電車

  • すべての道はローマに通ずるそうだが、ということはつまり、ローマを介してすべての道はすべてに通じているわけで…

  • 駅の、臨場感とも言うべき緊張感が好きだ。駅はターミナルであり、限界である。ここを少しでも過ぎたらもう別の土地であるような。

  • 毎日同じ通り、ダイヤ通りに、そして我々には無関心に駅を往来する電車の、特定の一本に乗ったり、その発着を目撃したりすることには、ある種の感動がある。

  • 駅は全国各地に存在するが、別にどれも同じく駅であり、そう大差あるものではない。しかしそのゆえに、初めて来た駅の、いつもの見知った駅とのほんの多少の違い、見慣れなさが、多少どころならず旅情を煽る。

  • 電車は、例えば通勤・通学の際には、呆れるほどありきたりな日常の一場面であるが、遠出なんかの際には、さっき書いた「限界」の印象も伴った、どこかしらからやってきてどこかしらへ去っていく不思議な異邦人としてある。この対照的とも言える二つのイメージはしばしば複雑に入り交じって立ち現われる。

  • 駅の出入り、改札の出入り、電車の待機、電車移動…ひっくるめて言えば「電車行為」が好きだ。駅という場所と時間、鉄道というシステムが、それらに緊張感を与えている。

  • 私が勝手に言っているだけの、「々人」(びとひと)という概念がある。それとは、各々自分の用事や関心に従って動いている大勢の人々のうちの、任意の一人のことである。往来の脇で靴紐を結ぶサラリーマン、スーパーで何かを口走りながら通り過ぎる子供、乳母車を引いて団地へ入っていく老婆…これらはみな々人である。

  • 駅には々人が集う。人々はみな、何かしらの用事があって、どこかしらへ向かう途上にある。そしてそれは私にしてもそうである。々人になれる、このことは私にとってささやかな(ゆえに大いなる)赦しであり、慰めである。大げさに言えば「聖化」だ。

  • 駅メロに弱い。というか、駅の音全般が好きである。特定の誰にも向けられていない音、音楽。世界の音(音の世界)。しかしその無関心さのために、その音はしばしば聞くもの(私であるが…)に直撃する(全部このロジックだ)。

  • 大学4年目の夏に大分県まで1週間近く旅行したのだが、最終日の前日、フェリーにバスにレンタサイクルに徒歩にと一日国東半島を駆けずり回った日の晩に、あまりに疲労が甚だしかったので、日豊本線・杵築駅まで向かうバスの車内で、翌日の予定を取り止めて帰途につくことを決めた。急遽観光最終日となった夜、暗いホームで電車を待っているところに、おもむろに闇の奥から電車の前照灯が現れ、アナウンスに続いて南こうせつの「おかえりの唄」のメロディが聞こえてきたとき、情緒がめちゃめちゃになって膝から崩れ落ちそうになった。最も印象深い駅メロ。

  • 駅メロはよく中断されるが(体感では東海道線なんか特に)、どことなくゴダールっぽさがある。そもそも、駅や電車というロケーションに映画的なところがある。

  • 私は思い出す…一関駅から北上駅へ向かう早朝の東北本線、朝日で真っ白の車内…大分旅行の初日、久留米から日田へ向かうほぼ無人の終電…私は思い出す…新幹線の停車駅である、デカくて立派な燕三条駅の、古くてちっちゃい在来線のホームから乗った、ちっちゃいワンマンカー、ちっちゃい人々…目的地で宿を予約していないままやけくそで乗る、広島発三次行きの終電…私は思い出す…九頭竜線の車内でフランス語の話をする老夫婦…イヤホンで「君に、胸キュン。」を聴きながら新宿へ向かう、朝10時の山手線内回り…勿来、五浦からの帰り、学生の集団に圧倒される常磐線水戸行き…私は思い出す。乗車駅と降車駅の間で起こった、あるいは旅行の隙間で起こった、いや、起こらなかったこと。私が通り過ぎた…それは通らないこともできたが、しかし何かしらは通らなくてはならなかった、無数の光景。これらは全部、それ以上の何でもなかった…ゆえに、私は思い出す。思い出したとて、どうすることもできないのだが…

  • 無方向なものは全方向なものであり、そしてついには一方向である…無人称というマトリックス。この文章は誰に向けても書いていない。ゆえに全ての人間に対して書かれたものであり、特にお前!お前に向けて書かれてある。

  • 結局、俺は電車や鉄道が好きなわけじゃない。俺は別に何も好きではない。敢えて言えば全部が好きなのであって、全部が全部でないとき、何も好きではない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?