本
一昨日、10000円分も本を買ってしまった。バカだ!
私が受けた年の名大入試の漢文が、たしか「本は買うと読まなくなるから借りろ」みたいな内容だった。まあ一理あるのだが…
いわゆる積ん読を嘆く人は多いが、彼らは所有ということをちょっと侮っているのではないかと思う。本を買うということが、ただそれを読むことの前段階というだけだとは、つまり文字情報へのアクセシビリティを買うというだけのことだとは、私には到底思われない。
あらゆるもの、グッズは、何らかの機能を果たすものであると同時に、非機能的な“お守り”であると思う。またそれは所有欲の対象であり、所有欲の対象となるための“形式”である…とは、「グッズが欲しい」という欲望は、グッズに触発されてグッズへの欲望に結晶した何かであり、私はこのとき紛れもなく(機能ではなく)グッズが欲しいのだ(しかし、機能なくしてグッズはグッズたりえない)。それ以前にまず欲望というものが、何かしらの対象をとって「ゴール」を設けることで、その根本にある不満感・不快感・苦しみを一時的に解消するための“形式”であると思っているのだが…
先日丸善で、22000円の(!)精神医学の医学書を買ってしまいたい欲望と小一時間ほど戦う場面があったが…その心性は、誕生日に広辞苑を願った小学生のころからほとんど変わっていない。私は多分ずっと、所有に魅せられている…。
本に関して、このグッズへの欲望、“知識の所有欲”を、文字情報への欲望、”知識欲”と混同しがちであるのは、本の内容を知った後では本がいくらか脱神秘化され、巾着の中身が明かされたお守りのように効力を損じるのだが、それが後者の満足と同時だからだと思う。
中学生のころ通っていた近所の個人塾の先生が「読み終わった本はどんどん売る。少しでも多くの人の手に渡ってほしいから」というようなことを言っていて、当時の私はそれに全く共感できずびっくりした。
最近は、以前に図書館で借りたことがある本を買うことが多い。何か発見があった、あるいは内容を十分汲み尽くせなかった因縁のテキストを、再会する毎に少しずつ買い集めているような感じだ。一昨日買った本は全部で6冊だったが、うち3冊は名大で借りたことのある本だった。というか、繰り返し読むなかで何かが理解されるようなテキストだけが真にテキストと呼ぶに値するのであり、手元に置く意味があるのではないか?…
ただ古本屋では反対に、あまり馴染みのない本を買いがちだ。割合安価であること、品揃えが網羅的でない代わりに珍しい書籍が多いことは理由として勿論なのだが、また売られている本がどれも中古品であることも、この傾向に加担している気がする。新品よりも“他者感”が強いので、未知なるものを期待してしまうのかもしれない(新品に対してそれがないわけでは無論ない)。
最近はあんまり本を読めていない…最近は?いや思い返せば、そもそも俺はいつでもそんなに熱心な読書家ではなかった…ただいつでも、読みたい願望だけはあるのだが…
元気がないときに読めないのは無論だが、元気なときは元気なときでじっと本を読んでいられない。そりゃ全く読めないことはないが…
読書家は尊敬するが、同時にちょっと軽蔑もしている。本って、そんなにどんどんすらすら読むものかね?…
小説を全然読まなくなった。ここ数年、人文系の学術チックな本、および何かしらの論を縷説する本ばかり読んでいる。詩とエッセイは多少読む。どうも私は年々気難しくなって、「物語」を受け付けなくなってきている。ただそれ以外にも、これはそもそもの読書量が減っている理由でもあるのだが、読み始めたら読み進め、読み続けなければならないということに対するプレッシャーが年々増している。始めたら始まってしまう。
大学に入ってからというもの、何かを終わりまでやり抜いた経験がほとんどないのだが、こう未完遂の計画や、後味の悪い終わり方・やめ方をした経験が積み重なっていくと、もはや新しく何かを継続的に始めようと意志することがもう億劫になってくるし、始めたら始めたでそのブレーキにもなる(まずそもそもモチベーションに何かしらの問題があると思うのだが…)。突発的に始めなければ何も始められない。向こうから、未来から指名されなければ動けない。どこかでも書いたが、思い立った日以外凶日だ。
昔から短編集が好きだった。今でも、論集のような独立の(独立性の高い)短い文章がいくつも収録されているような本を好んで読む。それが良いと感じるのは、集中を切らさず読み切れるからというのもそうだが、その本の適当なところから読み始められるからでもあるかもしれない。
最近は本を読み切れな過ぎて、段々読み切ることに拘らなくなってきている。だがそんな次第なので、結構色んな本を手に取ってきたはずなのに、どれ一つとしてろくに説明できない。知識や経験を積み重ねることから逃げてきたツケで、私はどんどん空っぽの人間になってきている。
noteを書き始めたのは、これまで考えてきたことをひとしきり書ききった後で自分に何が残るのかを確認したかったからである。もし私がうっかりそこに私の持てる全てを見いだしてしまった場合、もはやパソコンの前にいるタンパク質ゴーレムに存在価値はなくなるわけだが…
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