く。 「エナジー」は虚構である(それに相当する何かしらはあるのだろうが)。虚構だから誇大的に宣伝できるし、誇大的に宣伝すればするほどその虚構性が強調される。こうして虚像が膨

          エナジードリンク

          歯のことを考えると憂鬱になる。衰えゆく私の肉体のその衰えの、最も可視的な部分、衰えの前線、滅びの具象。滅びが、大きく口を開いている… 歯のことを考えると憂鬱になるから、歯医者に継続的に通院できない。歯医者に行ったら、そこでまた次回の予約をしなくてはならなくなる。要は憂鬱を予約するわけであり… 口腔なる、私の最も近くにある闇。私に明かされないその闇の中では、私に明かされない仕方で、常に、今この瞬間も、歯が蝕まれ続けている。死の先兵であり、暗闇の中で薄ら白む、孤独な歯が…