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腸を断つような思いで

「断腸の思い」という言葉があるが、現代において腸を切る場合、そのほとんどが盲腸の手術だろう。

大腸の一部である虫垂に細菌が感染し、炎症を起こす。

「虫垂炎」と呼ばれるこの症状を治すための手術を受けるときくらいしか、普通、腸は切らない。

この場合、「断腸の思い」が意味するところは、「ちょっと手術は怖いけど、みんなやってることだし大丈夫。それが終わればこの痛みもなくなるんだから、早くやってほしい。すっきりしたい。」となる。

本来の意味である、苦渋の決断といったニュアンスは無い。

ちょっと怖いけど合理的な判断をするという、インデックスファンドに積立投資を始めるような感覚だ。

このような「断”盲腸”の思い」は、人生の様々な場面で出くわす。

例えば、就職活動。

面接は怖い。

怖がらせることを目的とした圧迫面接などというものまであるのだから当然だ。

しかし、就職できなければ、将来の生活に対する不安を払拭することはできない。

盲腸の手術を受けるように、意を決して慣れない手つきでネクタイを締める。

しかし、人生というものは、必ずしも盲腸の手術のように上手くはいかない。

せっかく「断”盲腸”の思い」で就活し、無事就職できたとしても、その後もなぜか、すでに切ったはずの虫垂が幻肢痛のごとく繰り返し痛む。

働く先を見つけた安心は、そこで働き続けられるかどうかという不安になる。

よしんば働き続けられそうだと安心しても、今度は、本当にそこに居続けて大丈夫なのだろうかという不安に襲われる。

人体における盲腸は切ればなくなる。

しかし、人生における盲腸は、何度でも復活し、痛む。

「これを乗り越えれば楽になる」

そんな言葉が外の世界から繰り返し繰り返し唱えられ、自分も自分でいつの間にかそう思い込み、眼の前の盲腸を切るために奮闘する。

手術が終わると、一時はそれで痛みがおさまったように思う。

しかし、いつの間にか同じような痛みがじわじわとうずき始める。

「これを乗り越えれば楽になる」

またあの言葉が五臓六腑にこだまする。

気づいたら、また手術台に乗っている。

次第に「定期的に盲腸の手術をする」という矛盾が当たり前になる。

手術直後にも、次の手術について考え始めるようになる。

手術を中心に、人生が回り始める。

本当は、その手術台から降りることもできるということは忘れてしまう。

現状は常に炎症が起こっているものと認識される。

それは無限の絶望だ。

しかし、手術の予定を立てるのに精一杯で、そのことは意識に上がらない。

以上に見るように、その場しのぎの「断”盲腸”の思い」は、人間をただの患者にする。

手術の予定を立てることの奴隷にする。

健常者として人生を謳歌したいのであれば、この状態から抜け出さなければいいけない。

心に着せた患者衣を脱いで、思い思いの服装をしなければならない。

そのために必要なのは、大腸のさきっちょだけを切るような、ケチくさく、臆病な「断”盲腸”の思い」ではない。

大腸、小腸もろともねじり切れるような「断腸の思い」を伴った行動である。

人生に生じた炎症は対症療法では治らない。

自分が今立ち向かっているものは、病院や主治医は違うようだが、もう何度も乗り越えたはずの、全く同じ盲腸の手術なのではないか。

そのような問診を自分自身に行っていただきたい。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!