タバコ

  • 「良薬は口に苦し」と言うが、そこから安易に推理すると、良毒および悪薬は口に甘いのだろうか?

  • 自分の中を一旦ガスで満たし、それを吐き出すと、少しだけ自分の存在を無化できる。無化というか、特定の場所に縛り付けられていた、偏っていた意識を拡散させるというか、外なるものを内に導入して自分の内部を外部化するというか…やはり大袈裟に言えば「聖化」なのだが…

  • いつも自分がいる場の空気に呑まれている。そしてこの空気というのが、しばしば本当に空気だったりする。いよいよ夏らしくなってきた近頃、冷房の効いた室内から昼間の屋外へ出ると、街の喧騒が、もとい街が、熱気とともに迫り来て、ワッと街に殴られるのだが、その度に、自分がいる空間の温度、湿度、風の有無・強弱、匂いなどが気分や思考に少なからぬ影響を及ぼしていることを改めて自覚させられる。そのときまた同時に、タバコの“脱出装置”としての有効性も再認するのである。

  • いつからか、マッチで火をつけるようにしている。マッチの火は“一つの”火であり、一回性のそれであって、喫煙行為にも一回性を求めている私はこの手間を惜しいとは思わない。手間や不経済や非効率が好きなのではない。

  • コーヒーや少量の酒と一緒に喫むことが多い。それらがタバコと親和的である理由の第一は、タバコの味を、その酩酊感にも近い浮遊感(要はさっき言った「無化」「拡散」の感じ)を損なわないまま(それどころか高めつつ)、相対化してくれるためである。

  • タバコの味…とも、匂いともつかない、一応表現するなら「味」だが…その、形容し難さ…

  • タバコの煙を吐き出してから次に吸いこむまでの間に、何もしない時間がある。「何もしない」というよりか、この間他にできることもないので、「何もしなくてもいい」に近いだろう。免除の時間であり、私はスカラーになれる。あるいは隙間。

  • タバコは一人で吸いたい(目撃されたら、私が凝集し、存在してしまうから)。というか、年々人と一緒に何かをしたいと思わなくなってきている。

  • タバコに限らずであるが、日々の中でどこからともなく生じる、得体の知れない欠乏感、不満感、疲労感、不安感に対しては、不定形の、不特定的な、無意味な“アイテム”でしか、それはつまり“悪薬”でしか対処できない。この「アイテム」の一般的な説明を試みると、ひとまずは…自分のために行われる他動詞の行為の目的語の位置に来る名詞、である。なので、非物質的なものもアイテムとして把握されうる。

  • アイテムは指名される。悪薬は病に指名される。銘柄にはそれぞれ味や過去の経験と結びついた印象があって、厳格にではないがそれぞれのタイミングがある。

  • 吸いかけのタバコがたくさんある。気分(機嫌)でタバコを買ったり吸ったりしているので、一つの箱がなかなかなくならない。もし最低限にしろと言われたら、中南海、ハイライト、マルボロを残すだろう。この3銘柄の守備範囲で、気分(タイミング)の全体の7~8割はカバーできる(欲を言えばエコーとキャメルライトも加えたい)。

  • 中南海は、私がはじめて訪れたタバコ専門店で買った、はじめての“マイナータバコ”である。昨年の春、私は愛知学長懇話会なる単位互換制度を利用して(所蔵されている映画を見漁るために)愛知淑徳大学の講義を受講し、長久手まで15週通っていたのだが、このタバコ屋はその道中にあった。

  • このタバコ屋へは、同年の11月に閉店するまで計3回訪れた(3回程度に留まったのは、私がそんなに本数を吸わないのでタバコが減らなかったからである)。ところで、この3回とも買おうか悩んで諦め、4回目で買おうと思っていたものの行きそびれてついに買えなかった、ゴロワーズというタバコがある。このタバコは2022年の冬に会社が日本から撤退して廃盤になっており、今や本国フランスでしか入手することができない(ちなみに遠慮していた理由は、フランスのタバコなんか吸ってたらかぶれすぎ、気取りすぎだと思っていたからである。仕方ないが悔やまれる)。春先にこのタバコのことを不意に思いだして、ネットで検索をかけたところ、大変な幸運に恵まれ通販で2箱だけ入手することができた。しかし、幸い中の不幸とも言うべきか、このタバコが私の趣味と非常に合っていたので、買い足すこともできないまま減りゆくタバコに日々不安を募らせている。ゴロワーズの代打が一応マルボロで、これはこれでかなり良いのだが、代打として考えたときにはやはり物足りなさがあり…

  • もし残る2箱とも吸いきってしまったら、この欠乏感はもはや解消される術がないのだろうか…一度ある欠乏感に対して特異的に効果を持つようになった悪薬を失うというのは、思いのほか由々しい事態なのではないかと思われる…それは場所を失う感覚にも近い。そういえばこの前名大に行ったら、北部厚生会館が跡形も無く消滅していて、目を丸くしてしまったが…

  • これはまだ全く理屈が追いついていない考えだが…故郷を喪失し、孤独な異邦人として歩き始めることが、また人間として歩き始めることであるような気が、ずっとしている…

  • 近頃は孤独を尊び過ぎている。そんなに人に干渉されたくないのなら、どうして大学もバイトもサークル(?)も、LINEもTwitterも、なんなら人生さら、全部やめてしまわないのか?…と自問されるのだが、そうしていない現在がそのままこの疑問への完全な回答であることは無論として、後付けで理屈を述べるなら…私は確かに存在したくはないのだが、決して消滅したいのではない。それらは等価だからだ。そうではなくて、私は遍在したい。あるいは、局在したい(それらは等価)…などと妙ちきりんな述語を私はとかく振りかざしがちだが…私は哲学者や禅僧や芸術家になりたいのではない。私は何にもなりたくない。任意の名辞Aについて、私はAにも非Aにもなりたくない。俺をベン図の檻から出してくれ!

  • これらの理屈の、もとい私が延々言っている生煮えの哲学めいたこと全般の根底にあって、その動機となっているのは、何か「失うことへの恐怖」とも呼ぶべきものであるように思われる。あらゆる思考活動が、その発端において、喪失に耐える、という方向性、あるいは使命を与えられているように感じられ…

  • 思想は…などと言うと偉そうだが…己の弱さを匿う砦であり、塔である。そしてこの弱さというのは、何かその人に根ざした矛盾である気がして…これもまた気でしかないのだが…いや、ちょっと不用意に、そして散漫に書きすぎているか…しかしかといって、用意周到にものを書くなんてもってのほかだが…特にここ数日の書き物は、書ききること、書き終えることに、そしてどんどん書いていくことに意味があってだね…などと…云々…

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