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思い出の場所である海へやってきた理由

彼と出会って、1年になる。
結婚生活を25年した私は、同じ生活を続ける我慢はできても、男性を信じることができなくなってしまった。そんな自分の心に向き合った1年でもある。

「せっかくの記念日だから、京都まで日帰り旅行をしましょうか?」
彼のめずらしい提案に心が躍った。紅葉を見ながら、ちょっと贅沢なランチをし、着物を着て京都の街並みを歩く…息子とはできないような、大人の休日が目に浮かぶ。

「いいですね! ぜひ、行きましょう!」
小さな子が、遠足を楽しみに待つように、私もその日を楽しみにしていた。以前、彼とライブに行く約束をしたが、当日、急な仕事が入りダメになってしまったことがあったからだ。
今度こそ! 
前回の無念さを晴らしたい気持ちもあり、楽しみに待っていた。  

京都に向かう1週間前、彼からLINEがやってきた。
「父が倒れてしまいました…」
病院から彼はメッセージを送ったようだ。
「…今日は、会えなそうです。落ち着いたら、また連絡します」
仕方がないことなのに、彼が遠くに感じてしまう。

あなたとは、家族ではない。
そう突き放された気持ちになったのかもしれない。家族のように近い彼だが、現実には家族ではない。私には病院に駆けつける権利もなく、彼のためにあけていた時間を、ぼんやり過ごすしかなかった。一番近くにいると思っていただけに、なんだか彼が遠くに行ってしまったような気がする。結局、人は、血のつながりのある家族のもとへ戻るのだろうか。

お父さんは、しばらく入院しなければならないようだ。
「旅行をキャンセルしましょうか?」
私はそう問いかけるしかない。
「ごめんなさい。キャンセルをお願いします」
彼からは、またキャンセルをお願いする連絡がやってきた。

キャンセルは仕方がないことだと頭では分かっている。
でも、できる限り行けるように努力をして欲しかったのかもしれない。
私との記念日を祝うことをあっさりと手放すのではなく、もっと執着して欲しかったのだろう。
理性的な判断が、私には寂しく心に響いた。

まるで、彼は私を必要としていないかのような姿にも心が揺れた。
病院から戻った後も、私に「会いたい」とは言わなかったからだ。辛い時に、私にそばにいてほしいと思わないのだろうか。LINEを送り合ううちに、心の温度差がイライラへと変わっていく。

寂しさから、私は彼を遠ざける言葉を発した。
言葉を荒げ、彼に攻撃的な言葉を投げつける。
そして、彼を傷つけながら、同時に私自身も傷ついていた。なぜうまくいかないのだろう? 悲しいと素直には言えず、強がって彼を突き放そうとしてしまう。

数日間、彼と電話で言い合いをした。
どんなに言葉を尽くしても、心が伝わるような気がしない。
辛い時ほど必要としてもらい、ただ彼の弱さを見せて欲しかったのかもしれない。冷静にLINEをもらっても、彼から突き放された気持ちになった私の心は、誰にも受け止められずに宙に浮いたままになってしまう。

スマホに触れると、スタート画面に彼の写真が現れた。
胸に押し当て、ぎゅーっとスマホを抱きしめると、涙が急に溢れてきた。彼も同じように行きたかったはず……そう信じられないような、一人にされたような、言葉にならない寂しさが込み上げる。

「1年前、私たちが初めてデートした、海の見えるカフェに行きませんか?」
数日後、彼を久しぶりに誘い、同じカフェを訪れた。11月のわりには、寒さを感じず、暖かな風が私たちを優しく包み込んでくれる。
私たちは多くを語らず、ただ波音に耳を澄ませた。

ランチを終え、店内から出ると、海までの小道を二人で下りる。
1年前と同じルートを戻るかのように歩いて行った。
一人しか通れないくらいの小道には、ところどころに大きな蜘蛛の巣が垂れ下がっている。私の顔にかからないようにと彼が前を歩き、そっとよけながら、海へと向かった。

海にやってくると、石段のようになっている一番上の段に、彼は腰を下ろした。
両足を広げ、足と足の間に私が座れるような小さなスペースを作った。私はそのスペースにすっぽりと収まるかのように、腰を下ろす。後ろから、彼の手が私を包み込み、彼の腕の中で、しばらく黙ったまま海を見つめた。彼の腕の感触が、私のトゲトゲした心を、少しずつほぐしていく。心が緩むにつれ、目からは涙が溢れてきた。

そんな私を見て、彼は私に語りかける。
「1年前は、お互い立ったまま話をしていたね。手もつながず、お互いの過去の話をしていたよね」
1年前を思い出す。

人は、時に心が合わないこともある。
言い争いをしてしまうこともあるだろう。
大事なのは、人とトラブルが起きないようにと気をつかい、心をすり減らせるのではなく、合わなかった後に、どう寄り添えばいいかを考えることなのかもしれない。

彼が私の後ろから、私をぎゅうっと包み込んでくれ、その腕から伝わってきた彼の心は、「君は君のままでいい」と告げてくれたような気がした。

私は、また聞き分けの悪い女性でいるかもしれない。
また、人を信じられなくなるかもしれない。
また、男性を遠ざけようとするかもしれない。
それでも、きっと彼ならば、そんな私に温かさを与えてくれるかもしれない。

京都の素敵な思い出は手に入らなかった私だが、彼の腕の中で海を見つめたあの温かさは、きっとこれからの私の人生に光を与えてくれるだろう。