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ローマ帝国とポルトガル(1)

00.はじめに
ここでは、ポルトガルの歴史についてお話しした際のメモ書きを公開しています。今回はローマ時代を扱った部分です。なお、メモ書きは、アンソニー・ディズニー著『ポルトガルとポルトガル帝国の歴史』に基づいて作ってあります(ほぼ翻訳になってしまっていて、反省ですが)。関心のある方は、Anthony Disney, A History of Portugal and the Portuguese Empire(2009)をご覧ください。

01.ローマ帝国

紀元前7世紀ごろからケルト人の移住やカルタゴの進出などの影響を受けて独自の社会を形成していたイベリア半島西部は、やがて地中海世界の一部となります。ローマ帝国が現在、ポルトガルと呼ばれている地域を支配することになるからです。ローマ帝国は前133年から約500年間イベリア半島全土を支配しました。

ローマ帝国の位置
Heraldry - このW3C-unspecified ベクター画像はInkscapeで作成されました ., CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7477572による

ここでローマ帝国と呼びましたが、ローマ帝国はアウグストゥス(在位前27年~前14年)が皇帝となって以降の古代ローマを指します。単純に、王国は王が最高指導者となり、帝国は皇帝が治めます。もちろん、王国と帝国ではさまざまな定義がありますが、簡単にはそういった区別があります。

それをふまえて、古代ローマは、おおむね共和政ローマ時代と帝政ローマ時代にわけることができます。

ここでいう共和政、帝政は政治制度の違いをあらわします。共和政では、最高権力者はいるものの、おおむね議会によって国が運営される制度を指します。一方、帝政では、皇帝と呼ばれる最高権力者が独裁的に国を運営します。ちなみに、「賽は投げられた」や「ブルータス、お前もか」などのセリフで知られるカエサル(前100頃~前44年)は共和政時代の政治家です。それから暴君と恐れられたネロ(在位54年~68年)は帝政時代の皇帝です。

ポルトガルがローマから干渉をうけるのは、共和政時代と帝政時代のはざまにありました。

共和政時代は、ローマが都市国家からイタリア半島を統一し、北アフリカなどでカルタゴを破って地中海沿岸のギリシアや小アジア、そしてイベリア半島の一部がローマ領となります。

そして、前60年から前43年のカエサルの時代には当時ガリアと呼ばれたフランスが支配されます。さらに、帝政期にはアウグストゥスがエジプトを征服するなどし、版図が拡大します。加えて、前96年までには北アフリカの沿岸部、イギリス本島なども支配しました。

02.カルタゴからローマへ

紀元前3世紀後半、まずポルトガルはカルタゴの属領となりました。カルタゴは、カルタゴ=ノヴァ(現在のカルタヘナ)を中心にイベリア半島をおさえ、そのなかにポルトガル南部が含まれました。また、カルタゴはルシタニ族とも友好関係を結んでいたようです。ルシタニ族は、カルタゴによるローマとの戦争のために、兵士として雇われたといいます。

一方、ローマは当初、イベリア半島などへ進出するつもりではなかったといわれます。しかし、カルタゴとの覇権争いの結果、イベリア半島の征服を企てることになります。

きっかけはカルタゴの将軍ハンニバルによるピレネーとアルプス越え作戦でした。ローマはイベリア半島を基盤に攻撃を受けたことから、同地を征服する必要があると判断したと考えられています。ローマはハンニバルを打ち破ったのち、カルタゴが支配したイベリア半島に侵攻し、前209年にはカルタゴ・ノヴァを陥落させ、前206年にはカルタゴ人をイベリア半島から追い出してしまいました。

ハンニバルの行路
Frank Martini. Cartographer, Department of History, United States Military Academy - The Department of History, United States Military Academy [1], CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=217889による

03.属州ヒスパニアの形成

前206年にカルタゴを排除すると、ローマはイベリア半島の支配を強化します。歴史家のディズニーは、こうしたローマの行動がカルタゴの勢力をそぐことを目的とすると同時に、この地域の地下資源や農業資源に魅力を感じたからだと分析しています。

そして、前197年になると、ローマはイベリア半島に二つの属州を設置します。ヒスパニア・キテリオールとヒスパニア・ウルテリオールです。

197年頃の属州ヒスパニア
Hispania_1a_division_provincial.PNG: Hispaderivative work: Jkwchui - このファイルの派生元: Hispania 1a division provincial.PNG:, GPL, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19980233による

ヒスパニア・キテリオールは、ローマに近い地域を指し、おおむねエドロ渓谷とヴァレンシア、そしてムルシアを含んでいました。

一方、ヒスパニア・ウルテリオールは、ローマから遠隔地で、アンダルシアを中心にして、のちにグアディアナ川の西、つまりポルトガル付近までをカバーしていました。

当初、ヒスパニアにおけるローマの支配は過酷だったといわれます。支配者であるローマ人が、金、銀、銅、小麦、ワイン、オリーブ、奴隷などの商品をすべて奪ったというのです。その結果、住民の不満が充満し、やがてヒスパニアで反乱が起こりました。しかも、その反乱は、ヒスパニアに帰属しないイベリア半島西部の住民も加わって、激しさを増しました。ヒスパニアの支配はイベリア半島の住民にとってとても不安なものだったのでしょう。

このようにヒスパニアに従わない人々まで反乱に加わったものですから、ローマはイベリア半島全土を支配下に置こうと計画し始めます。詳細はあいまいですが、ローマはこの時期ポルトガル南部にいたコニイ族をローマの同盟者として扱い協力者を増やしました。そして、前150年ごろまでにはアルガルヴェとアレンテージョがローマ領となります。

もっとも、アルガルヴェやアレンテージョがローマ領に組み込まれるのが早かったのは当然ともいえます。これらの地域はカルタゴ以前から地中海世界になじんでいたからです。

04.ルシタニ族の抵抗

ところが、テージョ川以北の中部、あるいは北部の山岳地域は、全くローマに服属する気はなかったようです。ポルトガルの北半分での抵抗は激しく、ポルトガル全土がローマに支配されるまで175年ほどかかったといわれます。

なかでも、ローマにとって頭痛の種となっていたのは、ルシタニ族でした。この頃、ルシタニ族はベイラを中心に定住していました。ルシタニ族は平野にある豊かな地域を襲撃することを習慣にしていて、古くはエストゥレマドゥーラなどもその被害に遭っています。この時代にはそれがヒスパニア・ウルテリオールにまで及んでいたといわれます。

そうしたルシタニ族の勇猛さはとても有名でした。ルシタニ族といえば、馬にまたがり、野性味のある髪をなびかせ、円盾を型に載せて、槍などで武装していたとされます。そのためか、ポルトガルで最初に個人の名前が記録されたのはルシタニ族の軍事指導者たちでした。ルシタニ族は、プニクスやカエサルス、そしてカウカエヌスなど、ラテン語で名前が残されています。

ウィリアトゥス像
De Eduardo Barrón González - Trabajo propio, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4630135

なかでも有名だったのは、ウィリアトゥスでした(ちなみに、ポルトガル語では、ヴィリアトと呼ばれます)。

ウィリアトゥスが有名になったのは、ローマ軍を何度も打ち破ったという逸話が残っているからです。ウィリアトゥスはローマ軍に恨みを抱いていたようです。かれは若いころ、ローマ軍によって殺されそうになっているのです。前150年の話ですが、ローマ軍の司令官が、交渉をすると見せかけて、ルシタニ族を大量に虐殺したのですが、そのときの生き残りの一人が若きウァリアトゥスでした。その後、ウィリアトゥスは、前147年から前139年までの七年間休みなく、ローマに戦を仕掛け、敵を何度も打ち破ったとされます。

05.抵抗の終焉

とはいえ、ウィリアトゥスの死後、ルシタニ族の抵抗は低調となります。前138年~前137年、ローマはテージョ川流域の支配を固め、ガリシアのような北方でまで攻撃を加えたとされます。そして、この頃からルシタニ族が南部に襲撃を加えたという史料はなくなったといわれます。

ウィリアトゥスの死を描いた作品
By José de Madrazo y Agudo - [1], Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24253503

ただし、ルシタニ族のローマに対する敵対心は残っていたと考えられています。例えば、前80年に起きた内戦では、ルシタニ族はヒスパニア地方軍に協力して、ローマから送られてくる軍隊と戦ったといわれています。

その後もルシタニ族は断続的にローマに対して攻撃を行ったようですが、三頭政治(前61-前44)の時代にその大部分がこのときに服属したといわれます。この時代に、テージョ川とドウロ川の間にある土地が、次々とローマ帝国によって占領されました。こうしたなかで、ルシタニ族はローマ帝国の一員となったようです。イベリア半島以外で、傭兵として活躍するようになったのです

その後、ローマ領に組み込まれていないのは、ポルトガル北部の山岳地帯だけとなりましたが、それもアウグストゥスによって征服されました。アウグストゥスは同地において前24年から組織的な征服活動を指揮し、前19年は征服を完了したのです。

ちなみに、すでに述べたように、ローマによるポルトガルの支配には175年もかかったといいます。こんな膨大な時間がかかった背景には、やはりポルトガルがローマの中央から遠い場所にあったからです。ローマ軍は険しい地形であまり効果的に行動できなかったし、ときには中央から離れた地域にあることで内乱の温床ともなりました。言い換えれば、地の利というのが、好戦的なルシタニ族が抵抗をつづけることできた要因でもあるわけです。


ローマ帝国とポルトガル(2)に続く


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