ブラジルとポルトガル:ヨーロッパ系ブラジル人の起源(3)国名の由来
(2)からつづき
ここまでで確認したのは、1)ブラジルを発見した人物というのは、ポルトガルがインドに派遣した艦隊の司令官ペドロ・アルヴァレス・カブラルという人物だった、2)カブラルらがブラジルに到着したときの様子はカミーニャという人物の書簡から明らかになっている、3)書簡から見る限りポルトガルとブラジル人(現地人)の接触は穏当なものだった、4)その一方でカブラルはその地に十字架を立てるという、かなりヨーロッパ中心のやりかたをした、ということです。
今回はその続き、どうやってポルトガル人がブラジルの地に定住していったのかということになります。
1. カブラルはなぜブラジルへ
さて、発見というと、なんか偶然何かを見つけたという思いがちですが、カブラルの艦隊がブラジルに寄港したのは偶然ではなかったという説があります。カミーニャの手紙の記述が、テラ・ダ・ヴェラクルスの発見を驚きもなく描いていることがその根拠だという説もあります。最初から大西洋を横断すると、何らかの土地があるとわかっていたということです。
だとすれば、インドに行くはずのポルトガル艦隊がわざわざ現在のブラジルに立ち寄った目的は何だったのでしょうか。ポルトガルの目的は常に同じところにあったと思います。それはカミーニャの手紙からもわかります。手紙には以下のようにあります。
前述したように、カミーニャの手紙には先住民に関する記述が多くあります。しかし、ポルトガル人が探していたのは、実際のところ、先住民が黄金などを持っているかということだったのかもしれません。カミーニャの手紙にも、金や銀などがないとあり、ポルトガル人がそれらに多大な関心を持っていたことを示めします。
2.ブラジルボク
けれども、ポルトガル人がここで黄金を見つけるのはかなり時代を経てからになります。16世紀初頭、ポルトガル人がなんとか利益を得られそうだと踏んだのは、ブラジルボクだけでした。
ブラジルボクとは、アジアの蘇芳という、赤い染料のもとになる植物のポルトガル名です。ポルトガル人は、1501年にテラ・ダ・ヴェラクルスで探査を行い、ここでブラジルボクを見つけました。
当時、赤い染料のもととなる蘇芳はイタリアやフランス、フランドルなどで使用されていたので、ポルトガルはブラジルボクを輸出できると考えたのです。ポルトガル国王はこのブラジルボクを専売品として、商人たちに集めさせました。
3.ブラジルボクの交換
ブラジルボクはやがてポルトガル人と先住民を結び付ける役割を果たすようになります。ポルトガルの商人は、当初自らブラジルボクを集めていましたが、次第に先住民との交易を始めたからです。
ポルトガル人にしてみれば、ブラジルボクがかなり広い地域に散在していたため、内陸での伐採に先住民の力が必要だったのです。このとき、交易はポルトガル人が布、斧、装飾品を、先住民がブラジルボクをもたらし、交換したようです。
こうして手に入れたブラジルボクは、ポルトガルの商人がヨーロッパ世界へ運び込みました。そして、それらブラジルボクを持って帰る商人はブラジル人と呼ばれます。さらに、ブラジル人がやってくる場所が、ブラジルと呼ばれるようになります。これがブラジルの国名の由来となりました。
4. ポルトガル人の定住
染料となったブラジルボクは織物業にとって重要な原材料となったのは先ほど話しました。そのため、織物業が盛んであったフランスも安価にブラジルボクを手に入れたかったと考えられます。また、フランスは、ポルトガルとカスティーリャだけで定めたトリデシーリャス条約には不満を持っていました。よく考えてみれば、ポルトガルとスペイン以外の国がそれら二つの国が世界を二分割することに簡単に同意するとは思えません。
フランスは条約を無視して、ブラジルの沿岸に船団を送り込みました。のちには、リオデジャネイロ、マラニャンなどに植民都市を築くほど、ブラジルの占領に力を入れていたほどです。
これに対して、ポルトガルも手をこまねいているはずがありませんでした。ポルトガル国王は、1516年からブラジル沿岸を警備する艦隊を派遣しました。しかし、それも有効ではないので、植民都市をつくって、ブラジルの占有権を守ろうとします。1530年にはマルティン・アフォソ・デ・ソウザという人物をブラジルに送り込んで、サンパウロに集落をつくらせました。
さらに同じ時期、ポルトガル国王はブラジルを15の区画に分けて、実力者に統治させました。カピタニア制というものです。
カピタニアにはカピタンと呼ばれる領主がおかれ、それぞれの州を治めることになりました。領主らはそれぞれの州で自力で開発・防衛しなければなりませんでした。そこで領主はポルトガルで多くのポルトガル人植民者を募ったのです。ポルトガル人植民者にはセズマリアと呼ばれる土地が与えられました。
このとき、セズマリアはほとんど無制限にポルトガル人植民者に与えられましたが、これがのちのちまで続きました。つまり、ヨーロッパ系ブラジル人が大土地所有者である社会が形づけられました。
5.植民社会の発展
カピタニア制のもと、16世紀にブラジルに向かったポルトガル人の植民者は年間3500人、17世紀の初めには年間7646人といわれます。そこから考えれば、ブラジルには数十万のポルトガル人が渡っていたことになります。
こうしたポルトガル人にはすでに述べたように、非常に広い土地が与えられたので、やがてかれらの生活は豊かになっていきます。当時の様子を描いたマガリャインスは次のように述べています。
マガリャインスはブラジルのポルトガル人らの豪勢な屋敷に驚いた調子で描いています。それだけでなく、ブラジルのポルトガル人らはその後、砂糖の生産や奴隷貿易などに携わり、巨大な邸宅を構えるようになります。邸宅の周りに砂糖だけでなく、農場などが建設され、一大生産現場が作られていきました。そこには、まさに大領主としてのヨーロッパ人の姿が見えます。
6. おわりに
(1)で確認したように、ポルトガルはスペインと勝手に世界を二分割しました。そのときすでにブラジルはぎりぎりポルトガル領に含まれていました。
ただし、実際にポルトガルがブラジルを発見したのは、1500年のことでした。発見者はペドロ・アルヴァレス・カブラルという名前です。この名前はブラジル史では非常に重要で、覚えておくとよいでしょう。当初、カブラルはブラジルと思われる土地をヴェラ・クルスと名付けましたが、のちにブラジルボク交易が盛んになると、ヴェラ・クルスはブラジルという名前に代わりました。
また、このブラジルボクをめぐって、ポルトガルは植民をはじめることになりました。ブラジルボクを獲得しようと、他のヨーロッパ勢力に対抗する意味もあって、ポルトガルは各地を貴族に分け与え、ポルトガル人植民者を集めたからです。ポルトガル人らには広い土地が与えられるなどし、のちのブラジル社会の基礎がつくられました。言い換えれば、ブランカと呼ばれるヨーロッパ系ブラジル人が富裕層を占めるような社会はこのときに決定されたのです。
読書案内
ブーチェ、カミーニャ、マガリャインス、ピンガフェッタ、『ヨーロッパと大西洋』大航海時代叢書第II期、岩下書店
カルチエ、テヴェ、『フランス大陸とアメリカ大陸一』大航海時代叢書第II期19、岩下書店
https://note.com/gentle_ruff751/n/nfbf0583ff51d
https://note.com/gentle_ruff751/n/n3afc9cb336d3
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