序言

 もし私が何かのきっかけで持てる全てを失い、半永久的に独房に幽閉されたとしても、それでもなお生きるに値する人生でないならば、生きるに値しない。失われうるものは既に失われているも同然、全く同然であり、死によって終わるものうちに生の意味や価値を規定するようなものは何一つとしてない。
 かく宣う私であるが、無論いまだかつてそのような極限的な状況に直面したことはないし、そういう状況とほとんど変わりがないような絶望的な破局を経験したこともなく、そのような分際でこのような勇ましいだけの言葉を吐くことは、ある種の幼稚な英雄的陶酔のようで、言いながら嫌悪感に苛まれるのだが…しかしこのテーゼが、ただ一握りの英雄的人物にのみ許されたものであるなら、そして私のような平々凡々なる凡人の凡庸極まりない生活の中においては発することも許されないようなものであるなら、そんなものは誰が言ったところで全くの虚言であり、戯れ言であるだろう。
 だが、冒頭の言が英雄的人物の専売特許であり、よって戯れ言である可能性を、実のところ私は完全に否定し去ることができない。しかしゆえに…私は、おこがましさを承知で、敢然とこれを唱えなければならない。もし上のテーゼが、人たるすべての人に妥当する絶対普遍的にして万古不易の真理であるとの確信を持つことができたなら、寧ろどうしてそれをことさらに言う必要があるのか。そうだとしたら、それは読んで字のごとく言うまでもないのである。だから私は確信しているのではない、確信するのである…確信できないからこそ!

 私は冒頭のテーゼを確信し、それを生きる限り、絶望による死、苦痛や困難からの逃避の手段としての死を、どうしても認めることができない。今後いかなる絶望や苦痛や困難に苛まれようと、それどころか苛まれれば苛まれるほど、いよいよ死という選択を許すことができなくなる。何となれば、そこでもし死のうものならそれは、私のそれまでの人生が一切生きる価値のないものであったと断ずることに等しく…いやしかし、それはそれで一向構わないのだが…寧ろその問題点は、思うにそれが「断ずる」行為であるというところにある。もしこういう軽薄なニヒリズムに思考を凝固させる安直さが辛うじて私に備わっていたのであれば、私はそもそもこんな袋小路には迷い混んでいないし、そういう安直さをある瞬間ににわかに獲得したならば、それと同時に私を苛む絶望や苦痛の類いも大方解消されるに違いないのである。私は死にたいから死ねないのであるのと同時に、死ねないから死にたいのであり、死ねるのであれば別に死にたいとは思わない。
 そのような次第であるならば、では、私において死はいかにして可能であるのか?ここまで私は、死ねないだの死ぬわけにはいかないだのと大変幼稚なことを散々抜かしてきたが、その一方で事実として、私は確かに死ぬことができる。そう、すぐさまにでも!この、意志すれば常に死ぬことができるという事実こそ、一人の生における至上の福音であると私には強く思われてならない。
 そして死については、それが(例外的な条件下におけるを除き)いつでも実行可能であるからこそ、今この瞬間を逃せば後にも先にももはや死ぬべきときはないような、つまり、その瞬間に“殉じ”なければならないような、決定的、運命的瞬間が存在するのではないかと考えている。
 あらゆる行為、特に選択は、多かれ少なかれある種の発狂であり、またあらゆる存在は狂気の結果としてそのようにある。必然的でないすべてのものは狂気によってそのようにある。必ずしもなくてよいものがわざわざあり、必ずしもそうでなくてよいものがわざわざそのようにあるということは、それがいかに無害で穏やかな様態を呈していようと、もれなく確実に狂気へ傾斜している。そのような中で、これから為されるある行為が、別様ではありえない仕方で規定され、刹那のうちに必然に見初められるときがありうる。それはもはや偶然なのであるが…必然的に偶然である森羅万象の戯れのなかへ向かって踏み出す狂気の一歩が、突如として偶然的な必然性に捕らえられて、一挙に凄まじき正気へ還る…というようなことが、少なくとも自殺という行為の際にはありうると、私はそう信じてやまないのである。

 この「死ぬべき瞬間」などというものが、果たして本当にありうるものかどうか…一応私は(自分に対して)、いわゆる創造行為の現場において、行為以前には存在しなかったある種の必然性が無から忽然と生じていることを以て、ほぼ同様の機序で発生するはずの「死ぬべき瞬間」の存在の信憑性を補強しているのだが…そういう例証的な説明はあくまで建前であり、万が一創造行為における必然性の発生、もしくは如上の論理展開がきっぱり否定されてしまった場合にも、私は以上の信念を放棄することはないであろう。なぜならば...あらゆる付随的な根拠に先んじて、実際にそのように確信を持っているということが、他ならぬその確信の根拠だからである。というか寧ろ、他に一切の根拠なくそれを信じられるのでなければ、真の意味で確信しているとは言えない。というのは、根拠のある確信、根拠の失なわれうる確信は、所詮一時の説得に過ぎず、その根拠を失えばもはや確信ではなくなるからであり、既に述べた通り失われうるものは失われているも同然だからである。
 そのようであるからして、確信しうる信念とは、確信ということの性質から直ちに導かれることがらのみであって他にはありえない。この性質として、少なくとも今の私に判明しているものとしては、「確信しているというだけで確信の根拠になる」こと、そして「確信しているというまさにそのことが根拠となる確信を、持っていない状態からいきなり持つことができる」ことの二つであり、これらを人生について考えたときには、それぞれ「人生はただ人生というだけで生きるに値する」、「その瞬間に死ぬべきであると直ちに明らかに分かる瞬間が突然に訪れうる」という両信念となるわけである。
 念のため注意しておきたいことだが、この“怒りの日”が存在することと、それが実際に私に訪れることとは似て非なる事象である。私の待ち望むかの日がついに訪れることなく、結果惨めに老いさらばえた末に下らない最期を遂げたしても、その苦痛に満ちた最期の瞬間にまで“怒りの日”の存在を確信できてさえいたならば、私はそれを少しも絶望的であるとは考えない。これまで再三繰り返してきた理屈の裏返しで、失われえないものは得ているも同然なのである。
 “怒りの日”の到来に関してさらに言うと、私にとってその瞬間を想像することは、死後の状態を想像することと全く同様に難しい。死後の状態については、我々が日々睡眠中などに経験する意識のない時間がそれと概ね同じようなものであろうことは予想がつくのだが、その経験を想像するとなると、要は想像する意識の不在を想像することになるわけで、原理的に不可能であると分かる(それにも関わらず、人は遅かれ早かれ確実にその状態に陥る)。そしてこれと同様に、確信を持つ瞬間を想像するということも、確信を持つという行為があらゆる信念に対して最低限懐疑的であることを前提しているからして、つまりある信念を誤って確信だと取り違えるということが絶対にありえないからこそ確信は確信であるわけなので、確信の瞬間を想像できてしまった時点でそれはもはや確信なのである。ゆえに私は、「怒りの日」の存在を信じていながら、その到来については実質的に信じているとは言えない。しかし言わずもがな、この両事実とも確信という態度の性質が招来したものであるからして、矛盾であるどころか当然の帰結なのである。

 ところでここで、「失われうるものはすでに失われている」というのは確信ではないのか、という疑問がありうるだろうが…反省してみるに、これについては確信などではない。私は後述するように、拙い理屈を提示することを目的としてこの文章書いているつもりは毛頭ないからして、もっと異なる仕方で、つまりはより説明的に、以上の文章と概ね同内容のそれを書くこともできたはずで、そうした場合には、このような疑問の生ぜぬように明瞭な説明を心がけるのだが…それはとにかく、以上の命題は、敢えて言うならば私において「呪い」のようなものである。そもそも確信とここで呼んでいる内的態度は、おそらくこの呪いへの応答として獲得したものでしかない。「失われうるものは失われている」という非情な宣告に対して、「失われるものは仕方がない」と切り返し、そして遂には「失われうるものは失われるためにある」、「失われるべきでないものは何も失われなどしない」とやり返すことが、私における生存の方途であったと、顧みるにそう思われる。
 この呪いはまた「面白くなければ、あるいは新しくなければ、存在する価値がない」という異なった形態でも現れてきた。これに対しても、「面白くなったり面白くなくなったりするのが面白いのであって、全ては潜在的に面白く、かつ顕在的には退屈千万である(それでもなお存在してよい)」という応答を私は現状獲得している。さて、これらの呪いの呪いたる所以は、私が私自身の存在に対して不寛容な態度を取るという矛盾、しかもそれが私の意志以前に存在しているという構造にある。それは、「存在するな!」という命令であるどころか、「なかれ!」という否定の命令、追放令そのものであり、何らかの論理性によって成立しているのではなく、否定をただ使命としたヒステリックな運動なのである(以上が私の見当違いであって、実際はそうでない可能性は十分にある。だがもしそうだとすれば、人生には呪いの論理的解決の末にたどり着く安息の地が存在するということになるだろうが、ではそこに至った後の人生とはもはや何なのであろうか?)。
 その呪いを克服するらしい確信とは、端的に言えば自分が自律した自分ならぬものを生み出すことができ、またそれと同時に自分が自分ならぬものへ変化していけるという確信であり、そしてそれでもなおそれが自分であるとの確信でもある。そして再説になるが、そのような確信内容は確信それ自体が完全に体現しているのであり、ただそのゆえに呪いに対抗しうるのである。

 この文章がいかなる意味で序言であるかといえば、まさにこれを書いている人間についての文章であり、その人間における(作文も含む)行為とそのモチベーションについての文章であるという点においてである。だがこの文章は、それらがしかじかのものであると説明するものであるというより、それらはかくあらん、かくあるべし、かくあれかしというような投射的な意図のもとに書かれたものである。計画的に書かれたものなどではなく、計画自体なのである。でなければ、つまり、その文章が行為についての説明であると同時にそのまさに説明するところの行為によって生み出された文章でないならば、文章を書くという行為についての文章としては甚だ不完全なものとならざるを得ないだろう。
 さてそのようであるので、この文章のここまでの擬似心理学的・擬似哲学的内容のいかなる論理的不整合もさしたる問題ではない。上に動員された諸概念は言ってみればこの文章を書き尽くすため、この文章が書かれた経緯を記述するためだけにあるものであり、巷間に行われるいわゆる哲学的議論に踏み込む気などさらさらないからして、この文章が完結するために必要であると私が考える限りを超えた厳密さを求めるつもりはないし、第一それらの概念・論理の使用経緯・目的から言って、それらが拙いことはあっても誤りではあり得ない。例えるのであれば、ここにおける論理、もとい論、言葉は、鎧ではなく梯子であり、最上段まで登ってしまったら後はもう用済みのものである。重要なのは梯子を掛けてこれを登ることであって、梯子は使用に耐える強度でさえあればいいのだ。

 では、そのような個人的な文章をなぜ敢えて他人が読みうる場所に公開しているのかというと、この文章の改編・編集可能性を閉ざして客体化させ、これを“私でなくする”ためである。これについてはすぐ後で詳述するが、とりあえず断っておきたいのは…誤解なきよう、私はこれを読んでいる人間を説得するつもりで文章を書いたのでは全くなく、そうであるからして、例えば冒頭において「これを読んでいるあなたも生きていていい」などと言ったつもりは皆目、毛頭、一切ないということである!私には私しか分からない。私はちょうど人間一人分の大きさの人間である。私は、私と対する他人の中に私を見ることでしか他人を分かり得ない。なので、私の中に自分を見ていない他人、そしてそもそもコミュニケーションをしてもない他人の人生がどうであるかなど、全くもって知る由もない!冷淡に思われるかもしれないが、しかし、私による私についての記述以上に、言い換えれば一個人が自らの“個”性についてした記述以上に普遍的で、ゆえに良心的で友好的な記述がありうるだろうか?
 話を戻して、どうしてこの文章の編集可能性を閉ざして“私でなくする”必要があるのかであるが…まず第一に、このような自己言及的な文章の完成とは文章の死であり、特に私についての文章の完成という意味では、それは私の簡便な死の遂行に他ならない…というと誇張的ではあるのだが、つまりは未組織の思考や感情として凝固していた私を便宜的・論理的に組織して「説明される私」とし、しかる後にこれと「説明する私」の同一を示すことで、私は文章の完結とともに消滅する(この「同一」とは具体的には、根源的な自己否定運動への抵抗としての確信の原理がそのまま作文の原理であることである)。そして、そうしなければならない…「存在するな!」、これは至上命令だからである!
 そのように、この文章は棄却されるために、失われるために書かれたのである。これこそは確信が教えるところの内容と形式の相即である。現に見よ、ここまで数千字と書いてきた挙げ句、私はたった今「この文章は棄却されるためにあった」などと書いたのである!この文章は、この文章の由来から書き起こし…より正確には、この文章を書こうと思い至らしめた想念を端緒として、文章と思考の展開を記述するうちに、その想念がなぜ文章・言葉として出力されなければならなかったかへ遡行し…そして遂にこの文章の宿命について書いている。

 もう一度言うが、この文章は失われるために書かれた。この文章が失われたあとで…つまりこの私の相当に真剣な述懐であったはずの文章が、たかだか似非哲学についての不用意で冗長な文章として世界の一隅に存在を開始したあとで、その後になってようやく私は、自分の失われるための人生を心置きなく始めることができる、そんな気がするのである。

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