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ブラジルとポルトガル:ヨーロッパ系ブラジル人の起源(1)大航海時代・ポルトガル・ブラジル

前回までにブラジルにはどんな人々が住んでいるのかということを書きました。とくに、ブラジルでは人種に基づく人間類型があるということを指摘しました。人種による人間類型は、日本人が単一民族だと考えるような社会においてはわかりづらい概念かもしれません。ブラジルでは、白人、黄色人、黒人、混血、先住民が用いられています。また、そうした人種と社会階層が結びついていることを指摘しました。

今回は、こうした人種で分類される社会ができる要因となった始まりの部分です。3回に分けてお話しします。

大航海時代・ポルトガル・ブラジル

ブラジルという国の成立を考える場合、ポルトガルについて考えなければなりません。現在、ブラジルと呼ばれている地域は大航海時代にポルトガルの領土に含まれるようになったからです。

1. ポルトガル王国の成立

ポルトガルはヨーロッパでもっとも古い国のひとつです。ポルトガルという国は、レコンキスタと呼ばれる、キリスト教徒によるイスラム教徒に対する戦争の結果、成立しました。

もともとポルトガルを含めたイベリア半島はキリスト教徒である西ゴート王国に支配されていましたが、9世紀にはそのほとんどが北アフリカを経由してきたイスラム教徒に占領されてしました。キリスト教徒は、イベリア半島の北端の山岳地帯に拠点を維持するしかありませんでした。キリスト教徒らはそこでアストゥリアス王国を築き、次第に勢力を盛り返し、イベリア半島南部へ進行していきます。こうした活動が、「レコンキスタ(再征服活動)」と呼ばれています。

ポルトガルの地は、現在のポルト市を中心とする場所で生まれました。イベリア半島の北辺で生まれたアストゥリアス王国(レオン王国、カスティーリャ王国)が、同地を管理するポルトゥカーレ伯を設置したのです。このポルトゥカーレ伯がやがて力をつけて、カスティーリャ王国から独立してできたのがポルトガル王国でした。ポルトガル王国もまた、カスティーリャ王国同様に、イスラム教徒に対する戦いを続け、1249年に現在のファーロ(ポルトガル南部にある大都市)を占領して、現在の国土を創り出しました。

2. ポルトガルはどうして船を出したのか?

しかし、やがてポルトガルは大きな問題を抱えるようになります。

大きな課題は、カスティーリャ王国との関係でした。カスティーリャ王国はもともとポルトガルの支配者でしたし、強大でした。そのため、ポルトガルは常にカスティーリャ王国に合併される恐れを抱いていました。このため、ポルトガルはしばしばカスティーリャ王国と戦争をしたり、婚姻政策をとったりしていましたが、ヨーロッパ大陸の西端にあって、これ以上の領土などを奪って国力を付けることはできない状況にありました

そうしたとき、ポルトガルがとった政策が、海外進出でした。ポルトガルは、15世紀初めから、北アフリカの占領と大西洋岸の探査をはじめました。ポルトガルの狙いは、北アフリカで領土を得ることと西アフリカ周りで金を手に入れることにありました。いずれも、ポルトガル国内の経済活動を補完することが目的でした。

こうしたなかで、北アフリカの活動はある程度で停滞してしまします。モロッコで大きな抵抗にあうからです。

一方、大西洋岸の探査は大きな成功を収めていきます。最初に航海事業を推進したとされるエンリケ航海王子のもとで、ポルトガル船はそれまでヨーロッパ人が足を踏み入れていなかった場所までいたるようになりました。

3.アフリカ沿岸での成功

しかも、のちのポルトガルの海外進出事業で重要になる仕事に手を付けました。ひとつは、黒人奴隷を手に入れることでした。黒人奴隷はやがてポルトガル本国や植民地の労働力として欠かせないものとなっていきます。もうひとつは、開拓事業です。エンリケは、マデイラ諸島やアソーレス諸島をポルトガル領とすると、それらを開拓して、サトウキビを栽培させました。奴隷によって、サトウキビを作らせ、砂糖を輸出するのは後にブラジルで行われることになります。15世紀の段階で、これらの要素が出そろってきたのです

さて、こうした西アフリカでの探検はエンリケ航海王子の死後も続けられました。やがてポルトガルの船はギニア湾に至ります。そしてついに念願の希望だった金を手に入れました。1471年にポルトガルはギニア湾に要塞を築いて、金を本国に運び出しました。当時のポルトガル王は「黄金の王」と呼ばれるほどでした。

4.トリデシ―リャス条約

ところが、植民地や要塞を築いて、大西洋に活路を見出していたポルトガルにとって、非常に大きな出来事が起きました。カスティーリャ王国から支援を受けた船が大西洋を西に進んで、インドに到達したというニュースが伝えられたのです。1492年にコロンブスがアメリカ大陸に到達したのです。

これに対して、ポルトガルは条約によって、カスティーリャ王国の海上進出を押さえようと試みます。そもそも1455年には非キリスト教圏での征服や貿易、布教はポルトガルの専権事項となっていました。ところが、カスティーリャ王国もその後、海上進出を始めます。このときもポルトガルは条約を結んで対抗しました。1479年に、アルカソヴァス条約が結ばれました。そして、コロンブスの成功を受けて、1494年にはトリデシーリャス条約が結ばれます。これによって、ポルトガルとカスティーリャは世界を2分割しました。地図上に線を引いて、西側をカスティーリャ、東側をポルトガルが支配することになったのです。

ポルトガルとカスティーリャ以外の人々にとっては非常に乱暴な議論ですが、現在のブラジルはポルトガルの支配圏の一部に組み込まれていました。ブラジルはまだ発見されていませんでしたが、取り決め上ではトリデシーリャス条約でポルトガルの支配に入っていたのです。

ブラジルとポルトガル:ヨーロッパ系ブラジル人の起源(2)へ続く






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